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我が心の藪の装い~2019年10月19日 古今亭文菊独演会~

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縦にこすると生魚

 

つっぱらかっちゃって

 

食べさせてやりてぇなぁ 

 

藪野暮

茶道の場には『禅語』と呼ばれる先人の教えが掛け軸などに記され、壁に掲げられている。日々、茶道の世界に身を委ねていると、日毎に自分の心というものが、どういう状態であるかということが、如実に分かってくる。たとえ、昨日と同じような所作や振る舞いをしても、はっきりと今日の自分の所作や心構えや体調といったものが、まるで昨日とは違っていることに気が付く。

ふと掛け軸を見れば、そこには『日々是好日』とある。今日の自分が、今日の自分を受け入れて、あるがままに生きること。損得や優劣などに囚われることなく、ひたすらに自己と向き合った先にある好日。掛け軸の言葉を見て、自分が今『足りず欲するもの』と『足りて欲せざるもの』とが何か、見極めようとして茶と向き合う。

そんな、『心のリトマス試験紙』のような茶道について考えたのは、私の心が茶道の心意気に惹かれているからであろう。時間さえあれば、禅に取り組みたいという欲求が強い。いつからそんな思想を抱いていたかと言えば、ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』を読んだ辺りから、心惹かれ始めていた。別段、宗教的な強い思想は持ち合わせてはいないが、スッタニパータなどのブッダの教えを読むと、深く共鳴する部分が多いことに気づいた。

詰まる所、それは『自分自身の肯定』であるのかも知れない。自分と似通った思想や、精神を身の回りに集めることで、自分を肯定し、安心を得たいのかもしれない。安らかなる心とは、まず自分を受け入れることから始まるのではないだろうか。

23時に寝て、目が覚めたのは午前2時。踏切に望遠鏡を担いでいくわけにも行かず、ぼんやりと又吉先生の『人間』を読んでいた。毎回思うのだけれど、周囲の人間と自己との対比が、強烈に素晴らしく表現されている。こんなことを言うのはおこがましいけれど、又吉先生は人と人との間にあるもの、溝というか、段差というか、隔たりというか、壁というか、そういう『人の間』にあるものを、書き記そうとしていて、それが物凄く面白くて震える。

凄いな、と思っていたら4時30分になって、少し筋トレしようと思って5時まで筋トレ。プロテインを牛乳でシェイクし、再び寝たのが6時。それから8時に目が覚めて、身支度を整えて、文菊師匠の独演会へと向かった。

日々、心の装いを新たにしていく。良いとき、悪いときという話ではなくて、朝目が覚めた時の自分を、まず知る。そして、その状態が、仮に決めた最善の状態とどの程度の差があるかを知る。昨日よりも今日、今日よりも明日。僅かな自分の変化を感じながら、前へ進むのか、ときに、後ろに進むのか。

何事も、全ては自分を受け入れることから始まるのではないか。

あー、

茶道を習いたい。

 

春風亭枝次 狸鯉

注目している前座さんが出演されるときは、お得な気分。枝次さん、めちゃくちゃ上手くなってる。声の感じとか、言葉の淀みの無い感じとか、ちょっとした細部の言葉の言い回しとか。うわぁ、すげぇなぁ。と思いながら、にこにこ見ていた。

体も大きくて、ラガーマンのような体格から繰り出される落語の、なんとも言えない重厚感というか、『大工の職人が語っている感じ』が堪らなく良い。きっと、普段の仕事では数人の弟子を抱えながら、カンカンと木に釘打ってるんだろうなーという感じがあって、いずれは名人になる。絶対なる。

今でいえば、桂藤兵衛師匠とかの立ち位置になるだろうか。確かな技術と気風の良い感じがどことなく似ている気がする。これから一体、どんな話をしていくんだろうか。とても気になる。

好きな噺家さんの落語を聞くと、はっきりと今日の状態がどんな感じか分かるから嬉しい。それは、聞けば聞くほど分かってくる。まぁ、ぼくがそう感じているだけなのかもしれないけど。冒頭に書いた茶道で感じたことのように、日々のちょっとした変化に気が付くときって尊い。たとえ調子が悪くとも、聞く者は受け入れる。それがその日のベストだったら、それを受け入れるのが聴く者の心構えじゃないだろうか。演者を活かすも殺すも聞き手次第だ。

とても賑やかに沸いた客席。枝次さんの実力がメキメキ上がっている姿を見ることができた。

 

古今亭文菊 目黒のさんま

マクラではラグビーのお話。めちゃくちゃ共感です。ノーサイドの精神とか、うわー、語りてぇって思った。にわかファン同士、一緒になって楽しみたい。

演目の『目黒のさんま』は、お殿様の泣き虫っぷりが可愛らしい。以前聞いた時よりも、登場人物の彫りが深くなっているように感じられた。とにかく温室育ちなんだろうなぁという可愛らしいお殿様が、どこか憎めなくて愛らしい。殿さまのワガママに振り回される周囲の者達の対比と相まって、とても面白い一席だった。

 

古今亭文菊 藪入り

この話に関しては、冒頭から涙腺決壊。

もしかしたら以前に書いたかも知れないが、私が大学生の頃、実家に行くと必ずばあちゃんが「照、お食べ。お菓子もあるよ。寿司でも食べるかい。味噌汁もあるよ。ご飯も炊けてるよ。納豆もあるよ」と言って、とにかく私を太らせようとしてきた。食糧難の時代を乗り越えてきたからかも知れないが、私の祖母はお腹いっぱい食べることを勧めてくる。その気持ちが、ときどき嫌になっていたけれど、祖母の気持ちを蔑ろにはできないから、「今はお腹いっぱい。後で食べるよ」と言って、ごまかしていた。

そんな祖母の姿が、文菊師匠の演じられた『藪入り』の冒頭に重なった。亡くなった祖父は、「食べろ、食べろ」とは言わなかったけれど、料理をするのはいつも祖父で、いつも美味しかった。何も言わなかったけれど、量はてんこもりだった。祖母は自分で作ってもいないのに「いっぱいあるから、腹いっぱいお食べ」と言ってくれた。その心意気が嬉しかった。だから、ついつい食べ過ぎて、大学生の頃は今より10kg以上、体重があったと思う。恩には恩で応えたかったが、度を超すと自らが肥える。

食事の尊さは断食をして改めて分かったのだが、計り知れないものがある。殆ど、食べるために生きているのかも知れないとさえ思った。食べることを断ってしまうと、途端に人生に喜びが失われる。帰ったら何を食べようというワクワク感が消え、「痩せるためだ。食べないぞ」と思っただけで辛い。せめてもの楽しみと、一日一粒の梅干しで耐えた時は、一日の最後に食す梅干しがとてつもない美味さだった。

そんなことを思い出して、藪入りの冒頭、夫婦のやりとりを泣きながら笑っていた。心の中にふつふつと温かい液体が込み上げてきて、それが目からずっと零れて止まらなかった。

奉公先の亀が帰ってきた後の場面や、嬉しそうな父親の行動など、随所に胸を打つ場面があって、泣いたり笑ったり、良く分からない感情に心をぐじゅぐじゅにされながら、最後の最後まで泣きながら見た。朝から文菊師匠に泣かせられ、気持ちの良い涙を流した。なんと温かい『藪入り』であったことか。

祖父母との思い出や、たまに実家に帰った時の両親の振る舞いであるとか、親を思う子の気持ち、子を思う親の気持ちが、いちいち温かくて、なんとも言えない思いが込み上げてきて、泣くしかなかった。名演。名演。名演である。

終演後、恥ずかしくて目をこすりながら会場を後にした。『藪入り』自体初めて聞いたお話だった。オチが素晴らしい。円楽師匠や圓太郎師匠や金馬師匠や小三治師匠とも異なるサゲ。一体、どなたから教わったのだろう。

涙で濡れた目を拭って、私は一路、冨士見湯を目指した。

 

富士見湯 風呂神様の縁

 

開店時間の15時30分前には、ちょっとした列が出来ていた。タオル配布の日とあって、結構な人数が銭湯に押し寄せていた。

すっかり銭湯の入り方を会得した私は、体を洗った後、まずはぬるま湯でアイドリング。その後、とても熱いが匂いの良い『薬湯』に浸かり、その後水風呂に入り、水風呂から出たらしばらく休むということを何度か繰り返した。

30分ほどで出るはずだったのだが、結局1時間も入ってしまった。本当は自由が丘で開かれる文菊師匠の独演会に行きたかったのだが、欲張らずに帰ることにした。

最近はノンアルコールビールにハマっており、お酒の雰囲気を味わいながらYoutubeをだらだらと見て、途中、本を読んだりして過ごした。

四連休、申し分ないスタートである。

涙で始まった文菊師匠の独演会。さてさて、この四連休はどうなることやら。