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百年目の恥~2020年2月12日 横浜にぎわい座 古今亭文菊~

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未来のことは、誰にもわからない

だからこそ、この再会が意味するように

無限の可能性があるんだ

シュタインズゲート 岡部倫太郎 

不撓不屈

生きていれば信じられないほど恥をかく。一度や二度ならまだしも、幾度も恥をかいては至らない自分を修正する。或いは、修正せずに肯定して生きて行く。或いは、自らを否定して生を絶つ。

自らの人生を「恥の多い生涯」と皮肉を込めて書いたのは太宰だが、私とて例外ではなく、また社会に生きる人々も少なからず恥を重ねており、最終的に「恥の多い生涯」と記すかどうかは別として、恥というものはどんな人生にも付き物である。

恥は端でもある。中央をまっすぐに突き進もうと思っていた矢先に、ふらっと態勢を崩して端に寄ってしまい、慌てた時に生まれる感情に近いものが恥であるように思う。漢字を見れば、耳の隣に心があるから、恐らくは中心にある心が何かしらのきっかけで耳まで飛び出してしまうような、そういう感情を恥と呼ぶのではなかろうか。

私には、思い出すだけで鼻の穴から心が飛び出すのでは無いかと思うほどの恥が幾つもある。思い出したく無いものもある。だが、確実に、それらの恥が私にとって良い働きをしたと思える。なぜなら、恥をかいて、もう二度と恥をかくまいと決意することができたからである。

こと恋愛においても恥は多い。恋焦がれた相手に対して夢中になる余り、相手から引かれてしまうことも多々ある。なんでも相手の言いなりになり、寄り添うように生きることが優しさであると思う反面、優柔不断で自分の意見が無く頼りない。気がつけば意志が固く、決断力があって頑固な男へと靡き、後に残されて吹きさらしの木枯らしに自らの涙を消すこともしばしば。いっそ、知らぬが仏と阿保面を下げて恋焦がれた相手に向き合えれば楽なのであるが、そんな自分を見つめるもう一人の自分がそれを許さない。駆け引きも何も無い。一方的に好きになって、一方的に盛り上がって、一方的に別れを告げられることの繰り返し。とんと学習しないから仕方がない。

厚顔無恥である人が羨ましい。どんなに人様からあざ笑われようとも、決して自らの非を認めず、揺るがず、剰え自分の価値観を押し付けて、人の意見に取り付く島もない人間になれたら、どんなに生きることが楽になろうか。なまじの客観性では、生きるのがどうにも不自由でならないのだが、そんな自分を肯定してしまうから、私は幾つになっても恥を抱え、恋に蹴躓くのだろう。傷つきながらも不撓不屈の精神を持ち続けることが、今後果たしてできるのだろうか。

さて、前置きはこの辺りにして、横浜にぎわい座で行われた『よこはま文菊開花亭』に行ってきた。ネタ出しの『お見立て』と『百年目』がどうしても見たく、参加した次第である。

思わぬ偶然もあって、某編集長のお姿を拝見した。何度かお見かけしたことがあるが、匂いたつような編集長の香りと風貌にドキドキしながら、私は開演の時間を待った。

前座の市坊さんの『真田小僧』と、志ん松さんの『だくだく』の後で、にぎわい座の高座に上がった文菊師匠のお姿は、広い会場とあってか、とても小さく見えたのだが、それでもひとたび語り始めれば、そこに浮かび上がっている景色の解像度は破格であって、一瞬で江戸の廓の世界へと誘われる。圓菊師匠の所作も飛び出して、気がつけば、目の前にはとても綺麗な花魁が物憂げに座っているのだった。

 

古今亭文菊 お見立て

吉原遊郭で随一であろう花魁、喜瀬川花魁の仕草や声色は、文菊師匠を通すと妖艶な色気を纏って眼前に浮かび上がってくる。恐らくは頭の回転も速いであろう牛太郎の喜助でさえ、たじたじになってこき使われるほどの知恵と才と美貌を兼ね備えた喜瀬川花魁の、何とも言えない知的さの混じった佇まいが堪らない。私見で申し訳ないのだが、女性というのは我儘であればあるほど可愛らしく、また、男の虚栄心をくすぐってくる。女性からは嫌われるであろうが、所謂ぶりっ子であるとか、自由奔放な人というのは、見ていて思わず援助してしまいたくなる不思議な魅力があって、私を含め多くの馬鹿な男は、そうした女性の可愛らしさに頬も心も何もかもを溶けさせてしまう(はず)

芸能人で言えば、田中みな実さんであろうか。知的でありながら、可愛らしさと色気を存分に放って男を惑わせる。そんな妖艶なる佇まいこそ、文菊師匠の語りの真骨頂でもあると言えるだろう。

まさに文菊師匠の『お見立て』は、十八番と言っても良いのではなかろうか。文菊師匠の持っている全てが存分に詰まった一席である。

幇間腹』や『鰻の幇間』など、からっとしている幇間の魅力が、牛太郎として吉原の花魁を取りまとめる喜助に表れているし、『紙入れ』や『甲府ぃ』などに登場する『色気のある年増』や『ハイテンションなおバカ女子』を混ぜた女性は喜瀬川花魁に、『百川』や『権助提灯』などに代表される田舎者の語り口の杢兵衛など、それぞれに良さが表れている。

登場人物の個性がバランス良く、聞いていて鮮やかにくっきりと人物が浮かび上がってくることによって、驚くほど噺が人間臭い。現代的な言葉やくすぐりは一切排除され、全てが古典の世界の雰囲気にありながら、現代に通ずる人物描写は文菊師匠にしか出来ないのではないだろうかと思える。

喜瀬川花魁の徹底して杢兵衛を突き返そうとする知恵と、女性らしい感情による反発。それに渋々従い、文句を言いながらも振り回されてしまう真面目な喜助、現れない喜瀬川に対して怒ったり文句を言うどころか、全てを鵜呑みにしてひたすら自分にとって都合よく物事を解釈する杢兵衛。三者三様の心模様が実に見事に折り重なって表現されているのである。

特に、喜瀬川花魁が素晴らしい。美貌と才を身に付けたからこその、我儘な素振りが堪らないのである。反発しながらも、自らの勤めを全うする牛太郎と、全く自らの勤めを全うしようとしない喜瀬川花魁との対比が実に見事で、文菊師匠ならではの言葉選びと、花魁らしい所作が堪らなく素晴らしい。喜瀬川花魁のような女性に私も何度騙されたであろうか(どうでもいい)

また、杢兵衛も杢兵衛で実に能天気な田舎侍なのである。杢兵衛の救いようの無い自己中心的な解釈を聞いていると、喜瀬川花魁が拒絶するのも致し方無しと思えるから面白い。また、文菊師匠は相当耳が良いと思う。田舎侍の口調とトーンが実に見事で、一体どこで習ったのか不思議に思えるほど、田舎者が様になっている。

文菊師匠の醸し出す品のある雰囲気が、杢兵衛の語りになった途端に、「あ、こりゃ絶対ブサイクな侍だわ」と思えるのだから不思議である。文菊師匠の語りと所作によって生み出される『お見立て』は、絶世の美女である喜瀬川から、ド田舎者の自己中侍の芋臭さまで、性別と容姿のボーダーを軽々と飛び越えて、容易に聞く者の想像をくすぐってくる。その自在な声色とトーンの使い分けが、違和感が無く、むしろ心地よいくらいに人物を描いている。

また、後半に向けてさらっと『お見立て』という言葉の意味を説明する描写も素晴らしい。冒頭で説明することなく、噺の流れの中でさらりと伏線を仕込むところが文菊師匠ならではの工夫であろうか。同時に、喜助の仕事人としての誠実さが伝わってくる。『お見立て』という一席は登場する人物に様々に感情移入できる面白いお話である。

実生活でも、喜瀬川のように、会いたくない人と会わなければならなくなったときには、色々と知恵を絞って会わないための口実を作ることもある。また、喜助のように不満に思いながらも、しぶしぶ仕事を全うするときだってある。杢兵衛のように、何でも自分に都合良く考えて、相手の気持ちを知らぬままに自分だけ楽しんでしまうことだってあるのだ。

でも、そんなことは話を聞いている今だからこそ思うのであって、話を聞いている最中には、ただただ物語に浸り、文菊師匠の描き出す世界に没頭する。

ああなんて人間臭くて面白いのだろう。結局、男は美人に振り回される。

 

古今亭文菊  百年目

ネタ卸しの時に衝撃を受け、感動の余韻とともに数年が過ぎ、ようやくネタ卸し以来となる『百年目』を聞くことができた。

最初に聞いた時ときの記事はこちら

 https://www.engeidaisuki.net/?p=440

物語のあらすじは前記事に任せるとして、最初に聞いた時よりも格段に人物描写がくっきりとしており、全体的に噺の筋肉量が増えたというか、体格が良くなった感じがした。

特に、冒頭から番頭さんの声や表情がよりくっきりとしたように思うし、番頭さんが様々に小言を言う使いの者たちも、表情豊かに個性が増した。

最も素晴らしいのは、番頭次兵衛の主人であろう。前回の時にも印象に残ったのだが、普段はお店で堅物とされた番頭が、屋形船に興じた後で勤め先の主人に出くわす場面。胸がハラハラとして、一体、主人は番頭にどんな言葉をかけるのだろうと思っていると、絶妙の間とトーンで言葉を放つ主人。

この瞬間の主人の心遣いが、とーんと私の胸を突いて涙腺が刺激された。実に良い。実に良いのである。酔って扇子で顔を隠し、遊び呆けた番頭が、あろうことか主人と出くわしてしまった瞬間の、驚きとパニックに対して即座に声をかける主人。

この場面は特に見物である。さりげない言葉の中に、上に立つ人間の見事な姿が表現されているように思うのである。

その後の番頭の狼狽ぶりも面白く語られるのだが、じーんと主人の言葉が胸に響いて感動する。笑いと涙が幾重にも折り重なり、後半に向けて実に見事な前半だった。

『百年目』の見どころは随所にあって、お堅い番頭の様子が語られる冒頭から、そんな番頭が裏の一面を見せて遊びに興じる中盤、そこから一気に青ざめてパニックになり、最後に主人に呼ばれ、覚悟を決めて主人の話を聞く後半まで、あらゆるところに人の心の機微であるとか、人間らしさが滲み出ていて大好きな話である。

特に、最後に主人が番頭に向けて語る言葉の一つ一つには、染み入るような美しく、また含蓄のある言葉がたくさんある。この辺りの言葉は、勤め人の方々であれば涙無しでは見ることができないであろう。また、一所懸命に仕事を全うして退職され、第二の人生を歩む人々にとっても、自分の人生を振り返るのに素晴らしい言葉が凝縮されているように思う。

冒頭にも記したが、人は生きていれば信じられないほど恥をかく。思い出す度にかあっと顔が熱くなるような恥を誰しもがかく。そんなとき、『百年目』の噺の中に出てくる主人のように、教え導いてくれる人に出会うことができるのは、とても幸福なことではないだろうか。人に限らず、自分の恥を支えてくれるものに出会えたら、それはとても幸福なことである。

ひょっとすると、私は死ぬまで恥をかきつづけるのかも知れない。もしくはどこかでボケてしまい、恥を恥とも思わなくなるのだろうか。それも一つの恥なのだが、自覚できなくなってしまったらどうしよう。でも、そのときはそのときであろうか。

こうやって文章を書くことだって、もしかすると恥なのかも知れない。自分の考えを顔の見えない人達に向けて書くなんて、大きな恥だろうか。

でも、私はそれでも良いのだ。たとえ誰かにとって恥になろうとも、私は恥をかくことを恐れない。死ぬまで恥をかく覚悟だ。

文菊師匠の主人の言葉が胸に染みる。素敵な『百年目』だった。

 

終演後

落語好きな方々に誘われて、野毛にある小料理屋さんにお邪魔した。とても美味しいお料理とお酒を頂き、また、落語のお話で大変盛り上がった。ついつい盛り上がって終電を逃し、ディープな場所に流れ流れて、とても楽しい一夜を過ごした。

翌朝は自分でも良く目が覚めることができたなぁと思うほど、ギリギリの時間に目が覚めた。結局、再び、ねえさんに何から何までお世話になってしまった。

前記事で、2月は割とナイーブになるというようなことを書いたが、おかげさまで何とか楽しく2月を過ごせている。まだまだ素敵な演芸会が目白押しである。

どんどん恥をかいていこう。もちろん、恥をかかないようにはしているのだけれど、それでも恥をかいたときに、ちゃんと心を真ん中に戻せるようにしておこう。寄席に行ったり、落語を聞いていると、すとんっと心が真ん中に戻ってくる気がする。

落語っていいね。