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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

生きてないと死ねない~笑い続けて生きていたい~2019年2月15日

 靴下が履けなかった頃のはなし

自分の人生で最も挫折感を味わった頃と言えば、靴下を履くことの出来なかった頃になるだろう。あの頃は恐ろしいほど、何も出来なかった。箸も上手に持つことが出来なかったし、買い与えられた服を着ることも出来なかったし、言葉をきちんと話すことも出来なかった。

その頃の私にとって、ドラえもんはドエラモンだったし、箸は掴むものだったし、靴下は履かなくて良いものだった。それは私の人生をかなりボキボキと折って、生きづらいものにさせた。ドラえもんをドエラモンと言うと、「何それ?ドラえもんでしょ?」と友達に言われて恥ずかしい思いをしたし、箸を掴んで食事をしていると、友達から「パパとママに教わらなかったの?」と笑われたし、靴下を履いていない私を見ると、友達は「くっせー!」と鼻を摘まんで私の裸足を指さすのだった。

毎朝、目が覚めて靴下を見る度に、「これは私の人生には必要の無いものだ」と思うようになった。靴下を履こうとしてもがき苦しむ時間を作るくらいだったら、ポンキッキーズを見て笑っている方がマシだった。そのうち時間がやってきて、親の目を避けて靴を履いてしまえば、靴下を履かなくても良い一日が始まる。爽快だった。とても爽快だった。みんな、どうして靴下を履いてしまうのだろうと思った。というか、靴下は靴の中で履いているのだから、靴中、もしくは足下じゃないのか、と思ったりもした。それほど私は靴下というものが好きではなかった。

それでも、親にバレてしぶしぶ靴下を履かなければいけない時もあった。

私はかなり抵抗した。自ら靴下を履けない子供を演じたこともあった。

「手が届かない」とか「足がベトベトして履けない」とか嘘をついて、母親に履かせてもらったこともあった。それでも、学校に着いたらすぐにトイレに駆け込んで靴下を脱いだ。上履き入れの袋に靴下を入れて、私は裸足で学校生活を過ごしていた。

脱ぐのは簡単だった。足と足とをこすり合わせていれば脱ぐことが出来た。こすり合わせるのは楽しかった。片方の足の指先で靴下をロックして、靴下を押さえられている方の足をグッと引っ張ると、ぐいいいんと靴下は伸びつつも、足がスポッと抜ける。

それがとても気持ち良かった。一旦、片方の靴下を脱いでしまえば、もう片方は意外と簡単に靴下をロックすることが出来て、いとも簡単に靴下を脱ぐことが出来る。

脱ぐは易し、履くは難しだった。

そんな私の喜びを知りもせず、またその喜びに気づかない友達(果たしてそれを友達と呼べるかどうかは分からないが)は、私の裸足を見つけて笑うのだった。それがとても悔しかった。どうして私の喜びが笑われなければならないのだろう。私は私なりに、一番気持ちの良い状態でいるのに、むしろ靴下を履いていることや、履こうとする行為そのものが嫌で嫌で仕方がないのに、靴下を履かないということは、友達が笑って指を指すほど、奇妙なものであるらしいと私は実感した。

他人にとって奇妙に映るものでも、私にとっては当たり前であるということが、人よりも多かったことによって、自然、私にはあまり友達が出来なかった。友達百人など未だに夢のまた夢である。

というか、私は自分が正しいと思うものを馬鹿にする人を避けたし、嫌った。可哀想だとも思った。靴下を履くことを正とする人々が、靴下を履くことを正としない私の尊厳を傷つけた時も、怒りと同時に「可哀想な人だな」と私を馬鹿にした相手に対して思うようになった。この良さを理解できなくて可哀想、と思うようになった。

それでも、結局私が靴下を履くようになったのは、人付き合いが面倒になったというのもあるし、案外、簡単に靴下が履けるような体になったからというのが大きかった。ぐっと体を屈めて靴下を履くコツを発見し、意外と楽に靴下が履けるようになった時は、靴下が履けなくて苛立っていた思いが解消され、むしろ靴下を履くことに慣れて、そのうち、靴下を履くことに対して何とも思わなくなった。

靴下がなぜ靴下と呼ばれるのか、未だに意味は分からないが、私は少なくとも外出中は靴下を履くようにしている。家に帰ると真っ先に脱ぐ。出来ることならば履いている時間がなるべく少なければ良いと思っている。靴下を履く時間が0.1秒くらいになったら、非常に便利だろうと思っているし、自分の人生をあまり靴下を履くことに費やしたくないと思っている。積み重なれば、私は一生のうち何日ぶんの時間を靴下を履くことに費やすのだろうかと想像して、少しばかりゾッとする。それでも、今はすっかり靴下を履かなければならないと思うようになった。が、出来ることなら履きたくない。

 

満員電車と精子の時代

満員電車に乗り、目的の駅に到着し、電車からぞろぞろと溢れ出す人の姿を見ていると「この人たちは精子の時からずっとこんな感じだったのだろうか」と思うことがあった。確か何かの短編で読んだ。大勢の人が歩く中を、誰ともぶつからないように生きている男がいて、そいつの祖先は江戸時代にも同じように人混みを避けていて、縄文時代にも同じように人混みを避けていて、最終的に精子の時に精子の群れを避けた時に卵子に着床した。みたいな話があって、正にそれが現代の社会でも起こっているのだと思う。

そんな世界の見方が私の中にインプットされてしまっていて、時折エスカレータに乗り込むサラリーマンの集団を見ていると、この人達の中で、たった一人がエスカレータの先の卵子に着床するのだろう、と想像して一人で笑うことがある。

何を期待されてこの世の中に生まれたかなんてことは、誰にも分からない。レールと擦れ合った車輪の軋む音を耳にしながら、所定の位置で停車した電車が人々を吐き出すときに、人々は何を思って電車を降りているのだろう。

会社に行かなくちゃいけないと思っているのだろうか。

今日はこの仕事を片付けようと思っているのだろうか。

突然、電車が不慮の事故か何かで停車すると、車内にいたサラリーマンは慌てて携帯を取り出し、恐らく勤め先の上司であろう人に電話して「すいません、電車が遅延して出社が遅れます」というようなことを言っている。

これ、精子だったらありえないよね、と思う。

「すいません。精子の数が多いんで、私は着床できません」とか

「すいません。疲れちゃったんで、卵子への着床が遅延しそうです」とか、報告するのかな、と想像して、結局、また一人でニヤける。

この人達の中で、何人が靴下を履いているのだろうか、と想像したりもするが、全員が靴下を履いている。靴下を履いた精子。長靴を履いたネコ。みたいなものか、と想像して、なぜかニヤリ。

 

生きてないと死ねない

誰かからの過剰な期待は、嬉しいと思う反面、かなりの重圧になる。

君ならできるよ、とか、君にしかできないことなんだ、と聞くと、勘弁してくださいよ、と思う。そんな大きなこと、したくないっすよ。と思う。

思う、が、任してください、と言ってしまう自分がいる。

あっ、やべえな、と一瞬思う。

期待に応えられない自分を想像して、やべえな、と思う。軽はずみで発言して、期待に応えられなかったらダセェとも思う。でも、やるだけのことはやって、一所懸命に自分の出来る限りはやってみて、それでもだめだったら、しょうがねぇ、と諦めることにしている。結局、失敗したら、とにかく人のせいにする。凄くワルい奴だな、と自分に対して自分で思うけど、人のせいにしないと、結局悩んじゃうから、すぐに人のせいにする。悪いのは私じゃなくて、私に期待したあなた、と思うことにしている。

でも、それはかなり最終手段である。殆どの場合は、何とか期待に応えられている。本当に、首の皮一枚に全神経が集中してるくらいのギリギリさで、なんとか人のせいにせずに済んでいる。

落語に出てくる登場人物は、結構ワルイ人達も出てくる。一緒に死のうとして死ななかった人だったり、不倫を隠す人だったり、誰が落としたか分からない財布を拾ってきちゃったり、饅頭が怖いと言って言葉の隙間を突いたり、嘘を教えて恥をかかせたりする。でも、なんで笑えるかと言うと、結局、自分もそういう人間だからなのだと思う。

なんだかんだ、一所懸命にやっているけれど、遊びたいときは思いっきり遊びたいし、ふざけたいときはふざけたいし、自分の筋は通したいと思ったりもする。盗人にも三分の理なんて言葉にもあるように、どんなに悪いことだって、どんなに筋の通らないことだって、なんだかんだ筋が通って、理屈が存在してしまう。そういうTHE 悪な世界も確実にあって、それはそれで良いのだと思う。

確か筒井康隆先生が『モナドの領域』で書いていたと思うのだけど、「人間が人を殺したり、戦争をすること。極論を言えば、人間のする行為は全て肯定できる」みたいな言葉があって、もしかすると全然違うかも知れないのだけれど、その言葉を読んだ時に「そうだよね」と思う自分がいた。人間は生きているだけでいいんだな、と思っていたのだけれど、筒井康隆先生の本を読んで改めて実感したというか、そんな感覚があった。

人間は生きてないと死ねない。死んでたら生きられない。生まれてくる時に死んでた人なんていないと思う。みんな、生きてるからこそ死ねるし、人と争えるし、人を憎んだり、愛したりできる。生きてるからこそ、って部分が重要だと思う。

どうせ100年後にはみんな死んでいる世界なのに、なぜかその命を短くしたりする。その後の人生を生き辛くしたりもする。勿体無いな、と思うけれど、それが人間だよね、とも思う。こんなこと、文章だから言えるけれど、人と話をして理解してくれた人は少ない。というか、こんなことを書くことによって、改めて自分の考えの根幹を探ろうとしている自分がいる。

なぜこんなことをツラツラと書いたかと言うと、演芸に携わっていると、意外と政治とか現代社会の在り方に発言する人が多くてびっくりしたというか、自分には無い考え方を持っている人がたくさんいるんだな、と思うことが多々あって、それは別に「見なければいい」ので、殆ど見ていないのだけど、たまに目に入ってくると「なぜこの人は、こんな風に思ったんだろう」と気になってしまうことがあって、かなり抽象的にボカして書いているけど、何ていうんだろう。私はあんまり物事を細部まで見ていないのかも知れないな、と思うことがあった。

何年か前に、「私は人間のするべきことの全てを肯定して生きる」と発言した時に、とある人から「それは危険な思想だ」と言われた。詳しく説明は無かったのだけれど、なぜ危険な思想なんだろう?と自分で考えてみて、何となくわかった。つまるところ、私は自分が殺されても憎しみを相手に抱かない思想の持主であるということだ。

確かに、出来ることなら殺されたくはない。殺されたら仕方ないと思うし、もっと生きたかったな、と思うだろうし、なんでこいつに殺されなきゃいかんのだ、と思うかも知れない。でも、最終的には「生きてたから、死ねた」みたいに思うのかも知れない。

書いていて、全然分からないし、これも永遠のテーマではあるんだけれども、何で自分はこんなに身の回りのあらゆるものを肯定して生きていられるんだろう、と思うことが多々あって、それはただ単に、その物事から遠くにいるのか、もはや自分の人生をあきらめているのか、生きているというそれだけで満足しているのか、これが全く自分でも分からないのだ。

もうかなり堂々巡りで意味不明かも知れないが、私は生きているし、そのうち死ぬだろう。生きている限り、笑っていたいのだ。何か面白いことを探し続けていたいのだ。

出来ることなら、人生に何の苦労もなく生きていたい。苦労しなきゃ人間は成長しません。ということを「大嘘やん!」と一蹴したいくらいの気持ちである。

結局、色んな固定観念とか世間一般の「こうあるべき」を破壊したいだけなのかも知れない。もうね、こうなってくると、推測ばっかりなんだけれども(笑)

たまに深夜のテンションで書き綴ってみた。

今宵はここまでに致しとうござりまする。

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