落語・講談・浪曲 日本演芸なんでもござれ

自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

流れる場所を求めて流れる 鈴本演芸場 夜席 2019年12月20日

 

世の中には『適材適所』という言葉もあれば、

『置かれた場所で咲きなさい』という言葉もある。

『全てはあるべき場所にある』という言葉もあれば、

『環境が変われば考え方が変わる』という言葉もある。

 『どこへ行っても上手く行かない人』もいれば、

『どこへ行っても上手く行く人』もいる。

これらの違いは何か

 

  病み上がり~Yummy I Got Lee~

気休め程度のメディスンで、メランコリックがお手の物。ポイズン部ポイズン課のポイズン課長が、「言いたいことが言えちゃう こんな世の中じゃ ノーポイズン」と歌って即ポリスに連行。ポリ袋に詰められてポリバケツに放り込まれ、明後日には金魚の餌になる。

病み上がりで考えることは、全部『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』に脚色されている。俺はティム・バートンをインストールしている。若い頃の、シザー・ハンズのティム・バートンを。

小学生の頃から一度もアップデートされてないけど、クリスマスが来るたびに骸骨のジャックのことは思い出すし、病んだ住人達の目を思い出す。孤独な理髪師を思い出す。子供心に『病む』とは何かが分かっていた。雨は止むが、心は病む。病むはそのまま闇になって、病んだら闇って止んでんのか止んでないのか分からない。やんなっちゃうね。

中学生の頃。病む人の多くは手首に線が入っていた。まるでそれが決まりみたいになっていた。最初、「あたし、病んでるんだよね」と言われて見せられたそれは、完全に当時の俺のキャパを越えていた。「ほんっ?」と、飼い主の謎の行動に戸惑う犬みたいな声を出したことを覚えている。

訳が分からないのだ。自分を傷つけるということが、当時の俺にはさっぱり理解できなかった。で、俺はそういう自分が訳の分からないことを避ける人間だったから、「ほ、ほ、ほーん・・・」と、急に電源ケーブルを抜かれたダイソンの掃除機みたいに、吸引力を落として、病んだ人から去って行った。

今思えば、それが正解だったと思う。

一緒に『病み』に引きずり込まれていたら、どうなっていたか分からないし、当時の俺には『病み』に対処できるほどの賢さも無かった。そして、それは今も無い。

『病み』という言葉すらも正しいとは思わない。どんどん言葉は形を変えて行く。細分化されていってる。『病み』は『DQN』になったり、『根暗』になったり、『メンヘラ』だとか『ADHD』なんて言われるようになった。その分け方も認識も正しいかも分からない。だが、確実に人は人を理解した気持ちになれる言葉を獲得してきたような感覚はある。

でもまぁ、どこまで行っても、人は究極には分かり合えないのかもしれない。

そう考えると少し悲しいって思う?俺は逆、わかり合えないからこそ、

わかり合おうとするのが楽しいんじゃなかろうか。

一生満腹になれないけど、満腹になろうとしてご飯を食べちゃうみたいな。

だから、「あ、こいつ、嫌い。分かり合えねぇ」

って思う人ほど、俺は興味惹かれるけどね。

一生そいつと一緒にいるかは別として、

分かろうとするか否かは、本人の問題だと思うし。

どこに流れ着いてるんだ、この文章は。

じゃ、寄席の記録でも、ピックアップで。

 

三遊亭たん丈 子ほめ

寄席って最高だな、と思うのは、会場にいる客の様子を見た時。臭そうな人いるなーとか、ラフな格好してるなーとか、買い物袋詰まってるなーとか、ちらちらっと客の様子を見るのが楽しい。「あ、俺、この人達と同じ時間、同じ場所で笑うんだ」と思うと、なんだか不思議なんだけど、浮かぶのよね。体が。ぷわって、浮かぶの。あっ、浮いた。今、浮いたっ!って思うわけ。それって完全に寄席に身を委ねた証拠。雲になる感覚って言うんですかね。湯船浸かるっていうか、とにかく浮く感覚。

何しに来たのか分からない年配の方達。思い思いに酒をプシュッ、プシュッとして、美味そうに飲んでいる。こういう風景って大事だよね。何か疲れてんだろうなぁ~とか、会社で嫌なことでもあったんかなーとか、ぼんやり考えるわけ。と思いきや、スーツ姿にびしっと決めて、いかにも上司に連れて来られました!みたいな人もいて、それはそれで最高なのよ。いいじゃん、寄席って思うね。寄席じゃんって思うね。

でさ、たん丈さんも最高なわけですよ。もうすぐ真打になって名前変わるけど、俺が言うのもなんだけど、『ウケ慣れてない』感じが最高なんですよ。まだそんなにウケること言ってないのに、奥様方のクスクスが起こると、心配になって聞いちゃうたん丈さん。

これね、皮肉でも何でもないんだけど、それが如実にたん丈さんという噺家を現わしている気がする。普段、全くウケない小噺とかがどっかんどっかんウケると「これは幻」みたいな感じで、ウケても信じない感じが堪んないのよ。つまりたん丈さんにとっては、『ウケないことが普通』になってる感じがあって、そこからの逸脱がウケることになってる構図が、たまらなく面白いわけ。なんじゃこの人!ってなるわけですよ。

なんかねー、好きですね。たん丈さん。こんなこと言うのは失礼かもしれないけど、『どこ行っても上手く行かない人』なんだけど、それは『上手く行く場所が無い』だけで、じゃあ、『上手く行く場所』を作るにはどうすればいいのってなった時に、結局それは『お客様』だよなっていうことを感じさせてくれる人というか、寄席の良さを手っ取り早く知れる人っていう感じ。だからたん丈さんの高座と、客席の反応を見て俺は確信した。

今日は良い寄席だ。

 

 春風亭一朝 野ざらし

枕少なに語り始めた一朝師匠。決めるところは決め、弾けるところは弾ける一朝師匠の江戸の風。可愛らしいのなんの、南野陽子。港のヨーコヨコハマヨコスカ。

幽霊女との様子を見ていた男が嫉妬して、骨釣りに出かける場面。一生幸福でいたいなら釣りを覚えろという言葉があるが、正にその言葉通りの男。妄想は走る。周囲は面白がって眺める。色んな人の心が釣られていく感じが堪らない。

特に骨釣りの男の鼻に針が引っかかってしまう場面。この時の一朝師匠の声に、思わず「ぶわははは」と笑ってしまう。めちゃくちゃ面白い。勢いそのままに笑ってしまうおかしさ。

さらりとしていて、それでいて芯があって、随所で決めていく正確無比な語り。一聴しただけでも分かる凄味。一朝師匠、まだまだご健在!

 

 琴調 中村仲蔵

仲入り前の琴調先生は講談、中村仲蔵。いつ誰で聴いても良い話。琴調先生の語りを聞いていると、「いよいよ、冬だなぁ」という気がしてくる。もうとっくに冬だけど。

しみじみと冬の訪れを感じる中で、「俺も何か工夫をしてみよう!」という思いが沸き起こってくる一席。宝井派の美しい調べで仲入り。

 

古今亭菊之丞 柳田格之進

文菊師匠の柳田格之進を見逃しても、菊之丞師匠の柳田格之進は絶対に聞き逃せない。なぜなら、ネタ卸しを聞いているから!

ネタ卸し以来、私が聴くのは二度目となる。

結論から言う。

これが、

実に、

 

お見事!!!

 

改めて思うのだが、プロの噺家さんが話を磨き上げて行く瞬間に立ち会えるのは幸運なことである。同時に、プロの噺家さんが如何に常人の想像の及ばぬ稽古をしているのか。鳥肌の立つ見事な語りに、私の瞳孔が思わず開いた。

ネタ卸し以来だったから、気持ち的には親戚の子供を見る感覚に近い。中学一年生の子供というイメージを持っていたが、大学入学すると聞いて、久しぶりに見たら、見違えるほど立派になっていたような感覚。中学生の頃は鼻水を垂らしていたのに、大学生になったらメンズ・ノンノに載るような超スタイリッシュな大人に成長していたような感覚。(なぜ成長する子供が男なのかは謎)

同時に、語りの様々な部分で菊之丞師匠らしい表情や言葉、リズムとトーンがあって、品と艶やかさ、もはや『潤い』と言っても過言ではないほど、物語に水を張り巡らせたような濃さを感じて、「す、すげぇ・・・ネタ卸しの時の雑多な印象とはまるで違ぇ・・・」と度肝を抜かれた。

そう、菊之丞師匠の語りには『潤い』があるのだ。12月に入って、菊之丞師匠で『芝浜』、『文七元結』と、冬の代名詞とも呼べる人情噺を聞いているからなのか、菊之丞師匠の言葉の端々に漲る『潤い』に、ハッとするほどヒアルロン酸なのである(最後意味不明)じゃあ『張り』は誰かしらと言われたら、それは読者の想像に任せよう。

何と言っても、徳兵衛の憎たらしさもさることながら、仕掛けられた伏線を見事に繋いでいくウォームなスタイル。柳田格之進という人間の持つ清らかさが、徐々に別の清らかさに変わっていく様を見たような一席だった。

『水清ければ魚棲まず』という言葉があるが、武士であった柳田が浪人になったのは、そうした己の『清らかさ』が、流れるべき場所に流れなかったからではないだろうか。そんな柳田が流れ着いた先で出会った万屋源兵衛こそ、柳田に新しい清らかさを教えてくれた人なのではないか。そして、源兵衛自身も柳田と碁を打つうちに、柳田の清らかさに胸を打たれた。互いに濁りは異なれど、二つの流れが重なれば、自然、それは大河となって流れ出す。と思いきや、ふとした時にもたらされた50両によって、清らかな二つの水は再び袂を分かって流れていく。

柳田の中でも、何かが変わり始めたのだな、ということが、菊之丞師匠の語りの中に感じられた。もっと柳田格之進という人物が固いイメージを持っていたが、やはり柳田も『人』なのだな、と思う。そんな柳田を疑った徳兵衛の顛末。

最後の場面については、詳細は語らないが、柳田の言葉、源兵衛と徳兵衛の関係。全てが一つの着地を見せるとき、菊之丞師匠の語りの素晴らしさに震えた。

清き水は、流れる場所を求めて流れるのだ。

考えてみれば、人も同じかも知れない。

世の中には『適材適所』という言葉もあれば、

『置かれた場所で咲きなさい』という言葉もある。

『全てはあるべき場所にある』という言葉もあれば、

『環境が変われば考え方が変わる』という言葉もある。

『どこへ行っても上手く行かない人』もいれば、

『どこへ行っても上手く行く人』もいる。

これらはすべて、『流れる場所を求めて流れる』が故に

生まれてくる言葉ではないだろうか。

ただ流れているだけなのか。泳ぎ方を覚えているのか。

それは分からない。それでも、

流れの中にある自分を自覚すると、自分がどこに流れたいかが分かり、

どうすればそこに流れられるかが分かる。

あとは、思い切って流れてみるに限る。

人は絶えず、流れ流されながら、今日も一応の岸を見つけて、

浮き上がっては、笑うのだろう。