落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

『底知れなさ』をたのしもう~2020年3月13日 渋谷らくご 20時回~

漠然とした不安は、立ち止まらないことで払拭される。

羽生善治 

 シブトク・シブラク

風が吹けば桶屋が儲かるみたいに、コロナが流行れば演芸が廃れるなんてことはありえない。僕はそう思っているし、それは紛れもない事実だ。むしろ、心配事が増えれば増えるほど、演芸は活気を見せる。噺家さんたちはもちろんのこと、聞く側だって盛り上がっている。転んだってタダでは起きない。僕はそんな演芸の力を信じているし、今まさに目の前で拡がりを見せているのは、演芸の持つ可能性なのだ。

いつだって演芸は日本人の心に根差していて、雨が降ろうが槍が降ろうがコロナが来ようがカローラが来ようが、びくともしない速度で進化していく文化だ。コロナなんて軽く追い越す速度で走るんだ。コロナをたんと召し上がったところで、僕は演芸を喰らうし、演芸にクラウンだ。

考えてみれば、噺家と死んだっていいくらいの覚悟で演芸を見ているのだ。こちとら生半可な演芸好きじゃない。コロナが騒がれて、人が集まって感染が拡大する懸念があって、次々と演芸会は中止になっているけれど、僕は別にコロナで死んだとしても落語が見たい。不安に怯えてビクビクしたまま死の間際「ああ、あの時、見ておけばよかった・・・」なんて後悔はしたくない。だったら、「結果的に死ぬことになったが、僕はあの芸を見たことに後悔はない」そう言って死のうじゃないか。

命がけなのだ、演芸を見るのは。

読者の中には、そんな僕を笑う人もいるかも知れない。

笑いたければ笑うがいいさ。でも、僕はそんなあなた以上に笑っていきるよ。

この記事の読者の中には、僕を笑う人はいないと信じている。

演芸を愛する者の人生に、不安で立ち止まっている時間など無いのだ。

立ち止まらずに、笑う。

それが、今の僕の在り方だ。

そして、今宵、コロナの影響を受けて次々と落語会が中止になる中で、渋谷らくごは開かれた。

渋谷らくごはしぶといのだ。シブトク・シブラクなのだ。

そう簡単に崩れてたまるものか。何がコロナじゃ。

どん底まで落ちるというのならば、どん底まで付き合おうじゃないか。

こちとら演芸好きだ。落ちることには慣れっこだ。

落ちて落ちて落ちて行く。底知れない面白さを僕は知っている。

噺家さん達の芸だって、底が知れないのだ。

底知れない恐怖に怯えるよりも、底知れない演芸に笑おう。

今宵は、そんな演者の物凄いパワーを感じる素晴らしい会だった。

 

柳家花いち アニバーサリー

貧しいときほど、人の想像力は豊かになる。他者を見て足りない自分を否定するよりも、今自分に有るものを肯定して生きていく力。人間に出来る最も優れた力、それが想像力だ。

コロナに感染したら真っ先に死にそうな、虚弱な表情でありながら、花いちさんが魅せた新作には強烈なパワーがあった。

これぞ、今の時代を貫く、たくましい想像力なのだ。

マスクも無い。トイレットペーパーも無い。ティッシュペーパーも無い。何もかもが『無いもの尽くし』で、ストレスが溜まって、恐怖に煽られて心が荒んでいく人々がいる。薬局に行っても、大型ショッピングモールに行っても、路地裏の窓も、向かいのホームも、どこを探しても、足りない、足りないと焦る心。

足りないなら補えばいいのだ。

花いちさんが教えてくれるのは、想像で補うということだと僕は思った。

どんなに貧しくても、どんなに足りないと思っても、どんなに不安になっても、どんなに怯えても、落語を聞く者が身に付けている力は、想像力だ。思い込みや妄想なんて言葉もあるように、想像力を発揮できる人は強い。現実主義者からすれば「馬鹿が呆けていやがる。現実逃避だ」なんていわれるかも知れない。それも一理ある。けれど、僕は今こそ想像力が試されていると思っている。コロナという見えない不安に立ち止まって、感染しないように細心の注意を払い、人の集まるところには絶対に近づかないという気持ちも尊いし、それを分かった上で人の集まるところに集まろうとする気持ちも尊い。優劣は無い。前者は危機管理能力が高いと言われるだろうし、後者は意志が強いと言われるだろう。

いつだって人は、わからないこと、まだ起こってもいないことに怯える。でも、落語が教えてくれるもの、そして、落語好きが知っているのは、起こってもいないことを楽しむこと、わからないことを楽しむことなのだ。

たった一人で、着物を着て座布団に座って、言葉で、想像の世界を語る。それを聞いた観客の頭の中の想像の世界は、現実には起こっていない。それらは全て想像の世界で起こっている。演芸を愛する者、落語を聞く者たちが発揮しているのは、想像で起こっていることを楽しみ、そして笑うことだ。こんなに素晴らしいことができるから、コロナに怯えることは無いのだ、と書いたら言い過ぎだろうか。

でも、本当にさ、怯えている暇があったら笑おうじゃないか。そう思える素晴らしい一席だった。まさに、コロナの恐怖に包まれた今だからこその、記念の一席だった。

って、全然内容の話を語って無いけど、まあ、それは聞いた人のお楽しみ。もしくはモニターの方のレビューをお楽しみに。

 

立川笑二 小言幸兵衛

花いちさんから『貧しきときほど想像力を!』という意志を僕は感じた。それを受けたのか分からないけれど、笑二さんはきっちりと、想像力という言葉のバランスを取る人だと思った。

最初、笑二さんは柔和で温厚なイメージだったのだが、意外とダークだということを知ってから、笑二さんの見た目に左右されない落語の聞き方をするようになった。良し悪しは置きつつ、『小言幸兵衛』の一席で、きちんと『想像力の弊害』で釘を刺してくるあたり、さすがだなぁと、僕は思った。

というのも、花いちさんが見せた『想像力の逞しき面白さ』に対して、笑二さんは『想像力が弾き返す面白さ』というものを見せたように思ったからだ。

『小言幸兵衛』に出てくる小言ばっかり吐く男。この男の信じられないほどの想像力が、善人そうに思える人さえも弾き返してしまう。まだ起こってもいないことを、さも起こったように語る幸兵衛の姿に、花いちさんが見せた新作の売れない噺家との対比を感じた。この辺り、僕が勝手に思っているだけなんだけど、面白い構造だと思って痺れた。上手く伝わるか分からないけど、花いちさんが想像力の陽の面白さを見せたとしたら、笑二さんは想像力の陰の面白さを見せたという感じだ。

コロナの影響に対して、逞しく生きようという話もあれば、コロナが巻き起こすありとあらゆる被害を語って危機感を高める人もいる。花いちさんと笑二さんが見せたのは、得体の知れないものに対する人の在り方の二面性だ。花いちさんの新作の主人公になるか、はたまた、笑二さんの古典の幸兵衛になるか、聞く者に全てが委ねられている。

そして、それらをまとめ上げたのが、お次の師匠である。

 

 三遊亭遊雀 花見の仇討ち

遊雀師匠が語るのは、『想像して楽しもう!』ということだと僕は思った。花いちさんが作った『貧しいときほど想像力を!』の流れから、笑二さんが加えた『想像力の弊害』の後で、その全てを包含するような遊雀師匠の『想像して楽しもう!』、『とにかく楽しんじゃえよ!』というメッセージを感じて、遊雀師匠の、それまでの流れを纏め上げる才能は、唯一無二だな、と思って痺れた。特に寄席だと、その素晴らしさが如実に分かる。

本当に凄い。こんなことを想像する僕自身が野暮かも知れないけれど、そういう見えないテーマみたいなものを僕は感じたのだった。

花いちさんは花いちさんなりに、笑二さんは笑二さんなりに、想像力という言葉に含まれる逞しさと横柄さを見せながら、それを受けて「どうでもいいけど、楽しもうぜ!」と言うようなネタを掛ける遊雀師匠のセンスに脱帽。遊雀師匠だからこそ選べる一席であって、これがとてつもない説得力と面白さだった。

『花見の仇討ち』に出てくる登場人物たちは、みんな、想像の世界で思い切り楽しもうという心構えが出来ている。そこに、予期せぬアクシデントがあったり、想像の世界を本気にした人が入ってきて、それこそ訳が分からないパニック状態になる。遊雀師匠が描くのは、想像の世界に本物が混じると、想像の世界が持つ洒落が壊れてしまうことの面白さであると僕は思った。

もう、この凄さをどう言葉にするのか悩んでいるのだけれど、色んなことを切り抜けてきた雰囲気のある遊雀師匠だからこそできる、『想像力を発揮して全開で楽しむ人々』の姿。これが堪らなく面白いのだ。大人のちょっとした悪戯心が、予期せぬ方向に向かってしまう面白さ。悪戯を考え付いた本人たちも戸惑ってしまうほどの緊急事態。その様子の圧倒的な面白さ。

なんていうか、想像の世界に一人で浸っている人がいて、そこに急に親が話しかけてくる感じを見ている感じと言えば良いだろうか(ややこしい)。それまでは自分一人で楽しんでいて、めちゃくちゃ盛り上がっていたところを、急に親が「何してるの?」みたいに話しかけてきたときに、「うおお!見られた!」みたいに焦っている人の姿を、横目で見て楽しんでいる感じと言えばよいだろうか。(伝わる?)

僕は『花見の仇討ち』に出てくる人達のように、どちらかと言えば想像を楽しむ方だ。想像して不安を感じ、対策を講じることも必要だけれど、何事にも度合いというものがある。僕は僕の度合いで想像をして対策する。そして、楽しむのだ。

遊雀師匠の素晴らしさを語れる人は、僕の外にも大勢いるので、その人の意見も聞いてみたい。僕はいつだって、遊雀師匠のことを語るあなたの言葉を楽しみにしている。

さて、ここで遊雀師匠が纏め上げた『想像力の物語』。最後に締め括るのは、まさに『想像力の真髄』を極めた師匠である。

 

 古今亭文菊 猫の災難

あれやこれやと想像力をあらゆる観点から考えさせられた後で、古典落語の名手にして、もはや他の追随を許さないほどの精緻な江戸の世界を構築する噺家古今亭文菊師匠が見せたのは、まさに『想像力の真髄』である。

古典落語が持っている全ての雰囲気、人の心の機微、そして表情、そして時間の流れ、全てを一瞬にして江戸へと変えてしまう文菊師匠。聞く者をまさに、『想像の世界』へと連れて行くのが、古今亭文菊師匠の芸なのだ。

それまでの爆笑の雰囲気を纏いながらも、酒を飲む所作、表情に、会場が息をのむ。まるで、本物に出会ったというような感覚。あの感覚をどう言葉にして良いか分からないのだが、確実に体験した者の脳内に立ち上がってくる想像の世界は、江戸情緒に浸されている。

次第に酔っぱらっていく男。言い訳をして酒をのむ男。しまいには歌い出す男。男の仕草、表情、いやらしさ、言い訳がましさ、自分への甘さ、すべてがどうしようもなく愛おしい。どんどん落ちて行く感じがするのだ。

本来ならば、正直に話すべきところを、正直に話さずにうやむやにする男。自分の楽しさを優先して、友人の親切を何とも思わないとことんまで自己中な男。それでも、そこに愛嬌があるのは、文菊師匠が描き出す男の心や行動や表情が、聞く者の心を揺さぶり、共鳴しているからに他ならない。

これほどまでに凄まじい面白さを持った『猫の災難』を私は他に知らない。人間の欲に対するだらしなさ、自分への甘さ、他人を思いながらも、ついつい猫のせいにしてしまう愚かさ。人としての愚かだけれど愛おしい不思議な魅力が、文菊師匠の『猫の災難』には全部詰まっている。先日、浅草演芸ホールのトリで見たときも、その衝撃に度肝を抜かれたのだが、シブラクではさらに磨きがかかって、とんでもないことになっていた。まさに神の領域。

想像力の底知れない力。古今亭文菊師匠の『底知れなさ』に痺れた。毎回、見る度に思うのだが、文菊師匠は底も天井も知れない噺家さんである。そんな文菊師匠にとって、『猫の災難』は十八番どころか、鉄板のネタになっていくのではなかろうか。文菊師匠の落語の中でも、なかなか無い酔っ払いの一席。私の邪推では、浅草演芸ホールでの一席が、何か心の中で確信できる良さがあって、この渋谷らくごでかけたのではないかと思っている。

とにもかくにも、素晴らしいのである。もはや素晴らしいという言葉に色んな意味が込められている。

今まさに、想像力を発揮する人々が見るべき、一つの到達点。そして、今後ますます底知れず、青天井の、芸。それが古今亭文菊師匠の芸なのだ。

コロナへの底知れない恐怖が未曽有の不安を募らせるのだとしたら、文菊師匠の底知れない演芸に観客は飲み込まれて、興奮を増していくに違いない。そして、それはやがて熱狂となり、文菊師匠の古典落語は日本を席捲していくに違いない。

文菊ワクチンを注入されて、副作用でこんな記事を書いたが、いかがでしたでしょうか。こんな僕の想像力を、お楽しみいただけたら幸いである。

読者に問おう。あなたは『底知れなさ』に恐怖する人であろうか、それとも『底知れなさ』を楽しむ人であろうか。どちらでも良いのだけれど、僕は『底知れなさ』をたのしもうと思う。

それが今の僕にできる、演芸への姿勢なのだ。