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シブラクの未来、或いは男女の心の重畳~2019年11月8日 渋谷らくご 18時回~

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他の女の話はやめてっ!

 

二人で一つ 

  

恋に師匠なし

私の友人で、中学生の頃に付き合い始め、そのまま成人して結婚した夫婦がいる。中学生の頃から美男美女のカップルとして有名で、男連中はみな「あいつがあの子と付き合ってるなら、諦めようぜ」と口にしていたし、女連中のほうも「あの子が彼と付き合ってるなら、手出しは無用ね」という感じで、昔からお似合いのカップルだった。

誰も知りたくないと思うので私のことは書かないが、当時、そんな二人の関係を私は羨望の眼差しで見ていた。清らかであり、穢れが無く、運命という言葉がふさわしいと思って見ていた。なぜなら、私の父も、母との出会いは運命のようなものだったから。

両親の出会い話は別の機会に語るとして、『男女が互いに少ない恋愛経験で夫婦になる』ということは、中学時代、私を含む多くの男女にとって、『純粋』なものと考えられていた。様々な女性と付き合うことは、『不純』で『汚れ』ていて、美しくなかった。テレビなどでは、しきりに『不倫事件』が取り上げられていたし、火野正平は嫌われていたし、中尾彰は好かれていた。

もはや呪縛と言っても良い。森野少年の理想は、白いワンピースと大きな麦わら帽子に黒髪ロングヘアの、『清純』で『自分以外との恋愛経験ゼロ』の女性と、夏休みに偶然迷い込んだ山で出会うことだった。「虫を取りに行く」と両親に嘘を付いて、虫取り網と、一生かかる筈の無い『運命の女』を捕えるべく、山へ繰り出していた。

結局、虫すらも捕まえられないまま、時は過ぎて大人になった。長い間、いるはずもない女性の呪縛に囚われ、山崎まさよしの『one more time,one more chance』も無いまま、いるはずもないのに当ても無く探し続け、大人になって一人ぼっち。

『恋に師匠なし』ということわざがあり、恋とは自然に学ぶものだと言われても、このままでは一生履修しないまま、単位を取ることなく人生を卒業するのではないかと思うと、師匠じゃなくても、誰か教えてくれないかと思うこともしばしばである。

ふと周りを見て見れば、中学時代から付き合っていた男女の結婚話があるかと思えば、様々な女性と付き合って一人に決めた男もいれば、様々な男性を味見したが、未だに一人という女性もいる。

なんとウブな男であったかと今更自らを振り返ったところで、過ぎた道を後戻りすることなどできない。出会うときは出会い、それが運命なのだと受け入れるしか無いのだ。

ささやかな人生経験の中で、恋愛に対する色んな思いが駆け巡った。一途な男に憧れたかと思えば、プレイボーイに憧れた。プレイボーイを憎み、一途な男の種の保存の非合理性を思ったこともあった。

何が正しくて、何が間違っているかなんて、結局のところ分からない。

色んな男と付き合う女性もいれば、たった一人の人と生涯を過ごす女性もいる。逆もまた然り。

男と女という性が、この世界にあるということの、不思議を思ったのは、渋谷らくごで、この二人を見たからだ。

 

 瀧川鯉八 長崎

『厭と頭を縦に振る』ということわざがある。口では「厭だ」と言いながらも、頷いてしまう(承諾の所作)をしてしまうことを現わした言葉である。

頬を打たれて「痛い、酷い」と思っても、抱きしめられたら「ああ、この人は私がいないと駄目なんだわ」と思ってしまうDVの手法を聞くと、つくづく人の心は良く分からないと思う。

他にも『厭よ厭よも好きのうち』だとか、『好いた同士は泣いても連れる』とか、そういうことわざが、鯉八さんの落語を聞いていると浮かんでくる。

『長崎』というお話は、簡単に言えば『亡くなった旦那との思い出を語る奥さんのお話を聞く』という内容である。

奥さんの語りは優しくて、遠くに思いを馳せていて、懐かしんでいる。詳細に語られるのは、プレイボーイだった旦那さんの姿と、そんな旦那さんに振り回されながらも、一緒に連れ立って歩く奥さんの姿である。

私が思い描いていた純粋な恋愛は一ミリも無く、旦那さんは色んな女性と長崎を巡っていたことを、事あるごとに暴露する。奥さんはそんな旦那さんにブチ切れながら各所を巡る。最後は旦那さんの「これは初めてだから」にキュンと来る奥さん。だが、そんな奥さんも・・・

鯉八さんの落語には、そんな現代の男女の恋愛観というか、恋愛の現実が表現されている気がする。

今はネットの普及によって、男女が大勢の人達と繋がりやすい関係になった。

交通機関も発達しておらず、娯楽も少ない時代に、プレイボーイという概念は、男女が大勢住まう地域限定のものだったのかも知れない。古典落語にも『紙入れ』などの不倫や間男の噺があるくらいだから、江戸時代は盛んだったのだろうと考える。

だが、今や時代は移り変わり、交通機関は発達、娯楽は溢れ、あっという間に世界と繋がることが出来る。爆発的に男女の出会う機会は増加した。それに伴って、プレイボーイもプレイガールも増え、一途な恋愛像に縛られた人々は極少数になったのかも知れない。

統計を取ったわけではないから分からない。男女が互いに、誰と結婚するかという選択肢が増え過ぎた結果、結局選べられなくなり、人口は減少を始めたのかも知れない。とまれ、鯉八さんの落語を聞いて、そんなことまで考えた。

私は、プレイボーイな旦那さんに憧れない。未だに、『運命の女』、ニコ&ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドでニコが『ファム・ファタール』を歌うように、そういう人を待っているからだと思う。いずれ出会うだろうと思うのだが、それがいつかは分からない。よりにもよって、最近は仕事でもプライベートでも美人に会う機会が多すぎるから、自分にとって誰が『運命の女』かもさっぱり分からなくなった(完全なる余談)

鯉八さんが担うシブラクの未来は、新作落語であり、現代の男女の恋愛関係のように、永遠普遍で、多様化していくものなのかもしれない。

単純に長崎情報に詳しくなれるのも、この演目の素晴らしいところ。

 

古今亭文菊 お直し

文菊師匠のお姿を見ると『恋は思案の外』だなと思う。思案しなくても、文菊師匠が好きな自分を認める。一言一言が、自分の考えていることとぴたりと合う。色んな落語があって良い。色んな噺家がいて良い。多様性を認めることが、人と人との関係で大事なことであり、また、その多様性を認めないという意志も、それはそれで良いのだ。

鯉八さんが見せた現代の男女の恋愛関係に対して、文菊師匠は古典落語、かつての男女の恋愛関係の話を物語る。

何度か記事にしている『お直し』という演目であるが、今宵の『お直し』も、今までに負けず劣らずの素晴らしい一席だった。どこか、私の心は『お直し』のような男女の関係に、共鳴するものがあるのかも知れない。

この話は、簡単に言えば『花魁として全盛を誇った女が、落ちぶれた頃に出会った男と夫婦になるが、再び落ちて、因果な商売に手を付けながらも、夫婦の愛を確かめ合う』という内容である。

何とも言えない味わい深さと、男女の、どうしようもない姿が、何度見ても胸に迫る。語られない部分を思えば思うほど、ケコロという商売を始めた男女の姿が、哀れで、狂おしいほどに、美しく輝いて見える。

かつて、花魁として様々な男を魅了した女と、そんな女のために一所懸命に客引きをしていた男が結ばれる。だが、男は花魁と結ばれたことに胡坐をかいて博打に手を染め、あっという間に生活に行き詰まり、再び花魁の色気に頼って商売を始めるが、今度は他の男に色目を使う花魁に嫉妬し、遂には仕事を辞めようと提案する。そこで、花魁に一喝され、男は初めて自分の愚かさに気づく。

おそらく、今、こんな恋愛は殆ど無い。キャストとボーイの恋愛はご法度であるし、店主がいわゆる商品(語弊があるかも知れない)に手を出すのは厳禁である。だが、時代背景を考えたり、その当時の人々の思いを考えると、言いようの無い純粋さを私は感じる。

今まで以上に、文菊師匠の演じる花魁の言葉が染みた。「そんなことやりたくないよ」というような言葉や、「お前さんが酷いことを言うから」みたいな言葉が、ズシッと胸にきた。そんな言葉を言わせてしまうほど、どうしようもない男の姿を見て、自分もそんな言葉を言わせてしまうような、愚かさを秘めているのではないか。そんな考えに胸を刺されるような気持ちで聞いていた。

『お直し』は、至る所で胸を刺され、痛みにも似た苦さを感じる場面が多い。特に、落ちぶれた花魁が化粧をする場面は、何度見てもゾッとするほど美しく悲哀がある。

花魁が客に見せる表情と声、愛した男に見せる表情と声、そのギャップにも胸が締め付けられる。女性の心の裏表の鮮やかな転換を、文菊師匠は表情と声で見事に表現されていて、今日は震えるほどの変わりようだった。

そして、最後に男が花魁に向かって「辞める」と言った後の、花魁の静かな炎のような苛立ちが、思い返す度に首を締上げられるような苦しさを覚える。女の覚悟を見過ごした男の愚かさと、一人の男を愛した女の激しいまでの愛情。女の炎に目を覚ました男がはたと気づき、詫びを入れる場面は、何度見ても痛みと苦さが伴って感じられる。最後はさらっとオチだが、何とも言えない男女の関係に痺れる。

何が良いとか、何が悪いかは人それぞれだが、私は古典落語に見られる男女の関係に、心を惹かれる。そこには、磨き上げられた深みがあるように思うからだ。つくづく、私は古典落語が好きな人間だと改めて思った。

素晴らしい余韻のまま、私は渋谷らくごを出た。

 

 総括 惚れて通えば千里も一里

相変わらず『どがちゃが』にはレビューは載らなかったし、『どがちゃが』を開きたくない気持ちも強かったけれど、私は渋谷らくごが好きだ。

静かだし、落ち着いているし、客席も凄く集中している。この場所にしか無い雰囲気というものが確かにあって、それは他の会もそうなのだけれど、その場所でしか味わうことのできない雰囲気だ。

五周年を迎え、初期のメンバーも真打になり、これからゆっくりと渋谷らくごは変わっていくのだろうか。

遅ればせながら、そんな渋谷らくごの歴史の一部に、自分の思いを形にした記事が残るのはとても嬉しい。だからこそ、気を抜かずに、自分らしく書いて行きたいと思った。

シブラクの見どころは読んだ人のお楽しみ。文菊師匠がどう思うか分からないけど、私は文菊師匠の才能も、鯉八さんの才能も、とても素晴らしいと感じている。悔しいのは、私にその思いを広めるだけの力がまだ無いことだ。

まだまだ頑張らなくちゃいけない。気を引き締め直す。素晴らしい一夜だった。