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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

ズレテモピタリ~2019年6月23日 ナツノカモ低温劇団 『ていおん!!!』 18時回~

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山下メンタル

 

俵万智

 

コント

 

笑い

 

星に願いを 

  

触れるまではシュレディンガー

子供の頃、炬燵に入っていた時に目が覚め、喉が渇いたので起き上がるとテーブルの上に透明な液体の入ったコップがあった。そのコップに入っている液体が水だと思って飲んだら甘口の日本酒で、思いっきり噴き出して「死ぬぅ!!!死ぬぅ!!!」と泣きじゃくったことがある。その時のおばあちゃんの申し訳なさそうな顔が忘れられない。「ごめんね、照ちゃん。ばあちゃんが飲もうと思っていれてたから、ばあちゃんが悪いね・・・」と言って、私の頭を撫でたのだが、私は肝臓が何も言わずに死ぬだろうと思って自暴自棄になっていたから、ばあちゃんの手を振り払って、「うっさい。死ぬぅ。ばあちゃんのせいだ!ばあちゃんのせいで死ぬ!」と絶叫しながらばあちゃんを睨んだ。母も、ばあちゃんに向かって「なんでそんなところに、お酒の入ったコップなんか入れておくのよ」とばあちゃんに言っていた気がするし、ばあちゃんもとても申し訳ないという表情で「まさか飲むとは思わなくて」と謝っていた。今になって思えば随分と酷いことを言ってしまったという記憶がある。

結局、それからしばらく泣きじゃくり、もう二度と酒を口にするものかとその時は思ったのだが、バーボンの美味さに目覚めてしまい、今は肝臓と上手にお付き合いできる方法を考えながら酒を飲んでいる(チェイサーに水が一番)。あのとき、ばあちゃんに怒って酷いことを言った自分が情けなくて、時々思い出して胸が苦しくなる。

そんなズレが、世の中にはたくさんある。紅茶だと思って飲んだら珈琲だったとか、熱いだろうと思って触ったら冷たかったとか、ゆっくりだと思って触れたらとても速かったとか、男だと思ったら女だったとか。

そんな『ズレ』というのは、見る側にとってはズレであっても、相手にとっては『ピタリ』であることがある。例えば、オムライスにはケチャップが合うと思っている私が、オムライスには苺ジャムだと思っている人に出会った場合、

オムライスに苺ジャムってありえないでしょ、絶対ケチャップでしょ」と、私が『ズレ』だと思っても、「いやいや、ケチャップはマジありえない。絶対に苺ジャムでしょ」と、相手には『ピタリ』であるみたいな感じ。

上手く言えないけど、そういう『ズレテモピタリ』な作品を作ったら、右に出る者はいないんじゃないかという男が一人。名前を『ナツノカモ』。出来ることなら、私はナツノカモさんが生み出す究極の『ズレテモピタリ』な作品が見てみたいと思っている。

今日は、天気も実に『低温』で、サリンジャー風に言えば『低温劇団にうってつけの日』だと思った。プーク人形劇場の近くでは『最低賃金上げろ!』のデモ行進とか、風船で犬を作る路上アーティストとか、ブライス人形みたいな女性達が街を闊歩していたけれど、全部が全部、私には『ズレ』でも、向こうにとっては『ピタリ』なのかも知れなかった。

きっと、自分の思う『ズレ』を『ピタリ』に変えるためには、『ズレ』だと自分が思っているものに触れてみなくちゃ分からないのだと思う。箱を開けるまで猫が生きてるか死んでるか分からないみたいに。遠くから見ていたら、「うわぁ、なんかデモやってるよ」とか、「なんであんな恰好してるんだろう」とか思うだけで、ずっと自分の認識は相手と『ズレ』のままだ。でも、一歩踏み出して相手の思想とか、考えに触れてみたら、自分の『ズレ』が『ピタリ』になる。そんな感覚って、皆さんには経験が無いだろうか。

クドくなりそうなので、この辺でやめておこう。

 

 01 最強の男

黒澤明で言えば三船敏郎手塚治虫で言えばヒゲオヤジ、小津安二郎で言えば笠智衆みたいに、『この人の作品でこの人出て来なかったらどうすんの!?』という意味で、ナツノカモさんと言えばおさむさんである。声を大にして言いたい。

ナツノカモと言えば、

 

 おさむさんである!!!

おさむさんである!!

おさむさんである!

おさむさんである

 おさるさんである

最後はちょっと違うけど、何と言っても『おさむさんがおさむさんである』ということの面白さが存分に発揮されていて、ドヤ顔で最強感を見せつけてくる暑苦しいまでのおさむさんの雰囲気が最高だった。唯一無二のフラというか、『めちゃくちゃマジだけど、思いっきりズレてる』雰囲気を醸し出させたら、おさむさんは無敵である。声を張り気味のこば小林さんのツッコミにも冷静に対処しながら、めちゃくちゃメンタルが弱く、泣き虫なことを恥ずかしがる様子もなく、むしろ攻めの姿勢でインタビューに答えるおさむさんの姿に笑いが止まらなかった。今回はやすさんの『川口メンタル』が発揮されていたけど、正直、おさむさん単独だった方が面白かったかも知れない、と欲張りにも思ってしまった。

特に前回の『ノットヒーローインタビュー』のイメージが私の中では強烈にこびりついていて、出来ることならおさむさん一人で思いっきりズレていって欲しいという欲が私の中で出てしまった。もっと振り切れてるところが見たいなぁ。相変わらずおさむさんはおさむさんで凄いわぁ。と思った作品。もっと見たい!もっと異次元のおさむさんが見たい!

 

 02 日曜日の教室

ノスタルジックな雰囲気で始まる休みの教室が舞台の『日曜日の教室』。しまだだーよさんの不思議な透明感?ミステリアス感?サイコパス感?に振り回されるナツノカモさんとこば小林さん、そして一人だけズレ続けるやすさんの姿が面白かった。

シュールな雰囲気とともに、いつの間にか場を支配しているしまだだーよさんの役が魅力的で、しまだだーよさんの言葉に知らず知らずに従ってしまう三人の姿が、子供らしい純粋さの中に危うさを秘めているように思えて、不思議だった。

現実と非現実のラインを軽々と飛び越えてしまえるのは、しまだだーよさんが持つ不思議な非現実感なのかも知れない。感情が顔に現れて来ないしまだだーよさんの怖さと、それに戸惑いながらも何とかしまだだーよさんと接点を持とうとする三人の対比が、何と言えば良いのか、正に『低温感』に包まれていて、全体を通して、この作品が一番『低温らしさ』があったと思う。日常と地続きでファンタジックな世界が、たった一言で出現してくる、その違和感の無さにゾクッとする。ずっと親しくしていた友人に、ある日突然「おれ、実はかぐや姫の息子なんだよね」みたいな発言をされて、「ああ、やっぱりね」みたいに言ってしまうような安易さ。絶対に辻褄が合わないのに、辻褄が合ってしまうような説得感にガツンとやられてしまう感じ。

なんとなくだけど、私が感じるのはしまだだーよさんが軸になっている物語に、強く『低温っぽさ』を感じる。前回の『夢風船』も一番低温っぽいと思ったし、しまだだーよさんが絡んでいた。ひょっとすると、今後はしまだだーよさんが低温の軸になってくるんじゃないだろうか。わかんないけど。

 

03 月の裏側

様々なことに疲れ果てたウサギ感全開のサンキュー氏演じるうさ太郎、どこまでもおさむさんなうさ吉、真面目なのか馬鹿なのか分からないこば小林さんのうさの助、謎のフレーズと微妙にカッコ良く無い台詞を吐き捨てるナツノカモさんのうさ子、色々と屈折した育成方法で育ったプライドで生きるしまだだーよさんのうさの丈

5人(匹?)もいるのに、全員の個性が際立っていて、一番過激で、今回の『ていおん!!!』の軸とも呼べるコントだと思った。低温感ってそもそもなんだ、と思ってしまうくらいに、徐々に煮えて、滾って、沸騰していくようなコントで、とにかく面白かった。シチューを作ろうと思っていたら、最終的にカレーになるみたいな、否、もっと別のものになってしまうような、そんな生物の『変態』を見るような、ゾクゾクするコントだった。

特に会話がズレ始めた段階で、ギリギリまで違和感を保っていたうさ太郎が、あっさりとうさの丈の言葉を受け入れる場面には、ある種の爽快感がある。なんていうか、ウサギが蛇に飲み込まれるような感じ。ずっとジリジリと蛇(違和感)の睨みに「ヤバイぞ、ヤバイぞ」と思っていたウサギ(観客の意識)が、ゆっくり、ゆっくりと蛇に食まれ、飲み込まれる段階になっていても「ヤバイ」と思い続け、最後にはストンッと飲み込まれるような感覚。そして蛇がウサギの形の蛇になっちゃうみたいな感じ。観客の意識が、あっさりと違和感に飲み込まれ、もはや違和感と感じなくなって、むしろ普通に変わってしまうような感覚。

さらには、ジェンガで積み木を引きながら、倒れる予感を感じている感覚に近いかも知れない。「ヤバイぞ、ズレてる。倒れる、倒れる・・・」と思って、スッと引いたら、カターンッと全てが崩れ去るんだけど、その瞬間に新しいジェンガが想像される感じと言えばいいんだろうか。一言で言えば『ズレテモピタリ』。

もっと例えに挑戦する。幼虫が蝶になるのは蛹という過程があるからだと思っていて、蝶しか知らない人は幼虫を見た時に「え?これが蝶になるの?うそでしょ?」っていう違和感を抱くと思う。今回の『月の裏側』は、幼虫が蛹になり蝶になるっていう過程を見せられるんだけど、観客はずっと「幼虫から蝶になったけど、そもそも蝶ってなんだ?」っていう問いが発生して終わる感じと言えば良いだろうか。

ちょっと駄目だ。言葉が思いつかない。次回の公演までに、その深淵に迫れるようにしたい。

そして、この『月の裏側』こそ、最期で驚愕の『ピタリ』を見せてくれるのだ。

 

 04 桜の女の子

 

インコさん、炸裂!!!

  炸裂、インコさん!!!

 

と思ってしまうほどに、インコさんの得体の知れないスター性が発揮されたコント。とにかく喋りまくるインコさんのリズム、語りのトーン、そして台本を見て驚いたのだが、驚異の即興性。マジでパネェっす。インコさん。

溢れ出るインコさんの『ヤンキーな兄ちゃん感』とストレートなピュアさを持ったくぼたみかさんの綺麗な佇まいと眼差しの対比が素敵なコント。

想像の中に生まれる桜の風景と、それを見つめながら面白い話を喋り続けるにいちゃん、そして座りながらボディーランゲージを駆使するはな。たった二人の登場人物なのに、そこに流れる空気の温かさ。ずっと春の温かさの中に包まれている感じ。これも凄く『低温』なんだけれど、これは人の情の温かさだと私は思った。『日曜日の教室』はどちらかと言えば、計測されたデジタルな低温っぽさなんだけれど、『桜の女の子』は体温計で計って赤い水銀を見つめているような、アナログな低温っぽさがあって、私はどちらかと言えば、アナログな低温っぽさを好む。

インコさん演じるにいちゃんが、なぜ悪い人になったのか、どんなことをして悪い人になったのか、説明されないところが、とても良かったし、私も想像しない。それはただ言葉の意味だけがじんわりと染み込んできたからだと思う。省略の美学なんて簡単な言葉に収束しない、もっと大らかでざっくりしていて、ビアードパパのシュークリームを食べるような、そういう曖昧な言葉の甘さが、凄く、凄く、心地よかった。私なんて説明し過ぎてラーメン二郎みたいになっているから、もっとざっくり書きたい。

話をざっくりすることで、作為的な雰囲気が薄れる気がする。説明し過ぎない良さが光っていると思った。それはたまたま道を通りかかったら、道端で桜を眺めながら兄弟らしき男女が面白く話してる場所に出くわして、ついつい聞き入ってしまったような、そういうふとした瞬間に、初めて体験するような感覚があって、私はこの話がとても好きである。

欲を言えば、私の知っている『過去に絶対に酷い目にあったけれど、それを乗り越えて強く生きている女性感』のある清水みさとさんがはなを演じたら、また別の雰囲気が生み出されただろうなぁ。と、とても欲張りなのだが、そんなことを思ってしまった。清水みさとさんは、無口でも凄く映えるし、無口から言葉を発するときの感情の爆発っぷりと来たら、私の記事『さよなら光くん、さよなら影さん』を見てもらえば分かると思うのだが、凄まじいのである。うーむ、凄まじすぎてコントには合わないか。

 

 05 歩きスマホの親

デジタルな低温感のあるコントで、ワードの一つ一つで雰囲気を作っていく感じが面白かった。ふわふわとした光る温かい球体を、お互いに交換しているような感じで、互いに「え、これ何?気色悪っ」と言うことなく、「あ、温かいな。これ、猫かな」と言って相手に渡し、「いや、イタチかもよ」と言って相手に渡し、「イタチ?鳥っぽさもあるな」と言って相手に渡し、「鳥か、アザラシかもな」と言って相手に渡し、みたいな、そういうことが繰り返されているうちに、どんどんふわふわとした光る温かい球体が何なのか分かんなくなっていってしまう感じ。

見知らぬ人の会話の中心にあるものは見えているんだけど、その見えているものが一体何なのか分からない。でも分からないのに耳を立ててしまって、聞き入ってしまうのだが、最期まで聞いても何だったか分からない。そんな不思議な面白さがあって、『誰もが皆、誰かの親だ』と話を聞き終えて、感想を思うのだけれど、それは自分の心を落ち着かせるためだけに、その場しのぎで生まれた言葉であって、本質はもっと違うところにあるのではないか、と思ってしまうような会話が『歩きスマホの親』にはあると思った。

時折、ザクっと真理のような言葉が迫ってくるのだけど、それすらも中心を穿っていない感じ。霧の中を彷徨っている感じとは微妙に違うのだけれども

考えれば考えるほど不思議な話で、面白いなぁ、と思った。

 

 06 ぼくたちの終末

このコントは、最初に抱いていた思いが最後にひっくり返される時の衝撃が凄まじくて、勝手に鳥肌ものの傑作だと思った。特に『月の裏側』を見たことによって、強烈な流れが出来たと、私は勝手に思って、驚いている。

以下、なぜ私が驚いたかを記して行こう。

冒頭は、ナツノカモさん演じるライターとサンキュー氏演じる学者の会話。現実に対して、専門の分野で培った言葉で受け入れて行く人の姿が、ここには表れていると思った。多分、私もサンキュー氏演じる学者に近くて、あーだこーだと言葉で現実を受け入れて行くのかも知れない。と思った。それは例え、受け入れられない現実であっても。

次は、ライターとこば小林さん演じるサラリーマンの会話。ナツノカモさんの思う、一般的なサラリーマンが、終末に対して抱く思いが表現されている感じで、特に子供が生まれたばかり、とか、奥さんが暗い部屋でボーッと座り込んでるとか、凄く胸が切なくなってくる言葉があって、静かにしんみりとした雰囲気があった。私も、家族を持ったら、そんな風に思うのだろうか。いつ終わるとも知れない人生に、終わりが見えたとき、どんなことを自分は思うのだろうか。その時、自分の隣にいる人の姿を見て、私はどんな行動をとることが出来るのだろうか。と様々な問いが浮かんでは消え、解決されないままに宙を彷徨った。

三番目はライターとしまだだーよさん演じる気象予報士。これっていわゆる『宗教』だな、と私は思った。面白おかしく茶化されているけれど、終末を前に『宗教』を信じる人の、強さと言えば良いだろうか。私はあまり詳しくないけれど、何かを熱狂的に信じている人は、終末を前にしても動じない。それははっきりと、自分に信じるモノがあって、それが唯一無二だと思っているからだと思う。免罪符を買えば、たとえ閻魔大王に会っても、怖くない。だって俺は免罪符を持っているから!というような雰囲気があって、そんな人物にしまだだーよさんが選ばれているところが、ナツノカモさんの素晴らしい配役センスだと思った。

或いは、何かを達成したと思っている人の象徴として気象予報士が選ばれていたのかも知れない。これは私的な意見だが、刻刻と変わりゆく気象の、しかも予報士になったことを、達成として、満足できるだろうか。日々ごとに気象は変わっていくのに?

私には達成した喜びを感じることは出来ない。何かをハッキリと断定させた時に、達成した、と思いたい。だが、先のボルタンスキー氏の作品の影響か、いずれ全て消え去る運命にあるのに、何かを達成したなんて思うことが、果たして可能なのか。それは束の間の達成感なのではないか。と、色々と考えてしまうのだが、これ以上はやめておこう。

いずれにせよ、何かを信じている人は、ちょっと恐ろしい。と私は思いながら、「ずみ」の力強さに、クスクスと笑った。

四番目は芸人のおさむさんとやすさんがライターの前に登場する。

終末なんて関係ねぇ、ただ自分たちがやるべきことを好きなだけやって終末を迎えるんだ!という底抜けに純粋な意志が、終末がやってくることすら忘れてしまうような、笑いの強さに満ちている。

忘れてしまうような、と書いたが、正直、忘れるのである。笑いに包まれているときだけ、全てのことが忘れ去られる。私なんて、しょっちゅう笑っているから、大事なこともそうでないことも、すぐに忘れる(それは駄目)

でも、なんだか、凄い輝きを私は芸人に感じた。いずれ全ては消え去ってしまうけれど、それでも、自分にやれることを信じてやり続ける。その強さに私は憧れと同時に、嫉妬しているのかも知れない。食える食えないとか、死ぬ死なないとか、そういう理屈とか、合理性を捨て去って、『芸人がやることは、それだけです!』 と言い切れる強さ。とんでもなく強くて、とんでもなく輝いている。

終末が近づいても、『空手』みたいなコントを見て、テイテイ、押忍押忍言える瞬間って、何物にも代えがたい幸福な瞬間だと私は思った。

人生がそんな時間で埋め尽くされたらいい。そんな幸福な時間で人生を埋め尽くすために、私は演芸を聞く。演芸こそ、我が人生の全て。そして、『演芸好きがやることは、それだけです!』と言い切れる日が、いつか私にも来るのだろうか。

五番目は、インコさん演じる楽家が登場する。インコさんの醸し出す雰囲気もさることながら、何かを掴む時の仕草が思い出しても面白い(デヴィッド・リンチかよ、と思った)。絶妙なカリスマ感を表現しながら、一言一言が重く響いてくる。終末を前にしても、新しいことは生み出されていく。その対比にハッとさせられる。終わりを前にしても何かが始まっていて、完全に終わったとしても何かが始まる。終わりと始まりの、ズレてるんだけど、ピタリな感じが、ここに来て表現されている気がして、陰陽合体というか、陰陽太極図な感じがして、凄く興味深かったし、音楽家の「何がしたいの?」が、とても怖いくらいに、胸に響いてきて、ライターの戸惑いに自分を重ねてしまって、胸が苦しくなった。

その後の音楽家の言葉。宇宙に放り投げだされたみたいに、掴むべき場所を忘れてしまう感じに、ボーっとしながら魅入ってしまった。

楽家に向けて放った言葉に呼応するかのように、くぼたみかさん演じるライターのが登場する。お母さんは死んでいるんだろうか。この空間は一体何なのだろうか。どうして向き合って喋ってないんだろうとか、そういうことを全て抜きにして、この二人の会話は、生も死も同じなのではないか、という思いを抱かせた。

宮本輝の『錦繍』にもあるように『生きていることと、死んでいることとは、もしかしたら同じことかも知れない』という問いが、私の中に浮かんできた。そんな生死のボーダーを軽く飛び越えていけるのが、何と言ってもナツノカモさんの素晴らしさだ。

そして、ラストシーンである。

これが、凄い。

語るべきか、

私だけの満足にとどめておくか迷ったが、

書こう。

 

ぼくたちの終末』のラストシーンで、『月の裏側』に登場した5人のウサギ達がワイワイ喋りながら、ライターの前に登場する。それは、月の裏側にいたウサギ達が、地球に降り立ったことを意味している。そして、ウサギの内の一人が、ライターに向かって、一言、尋ねるのだ。

この一言に痺れた。

同時に、それまで終末について語っていた人々に対する思いが、一変してしまうような思いに駆られた。最後の最後まで、じんわりと、終末を受け入れる態勢を整えていたのだけれど、最後の最後に出てきたウサギ達を見て、「あ、これ、地球に月、衝突しないや」と思ったのである。

それは、私が勝手に都合よく理由を当てはめたからである。

これは希望的な理屈付けである。妄想である。

私は『月の裏側』にいたウサギ達5人は、『地球でコントをするために月に来た』のだと勝手に思った。けれど、いつの間にか『コントって何?』から『コントってどこにあるの?』に変化して、とうとう地球までやってきてしまったのだ。

その為に、月は地球に近づく必要があった。月はウサギ達の『コントって何?』と『コントってどこにあるの?』という思いを原動力に、地球に接近していたのだと思った。だが、地球にいる人々は、だんだん大きくなる月を見て「そろそろ地球も終わるのだ」と思い込んだ。この『ズレ』、宇宙規模の『ズレ』が私の頭の中に生まれた。そして、それを勝手に『ピタリ』とするために、私の妄想が走ったのである。

最後のシーンまで、私は終末を迎える人々の話を聞き、しんみりと、自分自身も終末を迎えるような心持ちで聴いていた。だが、そこに『コントをやりにきた5人のウサギ達』が出てきたことで、『月が近づいてきたのは、決して地球の終末を意味しているのではなく、コントを探しにやってきた5人が、単に近づいてきただけだった』と私は思ったのである。

死ぬと思っていたら、全然違う方向に生きることになった。みたいな感覚と言えば良いだろうか。それまで自分が思っていたことが、スパッとスライドさせられて、全然違う景色を見せられたような感覚があって、それが、とても気持ち良かった。この思いを抱いたのは私だけだろうか?

そんな思いに絡めとられて、私はコントを知ったウサギ達5人が、再び月の裏側に戻り、地球から去って行くのではないか、と思ったのである。

じゃあ、今までの終末に向かう人達の会話って、何だったの?って話になるのだが、何だったんでしょうね、と私は思う。きっと、終末に向けて考える時間だったのかも知れませんね、と言うかも知れませんね。(超無責任)

結構、この辺りの見解を色んな人と話したい欲求があるのだけれど、例によって、レスポンスを頂ける方は限られているし、どんな感想でも構わないのだけれど、誰か、他にどんな風に思ったのか、めちゃくちゃ気になる。

少なくとも私は『月の裏側』と『ぼくたちの終末』はセットで考えている。その繋がりにある妄想を、私は記したに過ぎない。

けど、ここはとても語りたい部分だったことは間違いない。出来ることなら、ナツノカモさんと友達になって、その辺りを詳しく聴いてみたい。誰か、私の代わりに聴いておいてください(超無責任)

 

総括 ズレテモピタリ

プーク人形劇場を出ても、雨は降っていなかった。最高に『低温』だった。他にどんな舞台があるのかな、と思って入り口に並べられたチラシを見ようと思ったのだが、素敵な美人さんがワクワクした表情でチラシを眺めていらしたので、そそくさと去ることにした。時刻は20時を過ぎていた。

幸福な時間だった。本当に、本当に。とても、とても。

次回公演のチケット、台本、缶バッチを購入して、寂しい財布になったが、それでも心は不思議と、あの『低温』を感じていた。

全然、低温じゃないのは、きっと私の心が冷たいから?なんて、そんなことは無いと思いたい(割と真剣に)。

今回、私的には『ズレテモピタリ』というワードを軸に、記事が一連の繋がりを持って動き始めた感覚があった。私なりに、ナツノカモ低温劇団について、記すことができていたら、幸せである。

出来ることなら、色んな人と感想を共有したいと思う。ボルタンスキー氏の記事でも書いたが、何が正解で不正解ということは無いから、色んな意見を聞いてみたい。そして、それはナツノカモさん、そしてみんなの想像を超えて、また新しいモノになる気がするから。

いずれにせよ、次は10月6日である。あっという間に来るだろう。

楽しみで、楽しみで、楽しみで、

 

 楽しみだ!!!!

 

こんな素敵な会を知れたこと、教えてくれた人、そしてナツノカモさん、ナツノカモ低温劇団の皆さんに感謝の思いを込めて。

再び、幸福な時間が訪れますことを祈りながら、記事を終わります。