落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

心の春のともしびの~2019年3月31日 立川左談次一周忌追善~

f:id:tomutomukun:20190404193321j:plain

あの町この町 日が暮れる
日が暮れる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

おうちがだんだん 遠くなる
遠くなる
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

お空に夕べの 星が出る
星が出る
今きたこの道 帰りゃんせ
帰りゃんせ

いつもどこかにあなたの声を

愛用の歩かないwalkmanで、左談次師匠の『妾馬』、『阿武松』を聞きながら、私は新宿末廣亭の前をうろうろとしていた。寄席には、良い誓いでもなく酔い近いでもなく、余一会というものがある。通常の月は1日~30日まで、10日間ごとに番組を変えて興行が組まれているが、月によっては31日まであるため、余った1日で会が開かれ、それを余一会と呼んでいる。

昼夜に分かれて有名な噺家が登場する余一会、私はあまり参加したことがなく、たまたま休日ということもあって、『左談次一周忌追善』の会に参加することが出来た。これも何かの縁であろう。

私はこれまで、幾つか立川左談次師匠について記事に書いてきた。僅か二席しか聴いたことが無かった私だが、もっと早く左談次師匠に出会い、芸に触れたかったという後悔がある。全ては縁であると諦めるならば、こうして左談次師匠のことについて語るのも、その芸の素晴らしさの一片にしか触れることの出来なかった人間の、怨であると思って欲しい。素晴らしい芸人に気づき、その芸を真摯に追わなかった自らに対する怨を縁として円とするために、私は文章を書く。とある講談師は、自己顕示欲の塊と評するかも知れないが、私の心にそんな思いは微塵も無い。もしも、自己顕示欲があるならば、無料で記事を書いたりなどしないし、とっくに顔を晒している。私はただ、自分のために書いているだけである。出来ることならば、読者に私の思いが伝わればよいと思う。ただそれだけである。

音源の中で生き続けている左談次師匠の声が、新宿末廣亭の高座から聞こえてくるような気がした。私は新宿末廣亭に入り、座席に座りながら、左談次師匠の声を聞き、まだ幕の開かない末廣亭の中で、一人ぼんやりとしているのだった。

 

いつものように幕が開き

数々の名人が座し、高座で一席を披露し続けてきた新宿末廣亭。昔の映像などを見ると、両脇までびっしりと人で埋め尽くされていたこともあったようだ。今では、二階席にも大勢の人々が座れるということもあって、左右に立ち見が出るほどの光景はなかなか見られない。娯楽が増え、あらゆるメディアが発達し、多様な時間潰しが出来た今日において、なぜ私は落語に惹かれるのだろうかと考える。それは、何か根源的な笑いの知性があるように思われるからだ、と書けば堅苦しく思えてしまうのだが、簡単に言えば『面白いと感じるから』という一言に尽きるであろう。なぜ面白いと感じるかは、うまく説明することが出来ない。映画や小説なども好きだし、落語に限らず講談や浪曲など、生身の芸というものは、言いようの無い素晴らしさがあり、それを文字として書いている段階で、物凄く大切な熱というものが失われてしまうように思うのだが、それでも書きたいと思うのは、自分の中で言葉にして落とし込むことによって、いつでもその時の熱を思い返したいという思いがあるからであろう。

寄席という場所は、生産性も無ければ何か教訓を得られる場という訳でもない。むしろ、聞く者がそれぞれに何かを見出し、何かを発見する場であるようにも思うのだ。無論、ただ笑いたいというだけでも構わない。日頃、社会において様々なストレスに苛まれ、憤り、愚痴を発するような人々が、束の間、落語家の話を聞いて笑い、何かを得て、少しだけ心が軽くなって、再び社会へと戻って行く。寄席には、人それぞれに効用があり、効き目の強弱がある。よく酷い客に対するツイートを目にすることがあるが、それは自分の心に芸の効用が強く作用しているからである。私のような呆け者は、例え予定時刻より早く終わろうとも、酷い客がベラベラと喋っていようとも、何とも思わない。それはひとえに、生きるとは兎角、雑音が多いということを理解しているからである。何とも申し訳ない言い分であるが、嫌いな人と付き合わねばならぬのも人生、一生涯相容れない人間と付き合っていかねばならぬのも人生である。だから私は、嫌いならば嫌いなりに、相容れぬなら相容れぬなりに、人物に対して接し方を変える。態度を変える。人によって、己を変化させる。なんぞ貴様は芯の無い奴ぞ!と罵られようが知ったことではない。争わぬと一度心に決めた身、雑音なぞに無用な時間を割いてはいられないのだ。

さて、戯言が過ぎた。いつものように幕が開き、開口一番の登場である。全落語家を評すると長大になるため、以下は気になった方々を抜粋。

 

立川談吉 権兵衛狸

末廣亭という風情のある場所で談吉さんを見るのは初めてだった。寄席で見ると普段と違った味わいというものがある。考えてみたら、談吉さんの動物物は初めて聞く。『千早ふる』や『阿武松』などをこれまでシブラクで聞き、そのメロディアスな口跡と、甘い饅頭を食んでいるような柔らかい語り口が魅力的だった。

寄席で見る談吉さんの、権兵衛狸は最高の可愛らしさだった。何より狸が異常に可愛らしく、天井に吊るされている狸の哀れさもさることながら、狸をどう処理するか残酷な会話をする男も、そこに悪意が無く、ふざけているような雰囲気があって、狸にとっては絶体絶命の状況なのだが、聞く者はなぜか心がほんわかするという、不思議な語り口であった。饅頭を食むと、最初は表面の塩気に食欲が湧き、次いで歯を立てて饅頭の餡が舌の上に乗ると、その甘さに恍惚とするような、そんな甘く柔らかい語り口が耳にすうっと入ってきて、この『軽さ』の奥に左談次師匠がいて、『所作』のメリハリに談志師匠が生きているような気がする。

狸の人柄というのは演者によって非常に多種多様である。同時に、狸を見守る人の了見もまた、演者によってかなり違う。談吉さんの狸は、声のトーンも相まって、非常に可愛らしくて、吊るされてシュンとしてうな垂れる狸が可哀想だった。それを見つめる人々の了見も、若干サイコパスな狸汁にしたい男と、狸の頭を刈って坊主にする男の会話も、どこか漫画チックで童謡的でありながら、ふんわりと流れるようなリズムと声が、穏やかな空間を作り上げているように思えた。

この『軽さ』を、私は出来ることならば寄席の流れの中で味わいたい。今回は前座の後で登場した談吉さん。より深い位置で、ふいに現れる『軽さ』を体験してみたい。何とも言い表すことが出来ないのだが、これはまず一聴して、その軽さを体験した後でなければ理解が難しいかも知れないが、談吉さんはピアノ曲が続いた後で、唐突に現れるヴァイオリンのソロ演奏というような感じがするのだ。と、こう書くと「マグナム小林さん?」と思われる方もいるかも知れないが、そういう感じではない。もっとふわっとした、ベートーヴェンの曲の間でモーツァルトを聞く感じと言えば良いだろうか。我ながら表現に困るのだが、そんな魅力が談吉さんにはあると思う(どんな魅力やねん)

 

桂才賀 カラオケ病院~左談次師匠を偲んで~

Youtubeで、若かりし頃の左談次師匠を背負う才賀師匠の動画を見たことがある。その時のエピソードを語られる才賀師匠の姿が、妙に印象に残っている。その背に左談次師匠を背負った才賀師匠。「見たいですか?」と左談次師匠を背負った芝居について客席に語り掛けると、客席は万雷の拍手。高座に座している筈の才賀師匠だったが、私の脳裏には左談次師匠を背負った才賀師匠の映像が流れていて、その時のぬくもりを感じながら今、才賀師匠は高座に上がられているのだな、と感じた。

お馴染みのカラオケ病院に入る前に、左談次師匠のことを語られる才賀師匠。出来ることなら、再び、左談次師匠を背負う才賀師匠が見たかった。無茶はしなくてもよいので、そんな景色を一度、この眼で見て見たかった。

 

立川龍志 小噺~左談次師匠を偲んで~

お初にお目にかかる落語家。声が本調子で無かったようだが、その声の掠れ具合の随所に左談次師匠のトーンが見え隠れ(この場合は聞こえ隠れか)して、思わず胸が締め付けられる。左談次師匠同様、とても素敵な笑顔が印象に残った。語りのリズムとトーンも柔らかく、どこか左談次師匠に似ているように思えたのは、単に声の調子が掠れ気味であったためだろうが。ひょっとすると左談次師匠が龍志師匠の喉を借りて、寄席の高座の僅か数分だけやってきたのではないか、そう思えてしまうほどに、私は龍志師匠の声の中に、左談次師匠の姿を見たのだった。

医者の小噺などを披露され、ネタはやらなかったが、いずれ声が本調子に戻ったら、もっとネタを聞いてみたいと思った。立川流に脈々と受け継がれている談志師匠のDNAが、談志師匠亡き後も連綿と続いていることの奇跡を、私は仲入りの間、ずっと噛み締めていた。

 

 桂竹丸 弟子小噺

お弟子さんの竹千代さんや笹丸さんは何度か見たことがあったが、師匠である竹丸さんを見たのは初めてだった。ゆるキャラのような可愛らしい体格、そして心地の良い語りのリズム。言尻に現れる「すっ」という感じが、「あ、竹千代さんもこんな語り方だったな」と思って、師匠と弟子の共通点を発見できたのが嬉しかった。会場を巻き込む話芸もさることながら、何よりもリズムが素晴らしい。そして、現代の感覚に合わせた話題を差し挟むところなどは、非常に知性のある人なのだなと思った。それはお弟子さんも同様で、歴史の語りで他の追随を許さない竹千代さん、漫画家の人生を語る笹丸さんなど、エンターテイナーとしての話芸が滲み出ていて、初めてだったがとても面白かった。次は寄席のトリで見てみたい。

 

 立川談笑 花見酒

さらに、こちらもエンターテイナーな談笑師匠。お肌がつやつや真っ白で、ヨーグルトだけ食べてるのかな、と思うほどに白い。もはや絶品の声と語り口で始まった『花見酒』は、左談次師匠追善ということもあって、特別仕様。これがまた物語のアクセントになっているし、ワードだけで登場人物の映像が思い浮かんでくるのだから、まさにイリュージョンと言っても良いかも知れない。談笑師匠の粋な計らいによって姿を変えた『花見酒』は、終わってしまうのが惜しいほど軽やかに進んでいった。これも談笑師匠のお人柄だと思うのだが、落語の雰囲気がとても優しい。特別仕様になって、左談次師匠の姿が脳内に思い起こされる時の、何とも言えない気持ちが、笑いと同時に涙を誘う。物語の中で、言葉として発せられるだけで、脳内で活き活きと動き出す二人の落語家。談笑師匠にどんな意図があったかは分からないが、素敵で粋なネタを聞くことが出来た。

一席終えて袖に消えて行く談笑師匠。そして楽屋から漏れる笑い声が羨ましい。出来ることなら楽屋に混ざって談笑師匠の花見酒について語り合いたい思いに駆られる。いいなぁ。あんな雰囲気の中で、左談次師匠は生きていて、語り継がれていって、あの満面の笑みを見せてくれるのだろうなぁ。と思うと、この追善を誰よりも追善たらしめたのは、談笑師匠だったかも知れないと私は思った。

 

 春風亭一朝 蛙茶番

一朝師匠が登場すると、きゅっと場が締まる感じがして、安心安定の本寸法に心が落ち着く。特別仕様の談笑師匠の後で、これほどきっちりと古典に雰囲気を変えることが出来るのは一朝師匠しかいないのではないか。寄席では絶対に外すことの出来ない存在である。確実に塁に出る打者といった感じの素晴らしい落語家である。ネタも長尺の蛙茶番だが、一切ダレることなく、気持ちの良いリズム、口跡、そしてトーン。一朝師匠の安定感というのは、最初は全く気にならなかったのだけれど、立川流の落語家が続く流れで見ると、改めて素晴らしさが分かるというか、古典に場の雰囲気を完璧に調律する感じが、堪らなく凄いのである。

たとえ下ネタの蛙茶番であっても、一朝師匠の気持ちの良い語りと、お茶目で可愛らしい軽さのある声で聴くと、卑猥さはどこにもない。むしろ、江戸っ子の粋さえ感じられる。このスタンダード感、江戸標準感というのは、弟子の春風亭朝七さんにも表れていると私は思う。マクラを聞いた時は「あ、芝居の喧嘩かな」とも思ったのだが、嬉しい誤算であった。

芝居の喧嘩という話も、一朝師匠の気持ちの良い語りで聞くと、その後に出た落語家がどれだけ暴れていようとも、きゅっと場が締まる。これぞ、ベテランの見事な芸だと思いながら聞いていると、オチを言い終えた後で会場を去る方々が数名いた。うむ、致し方なしだ。と思えるほどに、一朝師匠の蛙茶番は素晴らしかった。

 

林家正楽 紙切り

左談次師匠の追善ならではのリクエスト。『あの町この町』をリクエストされた方は実に粋だと思った。最期に正楽師匠が切った紙切りも斬新かつ面白くて、寄席には出ていない川柳師匠が目立つという、謎の状況が生まれた。

 

立川談幸 町内の若い衆

トリで登場の談幸師匠。中音の気持ちいいトーンで軽めのネタをさらりとやる。左談次師匠の追善らしい軽さがとても心地が良かった。女将さんの演じ方も品があって、ブッサイクな女将さんという感じが微塵も感じられなかった。逆に、その品の良さが女将さんに妙な色気を生み出していると思った。随所に細かいクスグリがあって、客席も笑いに包まれていた。なんだかラデツキー行進曲を聞いているような、軽くスキップするような感じで寄席が終わって行くネタであると思った。

爽やかにさらりと、立川左談次師匠の一周忌追善興行が幕を閉じた。

 

総括 心の春のともしびの その先の輝きに座す

時は異なる。満開の桜の木に囲まれて、私はブルーシートを敷いて仲間と酒を酌み交わした。少し肌寒いが酒を飲めば体は温まる。いずれ酔って寒さなぞ忘れる。桜は恋をした少女の頬のように、薄っすらと赤みがかって可愛らしい。何度季節が移り変わっても、桜の美しさは変わらない。同じように、好きな人には何度あっても好きだという思いは変わらない。この世の中で変わらずに存在し続けるのは、形の無いものただ一つ。などとくだらぬ戯言を思いつくが、キリンビールの前では意味を成さない。

心に春がやってきて、もしも灯を灯すのだとすれば、その灯の先にある輝きの奥で、思い人は座しているのであろう。と、訳も分からず書いてみる。心に春がやってくると、言いようのない高揚感、未来への期待感が増してくる。そして、気づけばぼんやりと灯火が蝋燭の先に灯っている。賑やかな場所で唐突な孤独を感じる時に、私はその蝋燭の輝きに縋る。景色が美しければ美しいほど、それを他者と分かち合うことの出来ない寂しさを自覚するのだが、そんな寂しささえも消し去ってしまうような灯火の輝きの奥に、座布団が敷かれ、その上に座す落語家の姿を見るのだ。

満開の桜が咲く度に、私は左談次師匠を思い出すだろう。金遊師匠や馬楽師匠のことも思い出すだろう。春の風に乗ってこの世界から、天国の寄席へと遠い旅に出てしまった人々のことを思う時、私は再び、松尾芭蕉の言葉を思い出す。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也

誰もが旅人であることを自覚する。確か宮本輝先生だったと思うが、『錦繍』という著作の中で、以下のようなことを書かれていた。

生きていることと死んでいることは、同じことなのかもしれません

うろ覚えで恐縮なのだが、何となく、そんな言葉が頭の中にある。誰かが忘れない限り、その人は死ななない。これは永六輔さんの言葉だが、

人間は二度死ぬんだよ。最初の死は、肉体の死。二度目の死は、家族や生者がその人の事を語らなくなった時なんだ。

まさしく、我々が語り続ける限り、死者は死なない。そんなことを思いながら、私の頭の中にある高座には今日も、名人達が上がり続ける。そして、座布団に座して一席を語り始める時、私はその高座姿に、ただただ見とれ、笑うのだ。

ブログ村ランキングに登録しています。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 落語へ
にほんブログ村