落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

誇りある今を生きる~2019年2月24日 浅草ロック座~

見たいものは見たい。俺はそれを我慢できない。

 

Don't Stop Me Now

正直に白状するが、私は女の裸体というものに尋常ならざる興味がある。

直接に見ずとも、白桃を齧る時なぞ無意識の内に女の裸体を想起し、山が連なる様なぞは格別で、海に浮かぶ藻なぞを見ると武者震いし、白磁器を見ると腰が抜ける。

実物を見たら気を抜かす私であるが、今回はどうしても我慢できず、女の裸体を見るためにとある場所を訪れた。

 

浅草ロック座と神々の話

通い慣れた浅草演芸ホールを過ぎ、月に乗り呑気な表情を浮かべるペンギンの店を過ぎ、勝負師たちの自転車がずらりと並んだ『PANDORA』というパチンコ店の手前にそれはある。

名を浅草ロック座。昭和22年の創立で収容人数は約130名。

現存するストリップ劇場の中で最も歴史が古く、数多くの女性がこの場所で服を脱ぎ、男達はその姿に魅せられてきた。

裸に魅せられるのは何も人間だけではない。

もとより、日本では裸に魅せられた神々の有名な話がある。

かつて、天照大神は素戔嗚の乱行に堪り兼ねて天の岩屋戸に籠った。

そして世には常闇が訪れた。

神々は頭を悩まし様々な策を講じたがどれも上手く行かない。

そんな悩みの最中、一人の女(天鈿女命)が上半身を露わにして岩屋戸の前で踊った。

それを見た神々は腹を抱えて笑い、その笑い声に疑問を抱いた天照大神は岩屋戸から顔を出した。それがきっかけとなり、天照大神は岩屋戸から引きずり出される。

これは、日本神話『天岩戸』の要略である。

古来から、裸体と笑いは神をも誘うらしい。ならば、私が誘われるのも無理はない。伊弉諾尊ならぬイザナワレノミコト、である(何が”である”かは分からぬ)

 

早朝 長蛇の列

開場時刻の12時前に浅草ロック座に辿り着くと、既に50人ほどの列である。隣の『PANDORA』からは箱を開けるまでもなく呪われた勝負師達が、天中殺で生きていることに気づかぬ様子で、目にいっぱいの悔しさを滲ませて、おしぼりを誰のものとも分からぬ自転車の籠にぶっきらぼうに放り投げると、「ちっ」と舌打ちをして去っていく。

ロック座の列に目を向けると、欲望に目を輝かせた中年が大多数を占めているかと思いきや、意外にもちらほらと美人な女性の姿も見える。ワンカップを片手にどこのメーカーの、何という文字が書かれているかも分からない薄汚い帽子を被った髭面の老紳士が、下卑た笑い声をあげ、美人に向かって「へへっ、ねぇーちゃん。この行列は何の行列だい?」と、さも知らないという素振りを装って話しかけ、美人はあっけらかんと「ストリップですよ」と答え、予想外の答えに拍子抜けした老紳士は、「そうかい」とつまらないと言わんばかりの表情で去っていく。浅草よ、私はお前を愛す。

開場時刻になって、ぞろぞろと列が進む。まるで監獄に収容される囚人のような心持ちで前の人に従って歩く。足に鉄球は無く、笠も被せられていないが、どうにも囚人のような後ろめたさを拭い去ることが出来ず、列に並ぶ男達の顔を眺めては心の中で「あなたも、あなたも、みんな、共犯」と呟いて自らの心を慰める。

合法的に裸体を見るのだ、という言葉が頭をもたげ、『合法的』という言葉に引っかかりながらも、入り口の手前に来る。綺麗なハート型の風船と花が飾られ、出演する演者の名が書かれたプレートを発見する。その真っ赤な花の色に目を奪われながら、一歩一歩階段を上ると、壁は鏡張りになっていて、自らの顔を嫌が応にも見なければならず、何とも言い難い無表情である自分を見つめ、「案ずるな、委ねろ」と再び心中で祈り、木戸で7000円を支払った。たっかい。

 

ステージ 強面の統率者

丁度、消しゴムにマッチ棒の火を点けない側を突きさし、火を点ける赤い方を自分に向かって倒したところを想像して頂きたい。それが会場の舞台である。

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マッチ棒の赤い部分は円形で、360℃回転する。棒の左右と赤い部分に椅子が置かれており、大体130席ある。私は丁度、マッチ棒の赤い部分を正面から見る位置に座った。いわゆる『かぶりつき席』である。(読者からの冷たい視線を感じる)

会場内は『飲食禁止』、『携帯禁止』である。この規則を破ると、ロビーで券をもぎり、会場の統率者として君臨する強面の男性に烈火の如く怒鳴られる。私の隣にいた若い男性は会場内で携帯を使っていたがために、物凄い剣幕で怒鳴られていた。普段、寄席に通いなれている私からすると、恐怖以外の何ものでもなかった。

13時近くになると、130席は満席となり、左右の立ち見で20名ほどいる。

超満員であった。

いよいよ、公演『Dream On』が始まった。

 

第一景 桜庭うれあ

爆音とともに登場したのは、鼓笛隊のような風貌で、白い衣装に身を包んだ女性達。中心では大きな指揮棒を持った綺麗な美人が腕を振って微笑んでいる。

音楽はLittle Mixの『Wings』で、勇ましくてカッコイイ。なぜか登場で感極まって涙が出そうになる自分に驚く。なぜ自分で泣きそうになったのかは後述する。

全体を通して、まず導入部で物語性のある踊りを披露し、その後で回転する舞台中央にメインの演者が立ち、裸体を披露するという構成である。

前半で輝くような笑みを浮かべた桜庭うれあさんが、曲の転換とともに服を着替える。『693』という大きな旗一枚をバスローブのようにして身に覆い、舞台中央(マッチ棒の赤部分)に座す。

ゆっくりと、誘うような目つきで観客を見つめる。何度か目が合い、その都度、心臓がブラジルまで行く。夏木マリの誘うような指使いと、妖しげに舌で口の周りを一周しながら、大きな旗を脱いでいく。

鍛え抜かれた四肢、紫の光と煙に包まれて、妖艶に白く光る裸体が露わになると、勢いよくうれあさんはポーズを決める。ぐんっと伸びた足の指先から、腰に至るまでの美に胸を貫かれる。

今まで公園の銅像か図画工作の教科書でしか女の裸体を見てこなかった私にとって(大嘘)、彫刻や銅像の鈍い輝きとは異なる、生身の人間から反射する光の神々しさ、そして、光を浴びて妖艶に輝く裸体に目を奪われた。如何なる分度器でも計ることの出来ない完璧な足の角度、皮膚の奥に感じられる筋肉の美しさ。もはや『美しい』という単語では表現しきれないほどの、桃源郷の香りそのものを嗅いでいるかのような、男としての本能を強烈に刺激される美がそこにあった。

音楽に合わせて勢いよくうれあさんは開脚をした。途端、会場からは拍手が起こる。一瞬、何の拍手だ、と心の中で突っ込むのだが、そんな言葉さえも排除されるほどに美しい裸体。

指先の力強さ、脹脛の逞しい膨らみ、そして太腿の鮮やかな膨らみ。足先から腰の付け根まで美の輪郭がくっきりと鮮明に目に飛び込んでくる。そして、何よりも表情である。そこに言葉は無い。言葉は無いのだが、確かにうれあさんは言っている。「見なさい。私の体を見なさい!」と言っているように私には思えたし、聞こえたのだ。

感動の涙が零れ落ち、私はこの記事を書こうと決意するまでに、ぼんやりと、あの涙の意味を見つけようとした。

それは、自分の裸体に対する『誇り』なのだと思った。

人は誰でも一度は自分の顔や体を鏡で見るだろう。その度に自分の欠点や、気に入らない部分に気づいて落胆する。私もたまに自分の裸体を見ては、腹が出た、とか、ニキビが増えた、とか、だらしない体だ、と思う。決して人に見せることの出来ぬ体だということに劣等感を抱きながら、私は服を着る。服を着ている間だけは、自分の醜い裸体は周囲の目に晒されることは無い。むしろ、服を着飾れば着飾るほど、醜い裸体は隠されて、脚色されて、本来の姿を知るのは己ただ一人となる。だが、ひとたび服を脱いでしまえば、たちまちに醜い体は露呈する。深い溜息とともに、運動しようという気持ちも僅かに起こるが、あっという間に霧散していく。

自分の裸体に誇りが持てず、ましてや鍛える気持ちすらもない自分。見せたくないからこそ隠し、隠すからこそ積み重なる劣等感を無意識に抱いていた私にとって、浅草ロック座の舞台に立ち、自らの裸体を自信に満ち溢れた表情で披露するうれあさんの姿は、文字通り『格好良かった』のだ。

何も身に纏わずとも、生まれたままの姿でありながらも、そこに些かの躊躇いもなく、劣等感もなく、恥じらいもない。むしろ、自信と誇りに満ち溢れ、堂々として勇ましく踊っている。その『誇り高き姿』に、私は『格好良い』という思いに打たれ、涙したのだと思う。

美を保つために人知れぬ努力をし、舞台に立って人々を魅了する姿は、自らの醜い裸体に対して劣等感を抱く私にとって、輝いて見えた。美しさと誇りが同時に迫ってきたのだ。爆音で流れる音楽をバックに、まるでロックスターのように裸で踊る桜庭うれあさんの姿を見て、打たれた鐘のようにジーンとして痺れた。

これが、浅草ロック座か。凄いな。

消しゴム部分の舞台にまでうれあさんが下がり、左右から幕が現れて第1景が終わった。とんでもない強烈な一景だった。

 

第二景 前田のの

イルカさんの『なごり雪』で登場の前田ののさん。『693』の旗を掲げたロックスター桜庭うれあさんの後で、しっとりと赤い着物に身を包み、傘を差した前田ののさん。くりくりっとした円らな瞳。小動物のような可愛らしさで、ちょこちょこと動きながら踊りを披露する。曲の歌詞も相まってか、そこには『別れ』のテーマがあるように感じられた。

どこの茶屋の娘か吉原の娘か、互いに思い合った関係の中で、ついに別れの日がやってくる。出会った頃は互いを探り合っていたけれど、次第次第に打ち解けて、心の糸が解れ、絡まり合い、そして愛が織られていく。一枚、一枚と前田ののさんは服を脱ぎ、そして中央の回転舞台まで歩いてくると、はんなりと腰を下ろす。別れの最後の一夜、まるで自分だけに身を捧げる淑女のように、ののさんは裸体を披露する。

雪見だいふくのような弾力のある裸体が、僅かばかりの恥じらいの中で、次第に思いを溢れさせていくかのように、力強く動き始める。今生の別れともつかぬ、最後の夜に、互いに名残惜しい気持ちを確かめ合うかのように、ののさんは寂しそうな表情で、恥じらいに頬を赤らめながらも服を脱いでいく。場内、拍手。万雷の拍手。

舞台から離れると、寂しさの中に一つの決意を抱いた様子で、明るく笑って見せる前田ののさん。そこに言葉はない。尺八の音色と彼女の踊る姿しかいない。しかし、私の脳内には言葉が溢れている。よからぬ妄想が湯水の如くこんこんとわき上がっていく。

幕が閉じる。まるで、江戸時代の純愛映画を見たかのような心持ちである。そこにはスマホもなく、テレビもなく、娯楽と呼べるものの数が少なかった時代の、人と人との心の愛があったように私には思えた(私は何を書いているのでしょう。。。)

 

第3景 武藤つぐみ

お待ちかねの武藤つぐみさん、である。神田松之丞さんが心を奪われたという女性であり、私も今回初めて見て、その表現力に驚愕した。パフォーマンス、表現力、全て一級品の芸がそこにあった。

照明は青白く、幕から登場した武藤つぐみさん。パンプキンズボンを履き、白いTシャツのようなものを着ており、パジャマのような姿で、武藤さんの体と同じくらいの大きさの枕を抱えて登場する。舞台には蛍光色の電球が吊るされているのみで、それ以外には何もない。メランコリックな音楽とともに武藤さんは踊った。そこには『毎夜、夢を見る女性』の姿が表現されていたように思う。

枕を抱えてくるくると回ったり、飛び跳ねたり、枕を床に置いて眠ったり、かと思えば嬉しそうに立ち上がったり、そうかと思えば、髪を両手でくしゃくしゃにして、パニックのような表情をしたり、様々な喜怒哀楽が表情と踊りに表現されていた。

まるで、一人の女性が日常で起きる様々なことに対して、眠りながらに一喜一憂しているようであった。色んなことにぶつかって、その都度悩みながら、苦しみながら、自らの楽しみを見つけたり、或いは悲しんだり、人間なら誰しも抱える日常の悩みが、踊りとともに表現されていたように思えた。

やがて、一度照明が消えた。闇の中で天井から正方形の四角い枠が降りてきた。丁度、絵を飾る額を思い浮かべて頂きたい。武藤さんの背よりも僅かに小さな枠だが、幅は武藤さんが少し足を曲げれば収まるほどの枠である。

武藤さんは、まず降りてきた枠を確かめるように枠の内側から外側へと手を伸ばす。枠にぶらさがって飛んだりする。次第に動きは激しくなり、枠に両足を挟んでみたり、枠に腰かけてみたりする。徐々に枠は上へ上へと引き上げられて、回転する舞台よりも二メートルくらい離れた位置で、武藤さんは枠を使って踊る。くるくると回転しながら、体を逆さにして踊る姿にはハラハラしながらも、武藤さんはどこか恍惚とした表情で踊る。枠の上部中央には可搬式の丸いロープがあり、そこに足をかけて踊れるようになっている。

 

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拙い絵で申し訳ないが、丸い輪に片足をかけ、舞台に向かって逆さまになった武藤さんが、勢いよく回転しながら踊る。曲と相まって感動的な場面である。

私の想像では、この踊りには『枠の中で葛藤しながらも、枠を飛び出すために力強く生きる女性』の姿があるように思えた。

人には無意識の内に、自分の限界や自分そのものの枠を決めてしまう部分があるのかも知れない。毎夜、眠りにつき喜怒哀楽を爆発させてきた女性が、初めて枠そのものを目の前にし、その枠と自分がどう向き合って行くべきかを考える。時にぶらさがってみたり、腰かけて見たり、様々な動きで枠とともに踊る武藤つぐみさんには、自分が自分で決めた枠と向き合い、その枠を認めながら飛び出そうとしていく気持ちを感じた。

目を閉じて全身で思いを表現する武藤つぐみさんの、引き締まった体。どこまでも伸びて行こうとする思いに溢れた腕、足。全身を一つの強烈な覚悟で貫いている意志を感じ、ただただ圧倒されてしまった。そこには、白磁器のような清廉された美、確固たる強い力が滲み出ているように思えて、とても格好良かった。

 

 第4景 小室りりか

人一人が入れる大きな箱が舞台に五つ置かれ、その中に左から武藤つぐみさん、香山蘭さん、小室りりかさん、桜庭うれあさん、前田ののさんの順で入っている。プロジェクションマッピングを駆使しながら、音楽とともに妖艶な踊りを踊っている。中央にいた小室りりかさんが箱を飛び出し、他の四人に別れを告げて回転する舞台へ。

確かジョアン・ジェット&ザ・ブラックハーツの『I hate myself for lovin' you』だったと思うのだが、その曲をバックに大胆な踊りを披露する。箱の中を飛び出すという勇ましさ、そして、自信に満ち溢れた裸体。

長身で、長髪の逞しいハードさは、1景の桜庭うれあさんと近いが、小室さんの場合は野太くてワイルドだ。荒野に現れた一匹狼のような佇まいから、野性的な表情で観客を魅了する。大人の女性の深みと荒々しさのようなものが感じられ、ロデオに乗っているかのように荒々しく頭を回して長髪を靡かせる。タランティーノの映画に出てきそうなワイルドな美人の姿が凄まじかった。

 

第5景 あやみ旬果

舞台の幕が僅かに開き、大きなバスタブの中に入ったあやみ旬果さんが登場。シャボンのような大きな玉を客席に二回放り投げ、バスタブから身を乗り出して裸体を披露する。本格的に回転舞台に立つのは第8景のようで、ここでは軽い挨拶程度に登場する。それでも可愛らしい表情であった。

 

 第6景  赤西涼

暗闇の中、ペンライトを持った警官が二人現れる。何事かと思いきや、ライトアップとともにサイレンの音が響き渡る。舞台にはアンディ・ウォーホル風の篠山紀信(?)を彷彿とさせる絵画があり、タイトな赤いラバースーツに身を包んだ赤西涼さんが登場。どうやら、絵を盗む泥棒と警官とのやりとりを描いている様子。

コミカルなダンスが終わると、スパニッシュな赤いドレスに身を包んだ赤西涼さんが登場。まるでスペインかと思うような情熱的な音楽とともに、赤西涼さんは服を脱いでいく。

一仕事を終えた女泥棒が、束の間の休息に恍惚とした表情を浮かべながら、しなやかな体を観客に披露する。泳ぐような動きや、陽光に気持ちよさそうな表情を浮かべた赤西さんの表情が素晴らしかった。溌溂として爽快な欧州の風を感じているかのような、どこか異国情緒が溢れる見事な姿だった。

細くて美しい姿であるとともに、何度か誘うような目線に目が合ってしまって、その度に「この人なら、何を盗まれても良いな」などと愚にも付かぬ思いを抱きながら、目を閉じて気持ちよさそうに回転舞台に寝転がる姿を見ているとドキドキしてしまう。命と隣り合わせの危険な仕事をしながらも、その仕事が終わった後で見せる女性の癒しの表情。もうおじさん、どんどん奢っちゃうぞ。と思ってしまうほどに、可愛らしく美しい表情だった。(お金も無いし、おじさんでもないが)

 

第7景 香山蘭

ナイトプールにありそうな巨大な貝のオブジェが舞台中央にあり、その中で香山蘭さんと前田ののさんがじゃれ合う。ここに来て初の百合の踊りである。貝の中で互いにじゃれあう姿を見ていると、何だか見てはいけないものを見てしまっているような気になってドキドキしてくる。ピンク色の照明と相まって、今までの景の中では断トツでいやらしさがあった。

回転する舞台までやってきた香山さんは、とにかくいやらしい動きが見事で、ここはあまりにもいやらしいため、詳細は書かない。

照明とお姿も相まって、ミステリアスで一番卑猥な印象だった。映画『バーレスク』で見た印象に近く、最初に私が抱いていたストリップ劇場の卑猥さ、欲望に対する忠実さ、無邪気で可愛らしく、惰眠を貪るかのような甘い雰囲気が充満していて、とても素晴らしかった。本当に私の欲望の箍が外れてしまったら、香山蘭さんのような女性とザ・めくるめくショーで踊りたいと思った(意味不明)

 

第8景 あやみ旬果

最期を飾るのは主役、あやみ旬果さんである。書き過ぎると引かれる恐れがあるので詳細は書かないが(もうすでに引かれているかもしれないが)、プレステージという会社において、あやみ旬果さんが出演された『絶対的美少女、お貸しします。』以降、物凄い美人なセクシー女優さんが台頭し、プレステージ黄金時代の発端となった物凄い人である。彼女の前に道はなく、彼女の後にも道は無いのである。あやみ旬果さんが今でも鉄板の様々なシリーズに出演したからこそ、後続のセクシー女優さんが出演することが出来たのだと勝手に思っている。同時に、あやみ旬果さんで爆発的にプレステージ知名度が上がり、『美人なセクシー女優=プレステージ』というような方程式が出来上がったと私は思っている。軽く例をあげると、鈴村あいりさんや長谷川るいさん(引退済み)、園田みおんさん、そして現在の河合あすなさんや愛音まりあさんに至るまで、全ての原点に『あやみ旬果』さんは存在しているのである。

あやみ旬果さんの登場によって、各社がこぞって美人を集め、それぞれの会社の特色が現れた美人が現れてきた。『レーベル間の美人戦争』があるのだが、それについては、ここでは書かない。

さて、そんなこともあって、今回一番楽しみにしていたあやみ旬果さん。舞台の隅でちょっと地味な服を着て、本を読んでいる。そこから、たくさんのダンサーが登場し、あやみさんはあっという間に綺麗なドレス姿になる。まるでシンデレラのような姿だ。

武藤つぐみさんが紳士役であやみ旬果さんの手を引きながら踊りを披露する。色んな人が笑顔で、少し表情の硬いあやみ旬果さんを導く姿に、私は感動してしまった。

あやみ旬果さんがどんな人生を送って、今、どんな気持ちでいるかも分からない。それでも、夢を見る女性は様々な人々に導かれて、もっとも輝かしい一瞬を迎えるのだ。徐々にダンサー達があやみ旬果さんに別れを告げ、最後に武藤さんが導くようにしてあやみ旬果さんに別れを告げ、袖に去っていく。様々な人の支えを受けて、たった一人で回転する舞台までやってきたあやみ旬果さんは、ゆっくりと服を脱いで、観客の視線を釘付けにする。

途端、拍手。割れんばかりの拍手。左右の観客の表情が何とも言えない穏やかな表情をしていて、心の中で「友よ」と思う。

プレステージの黄金時代を切り開き、後続する様々な女優に背中を見せてきたあやみ旬果さんの裸体は、敢えて詳しくは書かない。これは、是非、目の前で見てほしいのだ。そして、あなたが感じたことが全てだ。

この舞台を最後に、あやみ旬果さんは引退する。一体、どんな心境で今を迎えているのか。彼女の歩んできた黄金の6年間。2014年にDMMアワードで最優秀女優賞ゴールドを受賞して以来、走り続けてきた日々。そして、大勢の観客の前で、一つとして輝きの失われていない、美しい体を披露し、舞台を去っていくあやみ旬果さんはどんなことを思っているのだろう。多くの男性を魅了し、ドイツ人のラルフ・ペトロフさんまでをも強烈に魅了し、世界中の男性を虜にしているあやみ旬果さん。

そんな彼女の姿は3月13日まで見ることが出来る。腰を痛めて休業しているようだが、3月1日より復帰であるらしい。

時間は限られている。是非、あやみ旬果さんだけでなく、多くの演者さんを見てほしい。

 

 総括 誇りと自信と臆せぬ心

裸体を聴衆の面前で披露する人に対して、世間の風当たりは未だに強いようである。同時に、心無い一言によって傷つけられたり、世間に対して後ろめたい気持ちを抱かざるを得ない状況に追い込まれ、自分の行動に対して自信を無くしてしまう人がいる。

私にはそういう思いは無いが、裸を見せて、人を魅せることを生業とする人達が、今後、誰にも貶されることなく誇りを持って生きられる社会がくれば良いと思う。『旧約聖書』では自慰行為は神に背く反道徳的行為とされているが、あやみ旬果さんを含め多くの人々は、決して神に背いている訳では無いのだ。むしろ、自らの誇りと自信を持って生きている。この姿勢に拍手を送らずして、一体どこに拍手を送るというのか。

浅草ロック座が踊り子たちの聖地として敬われている。何物にも臆さずに、自らの体に対して誇りと自信を持つ者だけが立つ場所。それが浅草ロック座だと私は思う。そして、その舞台に立つには物凄い体力と精神力が必要だと思う。なぜなら、一日五公演、13時から22時40分まで、3週間近くそれを続けるのだ。これは並大抵の体力では決してできるものではない。疲労や体のコンディションによって舞台の出来は左右される。それでも、人は舞台に立つのだ。尋常ならざる精神だと私は思う。その熱意と舞台にかける思いは、私の想像を遥かに超えている。

もちろん、踊り子達の努力には気もくれず、単純な助平心で見る人だっている。それも良いのだ。だが、私があの場所で感じたことは、多くの人々の心の中には、助平心は僅かであるように思う。それよりもむしろ、溌溂として、誇りと自信に満ち、何ものにも揺るがされることのない力強さに感動している人々の方が、多いような気がするのだ。

自分の裸体に限らず、何かに対して自信や誇りを持つことの出来ない自分を、心の奥底に秘めているのならば、浅草ロック座は強い影響を与えてくれる。そこには、笑顔と魅力と美しい体を持った、力強く生きて格好良い女性の姿がある。

そこに、言葉は無い。どこまで行っても、言葉は無い。だから、こうやって言葉を付すことは野暮かも知れない。だが、私はどうしても書きたかった。マスではなく、言葉を、どうしても書きたかったのである。

それは、裸を披露する女性に対する軽蔑の言葉に対する反抗と言えるかも知れない。世に生きる人々が様々なコンプレックスを抱える中で、無闇に傷つけられる女性が不憫でならない。誰もギャラが良いからやっている訳では無いのだ。裸になる意味が理解できないのならば、理解すればいいのだ。我が心のジョージアである(意味不明)

誇りある今を生きよ。

どうにも風当たりは強くても、日々、世間の理解は進んでいく。

他人に対する理解がどんどん進む一方で、より攻撃的な言葉が吐かれ、下卑た品の無い猥雑さが横行する。それでも、臆することなく進もう。

大丈夫。浅草ロック座には、あなたのそんな自尊心を大いに奮い立たせてくれる、そんな素晴らしい踊り子たちが、今日も舞台に立っているのだから。

紫色の光と煙に包まれて、恍惚とした夢のような時間が終わり、再び、私は『PANDORA』を見た。相変わらず、勝負師達の自転車は列を成していた。

誰もが戦い続けている。

何かに歓喜し、何かに激怒し、何かに悲しみ、何かに思いを馳せている。

そもそも、なぜ、この世界には様々な喜怒哀楽があるのだろう。

なぜ男女は、互いにくっついたり、離れたりするのだろう。

ぼんやりと『PANDORA』の看板を見ていると、唐突に『ある考え』が

頭の中を襲ってきた。でも、それは秘密である。

その秘密のきっかけとして、

最後に、こんな話を一つだけ。

 

男性しかおらず、災難というものが無かった世界に

ゼウスはパンドラという名の最初の女性を、悪と災いが封入された箱と

共に、世界へと送った。

単純な興味から、世界で最初の女性パンドラは、その箱を開ける。

さて、どうなったか。

男と、女。そして、開けられた箱の後で。

世界には何が残ったのか。

あなた自身で確かめて欲しい。

そして、あなたなりに考えてみてほしい。

男と女、そして

箱について。