冷蔵庫から三途の川まで、或いは混沌の童心~2020年1月3日 プーク人形劇場 新作落語 お正月寄席~
ポケットのなかにはビスケットがひとつ
ポケットをたたくとビスケットはふたつ
まど・みちお『ふしぎなポケット』
狂気を孕む冷蔵庫
特に意味も無いのに冷蔵庫を開けてしまうことが多々ある。小腹が空いたときなど、ふとした弾みで冷蔵庫を開けてしまう。気分が良いと冷凍庫まで開けてしまって、買い物に出かけた覚えも無いのに中身を確認して、自分の望む食べ物が無いことを認め、ガックリと肩を落とすことが多々ある。
幼い頃、私は良く冷蔵庫を開ける少年だった。ピアスは開けなかったが、冷蔵庫は開けまくっていた。
当時、冷蔵庫番をしていたのは母で、幼い私は母が何か自分のために美味しいものを買っているのではないかと期待し、家に帰って最初にすることは冷蔵庫を開けることだった。それも、なるべく家族の目を避けて開けるのだった。
今日の晩飯は何だろう、今日はどんな美味しいものが食べられるのだろうと、母の作る料理の手がかりを探った。自分の嫌いな食べものがあるとテンションが下がり、やたらと苛々とした。反対に好きな食べものがあると、「お腹空いたー、早くー」と母を急かした。今思えば随分と私は我儘であった。
これも小さな思い出だが、美味しいプリンが入っているのを見つけたことがある。弟と妹に食べられないように、すぐに冷蔵庫からそれを取り出し、自分の名前をマジックペンでデカデカと蓋に書き記し、恍惚とした表情と優越感に満ちた動作でそれを冷蔵庫へと戻した。
勝った、と思った。
弟と妹に先んじて、美しき我が名を刻んだ洋菓子を我が物として冷蔵庫へと戻す瞬間の、何とも言えない喜び。戦場に出て、いの一番に敵方の大将の首を取った武将のような心持ちで、自分の部屋に入って勉強に励んだ。
難問に取り組む時間を終え、ようやく楽しみにしていたプリンを食べようと思い冷蔵庫を開けると、そこにプリンは無かった。はて、どこへ行ったのかと思って隈なく冷蔵庫の中を探すのだが見当たらない。突然の失踪。絶望が頭を掠める。動悸が激しくなる。胸が苦しくなり、沸々と怒りが込み上げてくる。
待て待て待て、落ち着け。大丈夫、プリンは逃げない。プリンには俺の名前が書いてあるではないか。落ち着け、落ち着け。まずはスプーン、スプーンだ。
そう思って食器棚の引き出しを開ける。普段使っているスプーンが無い。絶望が頭を掠める。動悸が激しくなる。胸が苦しくなり、吐き気を催す。
嘘だろ。俺の名前が書いてあったじゃないか。俺の名前だぞ。俺の名前。俺の名前が書いてあるのに、食べる馬鹿がどこにいるんだよ。嘘だろ。
ふと、ゴミ箱が目に入る。恐る恐るゴミ箱の中を確認する。
亡骸となったプリン。蓋にはデカデカと自分の名前が書かれている。
誰だ、誰だ、誰だ~のメロディとともに、優々とテレビを見ている弟の姿が目に入った。
「ねぇ、プリン、食べた?」
私は殺人犯を前にした刑事のような心持ちで尋ねる。
すると、弟は、
「あ、うん。食べたよ」
犯人はあっさりと自白した。私は落ち着きながら、
「俺の名前、書いてあったよね」
「あー、書いてあったね」
弟の返事はそっけない。
「書いてあったのに、なんで食べたの」
必死に怒りを抑えながら私が言うと、
「いや、兄貴のじゃねぇだろ。って思って」
?????
「は?意味わかんないだけど」
「兄貴、勝手に名前書いたでしょ」
「俺が最初に見つけたからな」
「そのとき食べれば良かったじゃん」
「ちょっと待て、ちょっと待て。どういうことだ」
「うっさい。もう食べちゃったから。あとでお母さんに買ってもらいな」
「・・・・・ダッ」
そこからは、弟との喧嘩が勃発。
結局、父に叱られてプリンは食べられなかった。
上記のように、人を狂わせるのが冷蔵庫だ。意味もなく期待をして開け、自分にとって特別な品物があると、胸が高鳴ってしまう。もしも、自分にとって特別な品物があったら、名前など書かずにすぐに食さなければいけないのだ。
こと、噺家が高座に上がる寄席は、冷蔵庫を開けることと同じようにして私は楽しんでいる。冷蔵庫の中身、すなわち寄席に誰が出演するかは番組表を見れば分かる。だが、それは冷蔵庫の中に入っている具がどんなものかを見ているだけに過ぎない。肝心なのは、冷蔵庫の中に入っている具を食すことだ。食すことによって、初めて味が分かる。食材の味とは、すなわち芸である。
特に何の期待もせずに、私は寄席に行くことが多々ある。冷蔵庫を開けた時と同じように、特に自分にとって特別な噺家に出会うことが無い日もある。「あれ、この食材、こんなに美味しかったっけ!?」と思う日もある。冷蔵庫も寄席も、開けてビックリの日もあれば、開けてガッカリの日もあるのだ。
さて、そろそろ本筋について語ろう。ふとしたご縁で、私はとても可愛らしい冷蔵庫を開けることとなった。冷蔵庫(寄席)の名は『プーク人形劇場』。これから、その冷蔵庫の中に入っている食材(噺家)について語っていくこととしよう。
余談だが、私にとっては二年越しの謎が解けた日でもあり、抱腹絶倒の一夜でもあった。
林家やまびこ 牛の部位6
二年前、林家彦いち師匠と柳家小ゑん師匠の会だったと思うのだが、そこで初めてやまびこさんをお見かけした。その時は高座返しだけで落語はやらなかったが、高座に上がった彦いち師匠が「彼ね、新作落語もやるんですよ。その落語なんですけど、冷蔵庫に入ってる肉が喋るっていうお話でね」と言って、タイトルの『部位6(ブイシックス)』の冒頭部分をやってくれた。
「へぇー、面白そうだなー」と、その時はぼんやり思っていたのだが、それから二年の間、肝心の新作を聞くことなく今日まで来た。寄席では時々、寿限無や子ほめをやっているのを見た。どれもやまびこさんらしさがあって面白かった。
かなり久しぶりにやまびこさんを見る。最後に見たのは文菊師匠の独演会の時だから、一年以上は見ていないだろうか。
声もどことなく慣れてきたのか、以前聞いた時よりも落語のトーンに近い気がする。そんななか、彦いち師匠がやってくれた冒頭の『部位6』をやまびこさんがやったとき、衝撃が走った。
これか!!!
噂の!!!
やまびこさんのファンの方には申し訳ないが、私は今日、初めて『牛の部位6』を聞いた。もう既にどこかで高座に掛けているのだろうか。
結論から言うと、『物凄い落語』である。未だかつて、誰も挑戦しなかった未開の土地に足を踏み入れた感覚。林家彦いち師匠はとんでもない怪物を弟子にしていらっしゃるなぁ、という印象。
お恥ずかしながら、私に肉の知識が無かったせいか、上手く想像することが出来なかった。
これはもはや、見てもらって、その衝撃を存分に味わってもらうしかない。あまりにも衝撃的過ぎて、私は何と言って良いか分からない。
しかしながら、プーク人形劇場という場所、そして集まったお客様が作り出す得体の知れない混沌が、奇抜かつアグレッシブな、それまでの落語の概念を全て転覆させてしまうかのような勢いを受け入れており、とても面白い一席に仕上がっていた。
今後、どのような方向へとやまびこさんが突き進んでいくのか、凄まじい、今までに見た事のない、衝撃の落語だった。
三遊亭天歌 居場所
絶妙な出演順だと思う。私としては『火消し』的な立場で天歌さんが登場された気がした。
やまびこさんの衝撃で全てが混沌へと向かおうとしていた会場の空気が、一端、天歌さんのおかげで正気に戻るような気がしたのだが、天歌さんの一席も、『正常な人間と異常な人間との対話』かと思いきや、きっちり『どっちも異常な人間』へと徐々にエスカレートしていく。
これがとにかく面白いのである。内容について詳細は避けるが、片一方の人物が正常で、もう片方が異常かと思いきや、だんだんと異常かと思っていた方の理屈に筋が通っているように思い始めてきて、さらには正常であった方が薄紙を剥がすように自らの鬱憤を解放させ、異常な人と異常な人とのぶつかり合いになるのだが、異常な人同士の会話にも筋が通っていて、最終的に既存の形態をぶっ壊して終わるという感じのお話に思えて、痛快で面白かった。が、内容について語っていないので、読者には「なんのこっちゃ」かも知れないのが申し訳ない。
天歌さんのテーマの着眼点もさることながら、言われてみればそうだよな、と思うようなことが随所にあって、何も考えずに見ていたとある芸術が、だんだんと瓦解していく様が面白かった。とある芸術に関わる人の内部で蓄積された不満が爆発する瞬間の、何とも言えない禁断の面白さ。一つだけキーワードを取り上げるとすれば、メトロノームに変えても問題ないでしょ、という部分には思わず「確かに!」と思った。なぜメトロノームでは無いのか、気になって仕方がなかった。
これは以前ナツノカモさんのトーク会で語られていたことから考えたことだけど、『普通な人間だからこそ、狂気がハッキリと見えるのかも知れない』ということが私の頭の中にはあった。本当の異常者は自分の異常さに気が付かない。ナツノカモさんと天歌さんが同じかは分からないが、特に波乱万丈ではなく普通の人生を過ごしてきたゆえに、周りの異常さに気が付けるのかも知れない(私の勝手な想像です)
常日頃、身の回りに自分とは違う人々が存在している。こと落語の世界に関して言えば、特に天歌さんの師匠に関して言えば、他の追随を許さないほど他と異なっている。異常という言葉が適切かは分からないが、『振り切れている人達』が多い世界であるような気がする。そんな世界に身を置くと、自分と他人との間にどれだけ考えの差異があるか、ということが如実に感じられるのではないだろうか。かくいう私ですら、自分では普通だと思っているが、他人から見ると物凄く変な存在かも知れないのである。
そんな天歌さんの『居場所』という名の一席。タイトルが物凄い良い。なんとなく、天歌さんらしい感じがある。この『らしさ』については、いずれどこかで語ることとしよう。
余談だが、会場入りする際の天歌さんをお見かけした。どの噺家さんも同じかどうかは分からないが、会場のスタッフさんに非常に丁寧にお辞儀をされていて、ご挨拶をしており、それを受けてお辞儀をするスタッフの笑顔が印象に残った。その光景を見ただけでも、天歌さんという人の人柄が伝わってくる。私が言うのも何だが、ちゃんと見ている人は見ているのだ。高座の上だけが噺家だと言われればそれまでだが、私はそうは思わない。日常の姿勢と地続きに高座がある気がする。芸は人柄だと思う。これは決して同情ではない。むしろ尊敬である。自分も謙虚にそうありたいと思わせてくれる姿がそこにあった。
心優しい天歌さんの姿を見たせいか、とても温かく大笑いの一席だった。
さらに余談だが、枕で語られていたこと、私も同意見です。
三遊亭めぐろ かわら版
お次は圓丈師匠門下のめぐろさん。枕がとにかく面白い。思わず「本当かよー」と思ってしまうような出来事に巻き込まれたり、色んな理不尽に遭いながらも、逞しく生きるめぐろさんの姿。
圓丈師匠の一門に関しても、ヤバイ人達の巣窟である気がする。圓丈師匠は今や『なんか読んでる人』として、後進に全ての生き様を曝け出しているレジェンドであるし、その圓丈師匠の下で、もはやどのような作用が働いて、その指向性を有したんだ!と思わずにはいられないほど、それぞれが独自の道を突き進んでいる噺家さんが大勢いる。『万人受け』などという言葉を陳腐なものに変えてしまうほど、アンダーグラウンドで禁断の果実的な噺家さんが多い気がする(言い過ぎだったらすみません)
そんなめぐろさんの一席は、落語好きにはたまらないお話である。これも詳細は語らないが、落語好きであれば随所に無条件で頷いてしまう小ネタが差し挟まれている。『落語好きあるある』という言葉に収まらない、落語好きだからこそ共感できるお話のオンパレードである。タイトルからしても、何となくそういう雰囲気を感じて貰えるのではないだろうか。
落語好きなら爆笑必死の一席だった。
林家きく麿 殴ったあと
お次はきく麿師匠。枕もめちゃくちゃ面白い。普通の光景なのに、きく麿師匠が語ると『異常』に思えるから不思議である。
演目の内容も、見る人の楽しみを奪わないために敢えて書かないが、きく麿師匠の美声と、独自の視点が光る面白い一席だった。
特に、何の前触れもなく差し挟まれるとある芸能。その面白さに一度引きずり込まれると、もはや訳の分からないまま笑ってしまう。
かなりヴァイオレンスな噺かと思いきや、クッション的に言葉が足されて、辛さと甘さを同時に味わうような一席。キムチ食べた後に角砂糖を食べる感じ。不味いかと思いきや、これが意外と癖になる美味しさなのである。
以前、末廣亭でも見たことがあるのだが、さらに声とメロディがパワーアップしたような気がする。少しお痩せになったからだろうか。
どうかお体には気を付けて欲しいと思う。突然のくも膜下出血にだけはならないように、お元気で高座に上がって頂きたいと思う。扇兵衛さんもお気をつけくださいませ。
夢月亭清麿 優しさだけが怖かった
かぐや姫の歌う『神田川』の歌詞に出てきそうなタイトル。たまに読み方を忘れるのだが、夢月亭清麿と書いて『むげつてい きよまろ』と読む。うっかり『むつきてい』とか、『ゆめつきてい』と言ってしまいそうで怖い。突然に「この噺家さんの名前、何て言うんですか?」と問われると、ちょっとドキッとする名前の噺家さんである。
Twitterでも皆さん呟いておられるので書くが、ネタに入る前の五代目柳家小さん師匠との、正月の風景の枕が絶品だった。思わず自分がその場にいるかのように、小さん師匠の剣道の道場や、そこに集う噺家さん達。若かりし頃の喬太郎師匠や左龍師匠の顔がなぜか浮かんできて、朝日に照らされて煌々と輝く道場の中を、威厳を持ってゆっくりと歩く小さん師匠の姿が見えて、それだけでシュッと胸が引き締まるほど、清麿師匠の語る思い出は素晴らしかった。それよりも、一番の衝撃は小さん師匠門下だったのだということを知ったことである。
さて、恍惚とするような美しい枕から、僅か数秒で劇的な方向転換。これも内容について詳細に語れない(ネットには詳細な枕、新作落語に関しては見る者の楽しみを奪わないため、という義務を自らに科しているため)のが悔しいのだが、一言で言えばジェンダーレスの愛と言ったところか。
枕からは想像も付かないような、なんというか、新宿三丁目とか、歌舞伎町辺りでは飛び越えられているであろうラインを、規律に守られた場所で超えて行く感じが、何とも言えない禁断の面白さ。プーク人形劇場は不思議である。この記事を書いていても思うのだが、やたらと『禁断』というワードが湧いてくる。なぜかは分からない。
タイトルを見ると、改めて思う。優しさって時に凶器だ。
トリ前は丈二さん。ちょっと若い稲垣順二っぽい感じがする。あっちはジュンジでこっちはジョージ。丈二さんは怪談話もやられるんだろうか(情報求む)
枕で語られた久しぶりの出会いから、入門時のお話まで、色んなことがちょっと普通とは違う生き様で面白かった。
さて、演目は新作落語のため、内容の詳細は避けるが、タイトルだけでもタバレの一部でもあるというお話。物凄くくだらなくて、「一体どこからその発想が生まれてくるんだ!」というほど、内容がとてもくだらなくて面白い。
そもそもお店の名前とか、禁止にされる食べ物とか、細かい部分にツッコミはあるんだけれど、それを感じさせない丈二さんの補って余りある勢い。プーク人形劇場と、そこに集まった酔狂(適切かは分からない)というか、もはや落語中毒、ラク吉な人達の生み出す雰囲気が渾然一体となって、とんでもない爆笑が巻き起こっていた。
改めて思うのだけど、プーク人形劇場で落語をするというのは物凄いミラクルというか、身が楽になるというか、まさに身楽(みらく)るな感じあって、一年に一回は摂取しないと禁断症状が出るくらいの、凄まじい場所であると思う。
トリは白鳥師匠。もはやこの人が出てくる前に腹筋運動と顎の体操が必要なのではないかと思うくらい、一席が終わった後の身体の痺れが半端ではない噺家さんである。
巨大な斧と短剣を交互に使い分けて、バッサバッサと会場のお客様を『笑い斬り』していく感じがあって、斬られたお客様が『ワッハッハッハッハー』と喜びながら腹を抱えて笑うというような、訳の分からない爆笑の渦に飲み込まれ、先に出た丈二さんじゃないけど、まさに『ナルト海峡』的な、大渦の笑いが数十秒に一回のペースで巻き起こる。
落語の世界に飛び込んだ白鳥師匠が、古典の『初天神』に抱いた疑問。そこから新潟での思い出を語る枕は抱腹絶倒。冒頭に記した私の過去の思い出を思い出してしまうくらいにとてつもなく面白かった。
『ハイパー』という形容詞が付き、その『ハイパー』の度合いが半端ではない。むしろ『ウルトラ・ミラクル・メガ』という形容詞の全てをくっつけても良いくらい、古典落語の『初天神』がブーストされ、殆どドーピング状態だった。
たとえ古典の初天神を知らなくても十分に楽しめる内容で、とにかく初天神のお参りに行きたいという子供の欲望が、異常なまでに振り切れる点が最高である。同時に、自らの子供と相対する父親も段々と過激になっていき、ネットには絶対に書けないことがところどころで悪魔のように顔を見せるという、ハイパーダークでムキムキマッチョな一席である。
これ以上笑うと『笑い死』にする者が現れるのではないかと思えるほどに、会場にいた誰もが声を張り上げ、内臓を揺らし、破顔して笑っていた。もしも笑いで人を殺せるなら、白鳥師匠は団体で三途の川を渡らせてしまうと思う(喩えが良くない)。笑って死ぬことで天国に行けるとしたら、白鳥師匠は天国から出禁を言い渡されるくらい、天国に人を送り込むと思う。
さて、そんな笑いの体力笑戮犯である白鳥師匠はヤケクソ感もありながら、きっちりと古典の『初天神』の筋に沿いつつ、自らの考えをこれでもか!これでもか!と挿入していく。言ってしまえばアーリオオーリオという素朴な味わいのある、それだけでも十分に美味しいパスタに、オリーブオイルやらチーズやらキャベツやら、貝類やらなにやら、色んなものをミックスさせながらも、絶妙に美味しい味を保ったまま完成させる究極の料理人、それが白鳥師匠であるような気がする。
下ネタも毒舌もパロディも降霊術も、全てがプーク人形劇場だからこそできる(?)かは分からないが、きっと他の寄席や会場にいっても、再現不可能なほど特別な時間と、特別な人々に彩られた、まさに『ハイパー』な一席だった。今更私が語るまでもなく、白鳥師匠はもはや、昭和・平成・令和と渡り歩いて、『現代の三遊亭圓朝』と言っても過言ではない。圓朝師匠のようなおどろおどろしい作品を白鳥師匠では聞いたことが無いから、圓朝師匠が陰とすれば、白鳥師匠は陽の新作落語家になるだろうか。圓丈師匠の並々ならぬ創作魂を継承して、今後、一体どんな名作を生み出してくれるのか。落語好きで、新作落語の熱狂的なファンであれば、期待せずにはいられないのではないかという気がする。
新作落語がやがて古典となり、次の世代へと受け継がれていくとき、そこに立ち会う我々は一体どんな光景を見るのだろうか。凄まじい世界が待っている気がしてならない。
総括 混沌の童心
大人も子供も分け隔てない空間がプーク人形劇場であるような気がする。人形は歳を取らない。姿かたちを永遠に留めるがゆえに、肉体の衰えが無いから成長も退化もない。一番ベストの形で人形であるのかは分からないが、いつまでも美しい姿を留めている人形が時折羨ましくも思える。
不自由の無い健康と不自由のない金銭があれば、大体の人は幸福でいられる。強い欲望があれば、健康と金銭に支障をきたすかも知れないが、それを補って余りある健康と金銭があれば、それは大した問題にはならない。
プーク人形劇場を出たとき、私はぼんやりと歩きながらそんなことを考えた。
いつまで自分が幸福でいられるかなんて誰にもわからない。ある日突然、健康が損なわれる日が来るかも知れない。またある日には、持っている財産の全てを取られてしまうかも知れない。健康と金銭という二本の軸を保ち、幸福を享受するために人は日々生きていて、その過程において様々に喜びや悲しみを感じるのだろう。
こうして私が文字を書いていることだって、ある人から見れば贅沢であったり、ある人から見れば陳腐なことでもあるのだ。だが、そんなことは些細なことである。大切なことは、やはり自分の胸の奥にある指針に従うということだ。その指針が正しい道を示すためには、メンテナンスが必要で、それが『笑い』なのかも知れない。
三時間以上、みっちりと落語を聞いて、大いに笑って、これでもか!というくらいに笑って、幸福な時間に頭がピリピリと麻痺してしまうくらいになって、それでもさらに幸福になろうとするのだから、私は何とも欲深い人間であるな、と思う。
大笑いした落語会の後で、その思い出を思い出しながら飲むお酒と食事の格別さたるや、筆舌に尽くし難し。こうやって文字にすることで、あの瞬間の残り香のようなものを感じるのも、とても楽しいのである。とても幸福な時間なのである。
2020年も、健やかなる身体と、有り余るほどの富とまでは行かないが、最低限、幸福を感じられるだけのお金を稼いで、幸福に、毎日を笑って過ごすことができたら、それだけで他に何もいらない。
誰かと語り合いたい思い出が増えていくことの幸福。名前も知らない人達と共有した幸福な時間。全てが私の人生の歴史に刻まれて忘れられることがない。
人生の幸福は笑っているときに僅かに垣間見れるものかも知れず、また、心の通い合う人との間に生まれるのかも知れず、美味しい食べ物を口に入れた時に感じるものかも知れない。幸福は人によって種々様々である、と改めて思う。
童心に立ち返って笑い、幸福の味が口の中いっぱいに広がった一夜。プリンを食べた弟の気持ちが、少しは分かるような気がした。