落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

見えるもの、見えぬもの、一つ~2019年6月30日 SAN-AI GALLERY Ayame Nishida Solo Exhibition~

f:id:tomutomukun:20190630140218j:plain

 

見えるものと、見えないものを一つに

 

円山応挙の幽霊画

 

百の顔、千の顔が浮かんでは消えた。

だがいずれもシッダルタの顔に違いなかった。

 

雨に降られて 文菊に振られて

「マ、マジか・・・」

小雨振る永田町、国立演芸場の前で私は茫然と立ち尽くしていた。最高裁判所の陰鬱な壁が押し迫ってくるかと思えるほど、私の心は消沈した。なぜなら、国立演芸場にて行われる『圓朝に挑む!』という会の、当日券が無かったのである。

入場して『本日満員』の文字を見た時に、嫌な予感はしたのだが(その時点で諦めろよ)、無駄な足掻きだと思いながら、若干動揺しつつ「当日券はありますか?」と尋ねると、案の定、受付の美人が「申し訳ございません、本日、完売となっておりまして・・・」と、ゲレンデでボーゲンでもするかのような眉毛を見せたので、内心、滑りたいのはこっちじゃいっ。鰍沢と心眼が聞きたいんじゃいっ、圓太郎と文菊に挟まれたいんじゃいっ(最後のは嘘)、と心の中で暴言(ボーゲン)を吐いたが、無いものはどうしようもないので、「そ、そうですか・・・」と、ずっとただのスキンヘッドだと思っていた友人が、実はお寺の坊さんだったことに気づいて戸惑った人みたいな反応で、国立演芸場を去った。

最高裁判所で裁かれる訳でもないのに、訳の分からない凸凹のある最高裁判所の壁を恨めしく眺めながら、とぼとぼ歩いて駅に向かい、電車に乗った。

暇になった時間をどう埋め合わせようかと考えていた矢先、どこでどうフォローしたのかも忘れてしまったのだが(ゾマホン氏の時も同様)、一人の画家の展示会があるとの情報を見た。以前から、その類稀なる才能を発揮している一人の画家の実物の絵を、私は見てみたいと思っていた。

文菊師匠に振られ(振られてないけど)、センチメンタルな心を抱えた私は、一路、気になっていた画家の展示を見るために、展示会場へと向かったのだった。

 

 SAN-AI GALLERY

目的の場所に辿り着いて、まず「入りづらっ・・・」と思ったが、折角ここまで来たし、こちとら圓ちゃんと文ちゃんに振られた(振られてないけど)ので、会場の雰囲気に気圧されながらも、扉をグッと押して階段を上がった。天国の階段ならもっと気楽に登れると思う(地獄行きなんて言わないで)のに、一歩一歩が重く、豆腐に刺したモヤシの如き足腰を必死で昆布(鼓舞?)しながら、やっとの思いで辿り着く。富士山登頂並みの勢いである。もっと広いスペースを想像していたのだが、意外と狭くて、親近感が湧く。丁度いい広さである。

ニックスの藤原紀香こと、トモさんに似ている女性に「あ、えっと、展示会やってます?」みたいなことをマスクごしに呟くと、「あ、はい、どうぞ」という挨拶で、そっと展示会場に入る。壁には、一人の画家の絵が飾られている。

基本的に人見知りであり、身バレもしたくない性質であり、ずっとマスクをしていて素顔を見せず、作品に没頭したい派であるのだが、こんなに小スペースだと、語らざるを得ない無言の圧力があって、何とか振り絞って元々無い会話力を駆使して、展示会の主役である画家さんとお話させて頂いた。

画家の名は、西田あやめという。Twitterで見た『あし』の絵が妙に「いいな」と思い、前から気になっていた。画像を通してしか判別できなかったのだが、どこか寂しげな雰囲気を私は作品から感じていた。でも、それは決して後ろ向きな寂しさではなくて、前向きな寂しさ。GADORO曰く『俺は散々逃げてきたけど、後ろに逃げたんじゃねぇ。前に逃げてきたんだよ」という感じがしていた。(どんな感じやねん)

 

この街の花

私は絵に詳しい人間ではない。それでも、見る者の心を打つ絵というものには、人に語らせてしまうだけの力があると思っている。極上のウイスキーを飲んだ時に、思わず言葉が口をついて出てしまうみたいに。

絵を見ることは、作者との対話であり、自分との対話でもあると私は思っている。正解不正解などない。どんな絵を見ても、どんな芸術に触れても、『自分はどう感じたか』を私は書くことが、正だと思っている。詰まる所、絵は作者の表現を通じて自分を映す鏡であるのかも知れない。

そんなことを思いながら、私は西田さんの作品を見た。西田さんの絵には、見えている景色と見えていない景色を混じり合わせた、幻想的な風景が描き出されていると感じた。スケッチのような淡く不確かな線で描き出されたビル群は薄い白で彩られ、大地からはゆらゆらと淡いグリーンの炎のような花が立ち上がってくる。どことなく、オーケストラの静かな序曲を見ているような、そんな小さな花の姿を見た。

じっと眺めていると、右に一羽の鳥が飛んでいることに気づいた。

この鳥に、私は静謐な力強さを感じた。西田さん曰く、不忍池の風景を描いたという『この街の花』。一羽の鳥の羽ばたきに、私は飛躍したいという願いにも似た気持ちを感じたのである。

都会には様々なビルが建ち並び、そこでは多くの人々が働いている。そんなビルを覆うように沸き起こる花に、地方からやってきた人々が一所懸命に芽吹こうとする意志を感じたのである。それは、互いに手を取り合って支え合っていく温かさに包まれているように見えた。一方、そんなビルと花から遠い位置で羽ばたく一羽の鳥に、新しい場所へと旅立つ者の姿を感じたのである。

この作品には、都会の無機質で単純な佇まいの中で、温かく、情に厚い人々の姿、そして次の世界へと羽ばたこうとする静謐な羽ばたきがあると私は思った。

ご本人の絵の説明はここには記さない。是非、展示を見に行って、西田さんご本人の言葉で作品に触れて欲しいと思う。その力強さ、ありのままを言葉にする西田さんの、真っすぐな言葉に胸を打たれるだろう。

 

 スワンボートに乗りたかったという思い

展示された作品の中で、とりわけ鳥肌の立った作品があった。それは、不忍池にあるスワンボートを描いた二枚の作品である。一見した瞬間に、ぞわぞわっと背筋に電撃が走った。数秒の間、「す、凄い・・・」と驚いて魅入ってしまった。

その絵は、まるで涙で滲んだ風景を描き出したかのように、スワンボートが、二重にダブって描かれている。私には泣いている人が書いたように見えた。タイトルの『乗りたかった』という言葉を目にした時に、思わず胸をぐっと締め付けられてしまった。

スワンボートの実像を有りのままに捉えていた筈なのに、そこに『乗りたかった』という悔しさの感情が混じったとき、現実のはっきりとしたスワンボートの実像が歪んで、二重になって見える瞬間の、言いようの無い悔しさというか、寂しさというか、悲しさが見えたのである。私には母親の手に引かれ、スワンボートから遠ざかって行く一人の少女が、泣きながら必死に記憶に留めようとする姿が見えた。

もしも、スワンボートに乗ることが出来ていたら、見る景色も、記憶に残る景色も、違っていたのかも知れない。

私にも、そんな『したくても出来なかった記憶』が幾つもある。

遊園地に行って、食べたくても食べられなかったアイスクリーム。折りたくても折れなかった鶴。乗りたくても乗れなかった乗り物。見たくても見れなかった催し。会いたくても会えなかった人。私の場合は、それがはっきりと歪むことなく見えるのだけれど、西田さんのスワンボートの絵を見て、その記憶すらも滲んで二重に見えるということの驚愕の視点。

思わず、ご本人に伺ってみたくなって、「泣いているように見えますね」と言うと、私の思いとは全く異なる意志を持って描かれていたことが分かって、さらに驚愕というか、「す、すげぇ。無意識でこれを書いてるのか・・・」と感嘆してしまった。素人の浅はかな感想は、芸術家の発想と意志には到底及ばないのかも知れない。

私だったら、きっと狙って描いてしまうと思う。私は絵を描くのが下手だし、そこまで好きではないから、絵を描くことは無いだろうけれど、絵を二重にダブらせて書くことの意味を「泣いているから」という意志を持って書いてしまうだろうと思った。けれど、そう考えて書くと、どうしても『作為的』になってしまうだろうと思う。西田さんの絵には、作為的に二重にしている感じが一切無い。むしろ、もっと別の、拡がりを持った意志で描かれているのだと気づいて、素晴らしいと思ったし、それは是非、ご本人の言葉で感じて欲しい部分である。

私は特に、このスワンボートの絵がお気に入りである。

 

もう見えない

 

西田さんの絵には、感情の温度があると私は思った。それは、西田さんが見つめる景色の外にある、感情の淡い温度であるような気がする。

たとえば、寒い時期に息を吐くと白い息が目ではっきりと捉えられるみたいに、西田さんは、普段は目にすることの出来ないものを、西田さん自身の温度で浮かび上がらせているように思えたのである。そして、それは誰にも真似できるものではなく、西田さん自身の、はっきりとした温度故に浮かび上がってくる景色だと私は思う。

タイトルの意味が気になって、ご本人に尋ねた『もう見えない』という作品も、前日まで書いていたというお話も、作品の風景が西田さんの温度で表現されていて、私はその温度が心地よく、どことなく前記事の『低温』な印象を受けた。それは決して冷たいというものではなくて、むしろ人の手の温度に近い。

考えてみれば、ナツノカモ低温劇団の、どことなくシュルレアリスムな感じにも通じるような印象を受けた。もっと他の作品を見てみたくなるような、そんな作品が展示されている。令和元年を迎えた時に目に着いた風景、東京駅の正門、室外機の風景、二重になったベンチ。どれも、見えるものと、見えないものを、一つの風景の中で重ねて表現されていて、前記事でも書いたのだが、『ズレテモピタリ』な絵である心地よさがあって、恐らく、ナツノカモ低温劇団の感想記事の後に、ふさわしいタイミングで、見るべくして見た展示だったのだろうと私は思った。

それは、見えるものも、見えていないものも、全ては一つであるというような考えであろうか。

私にはそんな考えに思い当たる場面がある。

ヘルマン・ヘッセの著書『シッダルタ』の中で、ゴヴィンダがシッダルタの額に接吻をすると、百の顔、千の顔がシッダルタに浮かび、そのどれもがシッダルタの顔であるというような記述がある。私は、西田さんの作品の『見えるものと見えないものが重なって一つ』となっている部分に、同じような思想というか、近い景色を感じた。今は二重に描かれた景色が、ひょっとすると十、百、千と幾つにも重なって描き出されるのではないか、これが人間だったら、どんな風に景色は拡がっていくのか。と、私の知性はふつふつと好奇心に押し流されつつあり、想像も膨らんだところで、よし、と決意してその場を後にした。

 

総括 才能は放っておかれない

改めて実際の作品を見ると、静謐で穏やかな作者の感情が見て取れる。絵を描き、展示会まで開くことが出来るのは、とても素晴らしいことだ。

落語・講談・浪曲と、普段は生の演芸に触れ、形の無いものに対して、自分がどう感じたかを書いているうちに、次第に、美術など、その他のあらゆる芸術についても、語るための言葉が沸き起こってくるというか、備わっているような気がする。(気のせい?)

所詮、名も無き書き手ではあれど、こうして書き続けることは無駄にならないと思う。むしろ、自分にとってとても良いことであると思うのだ。

ほんの些細なきっかけで、私は足を運んだ。結果、とても素晴らしい才能の一端を見ることが出来て、とても幸運だったと思っている。

もちろん、私も一応は演芸の記事を書いているので、左甚五郎だったり、『円山応挙の幽霊画』を講談、浪曲で聴いて欲しいということをお伝えした。特に真山隼人さんが素晴らしいということは言いそびれた。左甚五郎で浪曲と言えば京山幸枝若師匠の『竹の水仙』ですよねぇ。(誰に同意を求めているのか)

また、ご本人から『円山応挙の幽霊画』のお言葉が出てきた時は、とても嬉しい思いだった。私は東京都美術館で開催されていた『奇想の系譜展』で長沢芦雪の作品などを目にしており、言われてみれば確かに日本画の流れがあるように思えた。(誰のどの部分というのは詳しく無いが)

西田あやめさんの展示会は、7月6日まで行われている。是非、西田さんの描いた作品を見て、その温度を確かめてほしい。そして、西田さんご本人の言葉に触れて、作品の世界に身を浸してみてはいかがだろうか。

圓ちゃんにも文ちゃんにも振られたけど、結果、とてもいい展示会を見ることが出来た。

サンキュー氏も言っているけれど、『素晴らしい才能って、放っておかれない』のだ。