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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

屑屋の風情~なかの芸能小劇場 古今亭文菊独演会 2019年12月22日~

どんな商売でも、一所懸命にやらなくちゃいけないよ

手を抜くことも必要だけれどもね。

ちょっとした幸運というものは、

一所懸命に頑張ってくると、ほんの僅かに

見えてくる。雲の隙間から射す

光みたいなもの

  

 寒風にさらされながらも燃ゆる

自分には何の取り柄も無いのだと諦めて歩く街の寂しさは、自ら氷風呂を作って入る寂しさに似ている。入る必要も無いのに、出来ることなら温かいお風呂で安らぎたいのに、気が付けば水をいっぱいに溜めて、大きな氷も入れてしまっている。入らざるを得ない状況を自ら作ってしまっている。一度、氷風呂に入ってしまったら、冷たさに震えてガチガチと歯を打ち鳴らし、どうしてこんな風呂に入ろうと思ったのかも分からぬままに凍死。

私の場合は鯵の開き直りというやつで、取り柄なぞなくとも街は歩ける。何は無くとも街は歩ける。風が吹こうが槍が降ろうが、雨に降られようが恋人に振られようが、陽は昇るし、一日は始まるし、悩みは尽きぬが好奇心も尽きぬ。氷風呂など一瞬で熱湯風呂に変えてしまえる。それくらい、底抜けに明るいのだが、周囲からは「暗い」だの「元気が無い」だの言われる。感情表現は人それぞれである。

さて、恒例となった文菊独演会。15時開催とあって、客席も大入りである。みんな本気を出せば来れるのである。さすがに10時ともなると、寒い時期はかなり過酷であるが、それを補って余りある文菊師匠の二席が、朝のひとときを黄金に変えてくれる。まさに『午前10時の錬金術』であった文菊師匠も、『午後3時の魔術師』へと変貌を遂げ、温かい絶品の二席を披露してくれた。

 

 入船亭扇ぽう 狸札

前座は扇ぽうさん。真面目さが滲み出た端正な一席。

 

 古今亭文菊 締め込み

文菊師匠の演じる泥棒の間抜けさもさることながら、印象的な人物は何と言っても女将さんであろう。お湯屋の帰りか何かで、お友達と喋りながら帰ってくる場面の艶っぽさが面白い。家で勘違いをして待ち構えている旦那との争いも、女将さんが旦那さんを愛している気持ちが素直に伝わってきて、眉間がツーンと心地よい。

たとえ言い争っていても、夫婦の間に相手を思いやる気持ちというか、本気で好きなんだという気持ちが溢れ出ていて、微笑ましくてちょっと羨ましい。互いに愛という名の水を蓄えたスポンジがぶつかりあって、じゅわっと水を放出させて行くような、そんな温かさがある。

その喧嘩の張本人である泥棒が出てくる場面も、泥棒を許容するくらいに夫婦間の結束が強いのだなということが分かって、なんだか胸が苦しい。今のご時世がどうか知らないけれど、ここまで夫婦互いに好きになれたら、理想だろうなぁと思う。ま、現実が落語のように上手くいくかについてはノーコメントで。

夫婦の愛の口喧嘩と、それを引き起こし、自ら収める泥棒の間抜けさ。最後のオチの洒落っ気が気持ちいい一席。

 

 古今亭文菊 井戸の茶碗

当時、屑屋という商売が人々にどのように受け入れられていたのか、ということが、この話を楽しむ一つの要素になってくるのではないだろうか。

今では『廃品回収業者』として、電化製品だったり古新聞を出すと、代わりにトイレットペーパーをくれる業者がいる(東京では殆ど見かけないが)

昔はどれほどの知名度があって、どれくらいの立場だったのか分からないが、昔はたまに「うるせぇ、この屑野郎」なんて罵倒する言葉があったくらいだから、それほど丁重に扱われるような職業では無かったのだろうと思う。

決して脚光を浴びる商売では無い屑屋に光が当たる話が、『井戸の茶碗』である。窮境のわらしべ長者とでも言うべきお話なのだが、中身はそれほど単純ではない。

ひょんなことから、若き侍と老人の間を行き交うことになる屑屋の清兵衛。曲がったことが大嫌いだという真っすぐな性分が、なんと言ってもこの物語に華を添えている。

私が個人的に好きなのは、仏像から出た金を素直に返そうとする武士、高木作左衛門である。ちょっとズル賢い人間だったら、仏像から出てきた50両を黙って懐にしまってしまうだろう。そうなると、『井戸の茶碗』はそこでお終いなのである。

だが、ちゃんと返すのである。それも、自分に仏像を売った屑屋を探してまで返そうとするのである。なかなか普通の人間に出来ることではないと思う。たまたま自分の買った古本に、50万円分の札が栞として挟まっていたら、警察に届けるだろうか(もちろん、そんな状況になることはありえないが)。私は自分の胸に手を当てるのだが、多分、警察には届けないと思う。ラッキー・クッキー・ミッキーと大はしゃぎで、すぐに50万を使ってしまうと思う。残念ながら、たとえ50万円を見つけたとしても、それを夢だと偽ってくれる女房もいない。

井戸の茶碗』には、様々に真っすぐな人が出てくる。屑屋の正直な真っすぐ。高木作左衛門の正直な真っすぐ、千代田卜斎の誇りの真っすぐ。全てが削れることなく、折り重なって妥協点が見つかるところが、私はとても好きなのである。

そして、色々な物を取引した結果、最後に訪れる結末には、何とも言えない幸福感がある。普通に考えたら「千代田って人は、本当に見る眼が無いんだな・・・」と思ってしまうところを、きっちりとした心の清らかさで返す高木作衛座衛門の心意気。そして、その間に挟まって右往左往しながらも、幸福の架け橋となる屑屋。

温かく、輝くような心根に痺れた一席だった。

 

終演後

終演後、文菊師匠の会で良くお会いする方達と軽い忘年会。色々なお話を聞くことが出来た。とても楽しかったし、まだまだ語り足りないことばかり。素晴らしい芸は人を饒舌にする。素敵な一夜だった。