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我は忘却の深溝に~2020年2月16日 シブラクレビュー あとがき~

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 忘れるにまかせるということが、

 結局最も美しく思い出すということなんだ。

 川端康成『散りぬるを』

忘我混沌の歓喜

今回のレビューはこちら

 http://eurolive.jp/shibuya-rakugo/preview-review/20200216-1/

普段の暮らしにおいても、私は我を忘れるということがよくある。箪笥の抽斗の中に我を忘れ、慌てて抽斗の中を覗くとしなしなになった我を見つける。「ああ、よかった」と安堵するも、発見された途端に我は膨張を始め次第に部屋いっぱいに広がり、私を押し潰さんばかりに膨れ上がったのち、ぱんっと一瞬弾けてどこかへ消えていく。信じられないかも知れないが、忘れられた我は二度と元の姿で私の元へ返っては来ず、散り散りになった我を搔き集めたところで、どうにもちぐはぐで心が落ち着かない。

他人を思いやる人は、おおよそ自我と呼ばれるものを抑えつけていて、意識無意識に関わらず、箪笥の抽斗に我を忘れてしまいがちである。それは純粋で穢れの無い気持ちに端を発している。だから、何をするにも他人を優先し、世間一般で言えば『自己犠牲』なる言葉で括られ、知らず知らずの内に心を擦り減らし、自分ではどうすることも出来ない苛立ちを積み重ね続け、やがて耐え切れずに我を探し始める。自分でしまい込んだ箪笥の抽斗の位置さえ忘れてしまうことが、生きていれば幾らでもある。

近頃ではあまり聞かなくなった言葉の一つに、『自分探し』なる言葉がある。変な言葉だ。まるで自分というものが何かを知っていて、どこかに自分が隠れているかのような感じがある。私はあまり好きな言葉ではない。私の友人に『自分探しの旅』と題して、会社に入社してから一年経たずに退社し、オーストラリアに旅立った人物がいるが、結局、彼が自分を発見できたのかどうかは分からない。そもそも、『自分探しの旅』に出ている時点で、自分を探そうとしている自分は一体誰なのであろうかと疑問に思わないのだろうか。落語の『粗忽長屋』のように、「自分を探している俺は確かに自分だけれど、探されている自分は一体誰だろう?」と言うのだろうか。オーストラリアにいる自分が本物の自分なのだとしたら、日本で生まれたことは不運である。そもそも本当の自分がどこにいるかなどということを考え始めたら、不安になって生きて行くことさえ難しいのではなかろうか。

と、書き連ねていくと、『我を忘れる』ということはあまり良く思われていない。盛りの付いた猿が、我を忘れて雌猿に飛びつくとか、歌舞伎町で中年が見知らぬ若い女性に我を忘れて声を掛けるとか、考えただけで吐き気がする言葉が『我を忘れる』である。

ところが、こと演芸鑑賞においては『我を忘れる』ということは、実に美しいことであるように思われる。前シブラクレビューで私は、ディズ〇ーランドで渋谷らくごの会を喩えたのだが、その時の経験が今回の記事に発展し、ひいてはシブラクレビューの最初の記事を土台に、形を変えた記事になったように思う。

『わからないこと』を楽しもうという姿勢は賞賛に値するし、それ自体の心意気は確かに良いと思うのだが、私は「楽しもうという心構え」よりも、「我を忘れて、我に返らない」という言葉の方がしっくり来た。より潔いというか、振り切れているように思われたし、それ自体が美しく、また、誰にも強制されていない感じがあって、今回の記事を通して用いようと思った。

「楽しもう」とか「楽しくなくちゃ〇〇じゃない」というのは、どうにも私にはしっくり来なかった。「楽しめない自分」がいても良いと思うからである。ならば、いっそ、その自分さえも無くしてしまえば良いのではないか。一度、自分という存在をゼロにしてしまう方が良いのではないか。「頭空っぽの方が夢詰め込める」というわけではないけれど、自我を忘れて過ごす時間、それが演芸鑑賞であっても良いのではないか。

 

冒頭

シブラクレビューの冒頭に記したのは、我を忘れることの純粋さと美しさである。誰かを思いやるときに、それは「助けよう」とか「守ろう」という言葉が付されないものであるように思った。だからこそ、熱いアイロンに触れそうになる赤子を助けようとする母親の無意識の行動を書き記しておきたいと思った。そこには確かに「助けよう」とか「守ろう」という意志や感情はあるかも知れないが、言葉よりも行動が先に来るように思われた。それが「我を忘れる」ということの美しき本質ではないかと思ったのである。

「我に返らない」ことの楽しさは人それぞれ経験があるのではないか。ふと我に返ったときに、「何やってんだろう、俺・・・」という気持ちは沸き起こっても、我に返らなかった時間の楽しさというものには抗い難い魅力がある。理性が動きを止めて、本能が活動を始める。その時間の動物的な快感に身を委ねたことが一度でもあれば、朝まで我に返らない人々の気持ちもわかるのではないだろうか。

こう書くと、「貴様には倫理観が無いのか」とか、「貴様は犯罪者を賞賛している」などと言ってくる輩もいるかも知れないが、何事にも節度というものは確かにある。だが、こと落語という演芸においては、そういう節度も常識も取っ払って聞く方が良い気がする。というか、今回の記事に関しては、そういう暗黒面の『我を忘れて、我に返らず』という部分は書いていない。美しいのだ、ということしか記さなかった。

物事には全て光と闇があるとすれば、私は光しか書かない。そう決めて書いている。

 

 おさん師匠のこと

おさん師匠の文章は、自分の心から沸き起こってきた思いを書き留めた。一見すると、「こいつ、何言ってんだ」と不思議に思われる読者がいても仕方ないと思う。だが、それは分からなくても良いと思って書いた。分からずとも、「森野には、おさん師匠がこう見えるのだな」と思っていただければ幸いである。同時に、「森野にこんな風に見えたおさん師匠って、どんな人物なんだ?」と思って、実際に聞きに行って頂けたら、さらに幸せである。

炊き立てご飯とレトルトカレーについては、片岡義男先生の『吹いていく風のバラッド』の印象が強く、その光景の素朴さがとても気に入っており、おさん師匠に合っている気がして、どうしても書きたくなり、私利私欲に従って書いた。書き過ぎない素晴らしい情景描写が参考になるので、興味のある方は是非読んで欲しい作品である。

『大工調べ』に関しても、書いた通りなのだが、与太郎のために我を忘れて啖呵を吐く棟梁の姿が良かった。普段、温厚そうなおさん師匠が烈火のごとく喋りまくるというのも、聞いていて爽快だった。私もついカッとなることはあるが、大体は支離滅裂になることが多い。我を忘れると言うのは、諸刃の剣である。

 

わさび師匠のこと

誰かがSNS上でひどい目に合っていたら、言葉を言わずにはいられない人がいる。私も時折、どうしても言いたくなってしまうことがあるし、それを言ったことによって永久に付き合わなくなった人物も少なからずいるが、やはり何かを言ってしまう人というのは、他人を思いやっているからこそ発言するのであり、ひどい目に合っている人物に対して、「あなたは何も悪くない」という意志を表明したいから言ってしまうわけで、それ自体はとても美しいことであり、何ら批難されるものではない。

だが、ひどい目にあわされた人物以上に周りが騒ぎ立てると、本質が霧の中に隠れてしまうように思う。「じゃあ黙っているのがいいのか!?」と言われると言葉に窮するのだが、冷静に状況を判断せぬまま、表面的に「あいつが酷い。お前は悪くない」と言ってしまうのは、早計である。twitterなどを見ていると、特にそういう傾向が強くて辟易するし、それは自分自身にも言えることであるから、つくづく発言には気を使わなければならない。下手をすれば「お前、文才無いよ」とか「お前が伯山のネタを決めんな」とか質問箱に投稿してくるような輩に絡まれるので、質問箱の存在理由を理解しない輩に絡まれないように、細心の注意を払って発言したいものである。

わさびさんの高座を見ると、日常のトラブルも何もかも落語に繋がっているのだな、ということがとてもよく分かった。わさびさんを含め、多くの噺家さんは全てが落語に繋がっている。そんな風に思った高座だった。

 

 吉笑さんのこと

吉笑さんに関しては、物凄いクレバーな人だから、今回の個性派揃いの中では、聞く人を間違いなく選ぶ噺家さんであると思う。それは決して悪い意味ではない。言葉を聞いて想像をすることが不慣れな人にとっては、ちょっと想像しがたいし、受け入れにくいのではないか、と思うような新作ではないかと思ったのである。

つまりは、結構「わからない人」が続出しそうな噺であった。レビューにも記したが、「なんじゃそりゃ」とか「ありえない」と思った瞬間に思考停止に陥る噺であると思ったのである。それを言ってしまえば、落語そのものが「なんじゃそりゃ」とか「ありえない」と思った時点で楽しめないお話である。恐らくは、この記事を読む読者は落語玄人なので、聞けば当意即妙に話を理解する人ばかりであろうとは思うのだが、そうでない人が渋谷らくごには多く参加しているということを忘れてはならない。

吉笑さんの今回の演目は、人が「わからない」ことに出くわしたときに、どうすれば良いかということを教えてくれる。「わからない」ことを「わからないまま」にしても良いし、「分かろう」として「分かる」状態になっても良い。つまり、『保留』がとても重要な役割を持っている気がしたのだ。

演芸鑑賞を楽しむポイントは、この『保留』にある気がする。「何言ってるかさっぱりわからない」で終わるよりも、「何言ってるかさっぱりわからないけど、まあ、そんなもんなんだろう」ということが肝心であるように思うのだ。

「わかる」ことだけを楽しむだけでは、世界は拡がっていかない。「わかる」を阻害しているのは、案外、常識であったり、現実の物差しであるような気がするのだ。そういうものをすべて取っ払う。「わからない」ことを「わからないまま」受け入れる。難しく言えば『保留』になるのだが、敢えてその言葉は用いず、「そういうものなのだろう」と受け入れること、と書いた。

私がシブラクのレビューで最初に書いたようなことは、吉笑さんの部分に形を変えて表現されている。分かろうとしなくても良いのだ。いつか分かる日が来るという姿勢で、拒まずに、受け入れること。それが次なる演芸の心構えであるように思い、記すことにした。

 

 馬石師匠のこと

馬石師匠に関しては、書いた通りである。我を忘れた人の語りを思う存分楽しむために、聞く者も我を忘れてしまえばいい。我を忘れてはしゃぎにはしゃぐ馬石師匠を見ていれば、我に返る暇もなく楽しめる。

馬石師匠が好きな人は、我を忘れることが上手な人である気がする。落語の世界にどっぷり浸かって楽しめる人。一歩引いたところから落語を見るのではなく、自らも落語の世界に没入するような、そんな落語をするのが馬石師匠である。

私が思うに、馬石師匠と文菊師匠がシブラクの核であると思う。同時に、笑二さんや談吉さんもまた、一つの核であると思う。この二つの核は、落語の楽しみ方をそれぞれ教えてくれる素晴らしい核である。

より自分の感性に近い距離で、この二つの核、どちらかに寄っていくと、それはそれは楽しい落語の世界が待っている。馬石師匠を楽しめる人は、さらに白酒師匠や雲助師匠、龍玉師匠も楽しめる。文菊師匠を楽しめる人は、小里ん師匠や小燕枝師匠を楽しめる。笑二さんを楽しめる人は、立川流の多くの噺家さんを楽しめるし、談吉さんを楽しめる人は、ナツノカモさんやこしら師匠を楽しめる。

ありとあらゆる落語の幅を知ることができるように思うのである。私の希望としては、南なん師匠や笑遊師匠、伸べえさんや貞橘先生が出てくると、もっとディープな世界が広がっていくのではないかと思うのだが(笑)それは単なる私の願望なので止そう。

 

さて、今回はたっぷり語ったあとがきである。せっかくレビューを書いているのに、あとがきでたっぷり書くとは、フトドキセンバンと思う読者もいるであろう。だが、私にはまだまだ書く意欲があるのである。

それでは、また。毎回、長い文章にお付き合いいただき感謝である。

私事であるが、また一つ齢を重ねた。

今後もより一層、演芸を楽しんでいく所存である。