まちがってまちがって、正しさに当たる~2019年11月23日 うららか亭落語教室~
She knows there's no success like failure
And that failure's no success at all
失敗のような成功はなく
失敗は成功じゃないことを知っている
ボブ・ディラン『Love Minus Zero』
寒すぎる 大雨との出会い
世良公則の『燃えろいい女』どころの寒さではない。『萎えろダメ男』と世悪秘則が歌ってもおかしくない寒さである(わからないよね)
金曜日を終えて、燃え尽きたダメ男である私は、荒んだ男心を誰にも奪われることなく抱えていた。疲れ切っていた。連日連夜、毎晩のように処理しなければならぬ雑事に追われ、海に行かずして溺れそうだった。雑事が私から酸素を奪っていた。雑事に塗り固められ、もはや真空状態。圧をかけたら一瞬でボンッと破裂してマックロクロスケーになって、誰からも「出ておいでー」と言われないまま、灰になりそうだった。(小ネタはもういい)
さて、話をしよう。物凄い寒い一日の朝、私は雨の中を歩いていた。行く場所は下谷神社である。
なぜ下谷神社に向かったのかというと、それはとある方が落語をされるという情報を知ったからだった。
ずっと前から、素敵なツイートをされる方がいた。アカウント名を書くと『花まる』さんという方で、落語に登場する『定吉』というキャラを愛し、三遊亭遊雀師匠を一門まるっと愛する素敵な方だ(あくまでもTweetからの感想です)
今まで、私は落語の登場人物に特別な思いを抱いたことはなかった。落語に出てくる与太郎も、八五郎も、隠居も、定吉も、確かに私の中に存在はしているのかもしれなかった。だが、強い関心を抱くほど惹かれる人物とまでは思わなかった。
私には単純な疑問があった。
どうして、花まるさんは定吉に心惹かれるんだろう。
どうして、花まるさんは遊雀師匠に惹かれるんだろう。
そんな疑問が、きっと落語を聞けば分かるだろうと思った。というか、そんな疑問を抱くほど、私は花まるさんのやる落語に興味があった。
結論から言うと、それは感動の一席だった。
では、それについて、語ることにしよう。
稲荷亭花まる 平林
素朴な雰囲気と、独特な清らかさを纏って現れた花まるさん。枕で語られたことが、後の演目『平林』に見事に繋がっていく。
この演目は簡単に言えば『手紙を届ける任を与えられた定吉。だが定吉は手紙の宛名の文字が読めない。色んな人に尋ねるが、読み方を教える人も頓珍漢なことを言う。でも、最後には・・・』というようなお話である。
少し、私が社会人になったばかりの頃の話をしよう。
私が社会人になって会社で働くことになったとき、私は『平林に出てくる定吉状態』だった。文字は読めたが、業務内容がさっぱりわからなかった。日本語は知っているし、話しても来たのだが、仕事における日本語の使い方、伝え方で上司に面倒をかけてしまったことがある。忘れっぽくて、おっちょこちょい。メモを書いても、書いたメモを忘れるくらいの間抜けぶり。伝えたいことの十分の一も伝えられなくて、悔しい思いをしていた。
自分では伝わるだろうという言葉も、相手には伝わらないことが殆どだった。相手から教えられたことも、なんだかよく分からないまま飲み込んだこともあった。私は定吉のように、自分では精一杯にやっていると思っていても、周りから見れば思い切り空回りしているような人間だった。
今でも、忘れっぽいし、そそっかしいのだが、段々と慣れてきて、要領良く仕事をこなせるようになった。それでもまだまだ定吉状態から抜け出せていない。
これは想像だけれど、花まるさんももしかしたら、そんな生活を送っているんじゃないだろうか。就職して、働くことになったけど、身の回りには色んな障害が多く、そんな中で一所懸命に努力しながらも、どこか空回りしてしまう定吉に自分を重ねたのではないだろうか。
花まるさんの定吉には、花まるさんが思う定吉が投影されているように思えた。それは、まさに花まるさん自身だと感じた。
文字が読めない定吉。
読み方を忘れる定吉。
色んな人に尋ね、教えられた読み方にしっくり来ない定吉。
定吉がとにかく色んな人に出会って振り回される。その姿が、花まるさんの生活にも起こっているんじゃないかと思っていたら、目から涙が零れ始めていた。
私は胸が苦しくなった。花まるさんの姿が滲んだ。
勝手な想像かも知れないけど、世の中には、自分に与えられた仕事に強い責任感を持って取り組み、自分を追い詰めてしまう人がいる。周りの人は「そんなに頑張らなくてもいいよ」とか「頑張りすぎだよ」とか言うけど、本人は生来の真面目さで「私がやらなくちゃ、私がやらなくちゃ」という気持ちで、どんどん心をすりへらしていく。
『平林』に出てくる定吉も同じように、たとえ文字が読めなくても逃げ出したりはしない。奉公先の主人の頼みを、なんとか叶えようとする。その健気さが、花まるさんの言葉と表情から伝わってきた。
朝のせいか、雨のせいか、涙腺の緩くなった私は色んなことを考えてしまった。
花まるさんも、色んなことに振り回されてるのかな。
定吉みたいに一所懸命なんだろうな。
面白がってからかってくる人もいるのかな。
でも、それを上手く自分の中で処理できているんだな。
なんなんだろう。この謎の感動は。
花まるさんが常日頃、定吉を思っているのは、
きっと定吉が、自分そのものだと思っているからなのかな。
だとすると、平林に出てくる定吉は、
とても一所懸命だな。
純粋で、
人を疑わない。
自分では「この読み方、違うな」と思っても、
決して教えてくれた人を責めたりしないな。
混乱するようなことを言われても、
全部、自分で処理してる。
そうか、だから花まるさんは、言語化してるのかな。
自分の、
どうしようもならない、
この、
感情を。
私にも、
そんなことがあったな。
どうしようもなく、
辛いとき、私は文字を書いていたな。
文字を書いて吐き出してたな。
定吉の目、いいな。
定吉の表情、まっすぐだな。
定吉、頑張ってるな。
頑張れ、定吉。
いいぞ、いいぞ、定吉。
あれ、目が熱い。
あれ、
あれあれ。
最後に手紙を見せながら、教えられた読み方を定吉が言う場面は、寄席でプロの噺家を見ていると笑ってしまうのに、花まるさんがやると、なぜか涙を抑えることができない。私は感動していた。
定吉は、自分を苛む様々なことから「助けてー!」って言って、逃げ出したいんじゃないだろうか。「助けてー!」を決して言うことが出来ないまま、自分を追い詰めてしまった人がいる一方で、花まるさんの演じる定吉が叫ぶ必死の「たいらばやしか、ひらりんかー」には、自分の思いを振り絞った人の勇気があるように思えた。
自分ではどうすることもできなくなって、頭のなかがパニックになって、洪水のように言葉が押し寄せてきて、自分の処理能力を超えて、訳が分からなくなった定吉。
そんな定吉が最後に、正しい読み方に当たる。
その瞬間の、一瞬の、輝きを私は忘れない。
生きて、働いて、色んな人に出会う。嫌な人にも良い人にも。殆ど想像だけど、花まるさんは言葉で、それに立ち向かってきたのではないだろうか。
走って、転んで、また立ち上がることと同じように、何度も間違って、間違って、ようやく正しさにぶつかるような、そんな定吉の姿が、寄席では決してみることのできない、新しい『平林』を見た気がした。
もちろん、私は花まるさんのことはツイッターでしか知らない。でも、花まるさんが常々語っている定吉や、遊雀師匠への愛は、そのまま花まるさん自身にも向けられていて、花まるさんを鼓舞しているんじゃないかと思った。
それに、遊雀師匠も、伝え聞く話では、お酒でしくじった人だ。でも、そんな、伝え聞くしくじりも、伝え聞かないしくじりも越えて、今や名人と呼ばれる噺家さんである。多くの人々を魅了して止まない、素晴らしい噺家さんである。
あくまでも、私は表面的なことしか知らない。深く知ろうとも思わない。
芸は人なり、という言葉もあるように、きっと遊雀師匠のやる落語、そして遊雀師匠のやる定吉には、花まるさんの心を鼓舞したり、花まるさんが惹かれる姿があるのだと思う。
何よりも、花まるさんが定吉という存在に対して、共感する部分が数多くあるのではないだろうか。もしくは、定吉へのあこがれもあるのかもしれない。
今まで私は、そんなことを落語の世界の住人に対して思ったことは一度も無かった。だが、花まるさんのやる定吉の中には、花まるさんそのものがいると思った。そして、定吉をやっているときの、花まるさんの表情、目の動き、言葉、トーン、全てがとても素敵だった。そこには、定吉に注がれる強い愛があるように思えた。
高座で、紛れもなく定吉が生きていた。活き活きとしていた。定吉は色んな人に翻弄されながらも、精一杯生きていた。
ひょっとすると、私はとんでもなく素晴らしい定吉に出会ったのかも知れない。それほどに、素晴らしい定吉だった。こんなことを言うのは憚られるが、プロの噺家では決して見られない、特別な定吉を見たように思った。
私は声を大にして言いたい。
花まるさんの
定吉は
素晴らしかった!!!
私は落語が好きだ。今まで出会ったことのない定吉に出会えて本当に良かった。涙が溢れ出すほど、花まるさんの定吉は素晴らしかった。
正直、上手く伝えられたかは分からないが、文字数だけでも私がいかに感動したかが分かると思う。残念ながら、自分の感動を伝えられるほどの技量が私には無いのかも知れない。
私は花まるさんのツイートを見てきたから、花まるさんの中で生きている定吉に、花まるさんを重ねたのだろうか。きっと、たとえ花まるさんの定吉に対する愛を知らなかったとしても、遊雀師匠のことを知らなかったとしても、高座姿をみれば分かっただろう。この人にとって定吉は、とてつもない『支え』かも知れないと思っただろう。
百聞は一見にしかず。もしも、どこかで花まるさんの落語を聞く機会があったら、是非聴いて欲しい。きっと、素敵な定吉に出会える筈だ。
改めて、花まるさんへ。
色々質問したいくらい、随所に技の光る素晴らしい一席でした。ひょっとして遊雀師匠直伝?だったのでしょうか。
遊雀師匠の定吉に花まるさんが心惹かれたように、私も花まるさんの定吉に心惹かれました。同時に、花まるさんの定吉が、これからもずっと、色んな人に愛されますように。強く願います。
思えば、下谷神社は寄席発祥の地だそうで、221年前?だったかに、下谷神社で落語が行われたそうである。遠い過去に未来を馳せてみれば、ひょっとすると今日と同じような日だったのかもしれない。八五郎や、隠居や、熊さんや、定吉が、語っている人そのものを体現していると感じるような落語が、行われていたのかもしれない。
雨の中、外に出た私は寒さに震えながら、下谷神社を後にした。
私は胸に灯った温かさに癒されながら、新宿へと向かうのだった。