落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

一心不乱の節の情~2019年7月14日 一心寺門前浪曲寄席~

 

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抽象絵画

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ジャコメッティとヤナイハラ

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一心寺

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その心の先にある光 

 

辻征夫で目が覚めて

朝6時に目が覚めた。雨音は無い。くしゃくしゃのシーツに紛れて、流れることなく留まった枕の横にあった辻征夫の詩集を手に取りページを開く。雨についての詩を読む。私の心の中に降りしきるものを感じる。辻征夫先生とは友達になれるような気がする。出会うべくして出会ったのだと私は思った。

今日は良い日になるという予感があって、それは時折やってくるのだが、前日あれほど楽しかったのに、さらに楽しくなる気がするのだから、なんとも贅沢であろうと思った。

旅に出ると、何か美しいものを見たいという気持ちが強くなる。無意識の内に、美しさに惹かれてしまうのは、本能がそれを求めているからだろうか。東京を出て大阪の土地に降り立ったのだから、何か美しい出会いの場に自らを置いてみたい。そう考えると必然、美術館に行きたいという思いが沸き起こってきた。

どこか美術館が無いかと探してみると、『国立国際美術館』が近くにあることが分かった。少し散歩でもしようと思い立ち、ホテルを出たのは8時頃であったか、うすぼんやりとした曇天の空模様の中、私は歩くことにした。

天満天神繁昌亭界隈については随分と詳しくなったと思うが、まだそれ以外の地理については殆ど何も知らない。ただ歩いているだけでも、街を流れる川や、ひっそりと静かな街の佇まいが、曇り空の中で熱を籠らせているようにさえ感じられる。まるで、コーマック・マッカシーの『The Road』に出てくる世界を想像してしまうくらいに、灰色の空がぼんやりと、私の心を埋め尽くして虚無へと誘っていく。

道中、何を考えていただろうと思い返す。喧噪の無い世界のことだっただろうか。それとも、どんな美術作品に出会うのだろうという期待感だろうか。『The Road』では父と子は終末の世界を歩き続ける。道中、様々な出来事に巻き込まれるが、それでも希望を捨てることは無い。父が子を支え、子が父を支える関係がそこにはある。では、私は一体何に支えられているというのか。ただ風に流されて、流されるがままに揺蕩っているだけの、肉体を持った魂なのか、と飢餓感を抱き、とりとめのない事柄を考えながら、私は目的の場所まで辿り着いた。

まだ開場時間まで時間があるため、近くのコンビニで休憩した。たまたまTwitterを見ると、『本日の浪曲』情報を毎日上げてくださる方のツイートが目に入り、見ると、一心寺というお寺で浪曲会があるという。ならば、美術館に行った後でも間に合うだろうと思い、私は美術鑑賞の後に一心寺に行く予定を立てた。こうした偶然の発見があるから、Twitterは面白いと思う。おおよそ、私の行動はtwitterの情報によって気まぐれに変化していく。

開場時刻になって、私は国立国際美術館に入り、そこで『抽象世界』と『ジャコメッティとI』という二つの展示を見た。

思うところは、確かにあった。

元々、私はジャクソン・ポロックのような、岩本拓郎のような、抽象絵画を愛している。その無限の想像力を見る者に湧き起こすような色使い。そして色の躍動感。存在そのものが一つの『概念』であるかのような作品群。それらを見ることは私にとって非常に重要なことであり、はっきりと意味のある行為なのだ。

言語と同義で私は『抽象絵画』を捉えている。何か感情の、言語化しきれない部分を『抽象絵画』は担っているように思うのである。一度、その得体の知れない概念に出会ってしまうと、鳥肌を抑えることが出来ず、ひたすら自己との対話の中で、答えを探すというか、処理をすることになる。その瞬間に、1対1で作品と向き合う空間が生まれる。それはとても幸福な時間であり、殆ど無の境地に達する瞬間もあるのだが、同時に苦痛の時間でもあるから、今は少し語ることは止そうと思う。

 

一心寺へ

ただひたすら歩いて、歩き続けて三千里、とまでは行かないが、ようやく辿り着いた一心寺。Google mapで一心寺に設定していたおかげで、線香と蝋燭の匂いが立ち込める一心寺でお詣りすることが出来た。浪曲の会場は『一心寺南会所』で、幟もあるのでわかりやすい。ご常連のお客様が多いらしく、受付で楽しそうに話をされている姿が目に映った。中には木馬亭で良く見る人々もいて驚く。私は生来の人見知りなので、特に話しかけなかったが、浪曲愛する人々の力には凄まじいものがあると思う。

こういう人々に支えられているからこそ、浪曲は再び、新しい世代によって目覚ましい発展と注目を浴びるのだろう。確かマッカーサーは『ルールを守った者よりも、ルールを破った者が我々の記憶に残る』というようなことを言っている。

何がルールという訳では無いが、古典も良いけれど、新作を作り続けて時代に合う、時代を作る浪曲が生まれることも、私は期待したい。玉川太福さんを筆頭に、若手浪曲師達には、きっとできる筈である。

そして、今まさに、東京から大阪へと住む場所を移し、この一心寺の舞台で一人の浪曲師が活躍をしているのだった。

 

京山幸乃/一風亭初月 橋弁慶

もしも自分の運命を変えてしまうような演芸に出会ってしまったら?

人は一体どうしたら良いのだろう。その運命は果たして良い方向へと進むのか、そんな事は誰にも分からない。ただ一つだけ言えるのは、自分の人生を最良にするか否かは常に自分自身に委ねられているということだ。私の周りで常に前を目指している人々は、トライ&エラーを繰り返しながら、自問自答をし続けている。まっつぐに突き進む人の周りには、自然と素敵な才能を持った人々が集まってくる。或いは目をかけられていて、ある日突然、見出される者もいるのだ。

京山幸乃という人の、まっつぐな大きな瞳には一点の迷いもなく、力強く、まるで黒真珠のような輝きがある。そして、芸の道、浪曲の道を突き進むと決めた、一心不乱の強く太い心がある。マクラでは過去を振り返りながらも、今の自分を見失うことなく、ブレることの無い声。そして雪のように白い肌。一目見ただけで、その力強く、凛とした侍のような佇まいに圧倒された。

そんな風に、私は幸乃さんを見た時に思った。クリームパンの中にあるクリームのような着物が素敵だった。そして、一風亭初月師匠の鋭い眼光。佐藤貴美江師匠のクールさと、一風亭初月師匠の妖艶さに迫られたら、お兄さんは「立ち上がれニッポン」状態です(意味が分からない)

演目は、弁慶と牛若丸の出会いに纏わる一席である。

伸びやかでハリのある声、ドスの効いた弁慶の声。プロとしての確かな節回し。何よりも、カッと見開かれた大きな瞳が、迫力のある浪曲だと私は思った。もはや本当に三本?と疑いたくなるようなキレ味鋭い初月師匠の三味線に導かれて、胸と心が心地の良い波を渡るが如く、揺られ揺られて気持ちが良い。

この話では、特に弁慶が過去を振り返り、まさかこんな形で牛若丸と対面することになろうとは!と後悔する場面があるのだが、そこで私の胸にぶわぶわっと熱いものが込み上げてきた。じんわりと瞳が温かく潤うのが分かった。

物語に流れる人と人との情が、一心不乱に芸の道を突き進む幸乃さんの節と相まって、まっつぐに、太く、私の心に染み込んできた。もがきながらも、一つ一つ丁寧に、確かめるように、三味線の音に導かれた幸乃さんの姿が心に焼き付いて離れない。たとえどんな選択であっても、人生航路じゃないけれど、一度決めたら二度とは変えぬ、その一心不乱さの、輝きに満ちた姿を、私は遂に見ることが出来た。

 

大当たり!!京山幸乃!!

 

万雷の拍手と共に去って行く幸乃さん。客席のご婦人も「あの子、幸枝若の弟子よ。凄いわね」と言っていた。まさか私も一席目から泣くとは思っていなかったので、嬉しい驚きだった。本当に凄い。これからがとても楽しみだ。

 

真山一郎 涙の花嫁姿

お初の一郎さん。見た目から発せられるオーラが凄い。良い声してそうだなー、スケソウダラー、と思いつつ、三味線無しのオペレーターによるバックミュージックによる浪曲。三味線での浪曲に慣れている身としては僅かな違和感はあるが、エコーの効いた晴れ渡る空の様な声には、天界から降り注ぐお告げでも聞いているかと思うほど、耳に染み込んでくる。品のある女形の声と表情。実の娘と分かっていても、自分が実の母だと言い出せないカヨの気持ちが、しっとりと染み込むように心を潤す。

客席のご婦人のすすり泣くような声が聞こえる。はるか遠くにあるものを、優しく見守るかのような、一郎先生の眼が印象に残った。

艶のある素敵な節と、母と娘の思いに浸って心地よく仲入り。

 

春野恵子/一風亭初月 天狗の女房

お江戸上野広小路亭で見て以来の春野さん。十八番シリーズということで、天狗に攫われて、天狗の女房になった女の話。一振り一振り巨大な鎌で心をバッサリ切られるかのような、鬼気迫る迫真の浪曲で、太く、刻み込むかのように、どす黒い人間と、天狗の心情が渦巻き、洞穴という舞台も相まってか、ほぼトラウマになるのではないかと思うほど、おどろおどろしい物語だった。

以前書いたかも知れないが、春野恵子さんの浪曲は登場人物が憑依しているかのように、表情、声、どれもはっきりとして真に迫っている気がする。瀕死の天狗を前に、それまでの怒りや憤り、鬱憤を開放する女の、言いようのない闇に恐ろしさを感じて身震いしてしまった。そして、初月師匠の三味線。連続して単音を弾きながら、徐々に音階を上げて緊張感を高めて行く。その三味線の音色が、どろどろした物語を極限まで高めているように感じられて、しばらく目が離せなかった。初月師匠の表情と、恵子先生の表情が、ぐぐっと物語を盛り立てていた。

幻想的で日本昔話のような、何とも言えない怖さ、根源的な怖さに何度も心が震えた。正に十八番の、鬼のような一席。一瞬、恵子先生が天狗に見えた。

 

天光軒満月/虹友美 空海一代記~スリランカの花

ティーブン・セガールかと思うようなオールバックと、『浪曲』とも言いたい深い皺。佇まいで良い声してそうだなぁ~という感じの風貌の満月師匠。

満月だから月の光なのに、むしろ太陽の光を想像してしまうほど、有難い徳のある説法でも説かれているかのように響いてくる声。何となくお寺らしさがあるなぁ。これは数十万の壺でも買ってしまうかも知れない。と思うほどに、誠実で温かい雰囲気。

最後の歌唱(?)は若干引いて聞いてしまったけれど、会場に集まったご婦人・紳士の皆様は、神々しさに包まれて、とても安らかな表情をしていた。

続くスリランカの花は、日本の敗戦後、スリランカの大統領が言った一言で日本が救われたという話。恥ずかしながら存じ上げなかった。

短いけれど、満月師匠の貫禄と心地よい声に心洗われて終演。

 

総括 初・一心寺

思えば遠くへ来たもんだ、という海援隊の歌があるが、日本全国、世界中、行こうと思えばどこへでも行けるのだな、と思う。東京から大阪へ行き、この一心寺で一心不乱に芸の道を突き進んでいる幸乃さんを見ることが出来て良かった。本心を言えば、羨ましくもある。私はまだ、人に誇れるほどの力も、知名度も無い。他に好きなことをやりながら、空いた時間に、別の好きなことをやっているだけに過ぎない。私には好きなことが多すぎて、一つにこれだ!と決めることの出来るものが無い。だから、一つの道を究めようと努力している人が、とても羨ましいのだ。

大勢の常連に紛れ込んで、さして読まれもせぬ記事を書く男が、一心寺を後にし、一路、繁昌亭へと向かうのだった。