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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

極上の闇鍋~立川流のあたらしい会 新・2~2018年9月2日

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全員ウケてるでしょ。腹立ってくるんですよ。

 

優しい志らの兄さん。僕の出番の前にね、こんなことを言ってくれましたよ 。思いっきり滑って来いって。いい兄さんだなぁ。

会場はお江戸日本橋亭。雨が降って蒸し暑い中、大勢の人だかり。志ら乃師匠が出てきたり、整列を促すお姉さんが綺麗だったりで、入る前から胸が高鳴る。

中に入ると黒山の人だかり。また異様な雰囲気である。特に女性が多かった。常連の年配の方々が多い落語会と比べると、どちらかと言えばふわふわとした雰囲気。とりあえずは前座の噺を聞いて客席の様子を伺おうと思い、私は志ら乃師匠のブログを見つつ、出番の順序を確認する。

 

開口一番は立川談笑師匠門下、立川談洲。名前の由来であるダンスが躍れるというのを上半身だけで披露する。キレは良いがいまいち伝わりにくい。が、会場がウケている。お、このボケでこの笑いの量なのか、と思いつつ演目は『つる』。どことなく玉山鉄二を彷彿とさせるイケメンが、裃の振り分けをリズム良く演じている。立川一門って単なる古典であっても本当に上手にやるというか、個性を古典に上乗せさせてくる印象がある。ダンスのキレの良さも相まって、落語はリズミカルに進む。つるを説明できない感じが前座ながら十分な技量。おまけに客席も結構ウケている。今日の客席は温かいお客さんが多いのかも知れないと感じつつ、聞き慣れた話なのに面白い談洲さんの『つる』が終了。談笑師匠の一門は精鋭揃いと言った感じ。

 

お次は山口勝平さん。芸名はのノ乃家ぺぺぺぇ。声優さんで、名探偵コナンの工藤新一や、犬夜叉の声を担当しているという。聴いてみればどこかで聞いたことがある声。演目は『狸札』。タヌキの演じ方が上手い。何より声の使い分けが声優らしくて上手い。声色だけで人物を描き分けてきた声優だからこそ成せる技だと思う。会場も結構ウケていた。声優さんが落語をやっても結構な笑いを取ることが出来る会場なのだな、と感じる。

 

三番手は春風亭昇々。間がゆっくりで眠たくなる。演目は新作の『先生と生徒』。登場人物がとにかく過剰にデフォルメされていて、自分の好きな感じじゃないなぁ。と思いながら聞く。会場はゆっくりとしたテンポでボケの度に爆笑が沸き起こる。印象としては間とキャラが気持ち悪く、私はあまり受け付けなかった。正し、彼の『待ちわびて』は名作だと思う。

 

四番手はラバーガール。ここで初の漫才。何度かテレビで見たことがあった。秀才メガネ風の飛永さんとオタク風おかっぱの大水さん。お囃子はGRAPEVINEの『RUBBERGIRL』という粋な演出。二本ネタをやって、二つともかなりの爆笑。会場が非常に温まっていた。リクエストされたネタをすぐ出来るのは凄いと思う。さすがプロの漫才師。綺麗に笑いをさらっていったけれど、生粋の落語マニアであろう年配の方はくすりともしていなかった。

仲入り前は台所おさん師匠。寄席で何度か拝見したときは、滑舌も良くないし、ネタも面白く無いし、なんでこの人が真打なんだろうか、と一瞬疑うくらいの印象だったのだが、この日は激変。かなり気合が入っている感じだったし、定番の小噺もバンバン受けていた。何よりも裃の振り分け、間、テンポが気持ちがいい。うおー、これが寄席では見せない本気だったのか!と思いつつ、演目は『松曳き』。それまでの台所おさん師匠への評価が一変で覆るほどの素晴らしい出来。会場もどかんどかん受けていたし、滑らかに滑るような心地よいテンポで話が進む。凄いな、台所おさん師匠。終わって欲しくないなぁ。と思いつつ、オチに辿り着いて大喝采。御見それいたしました。

 

仲入り後は玉川太福/玉川みね子師匠で『石松三十石船』。渋谷らくごで見たロング・バージョンの丁寧な解説があってからの『石松三十石船』が今のところ私が感じるベスト。今回はショート・バージョン。テンポは良いし、聞かせどころもあるけれど、やっぱり『たっぷり!』で聞きたいお話。

 

お次はキュウ。初見。ゆっくりとした間でシュークリームとかエクレアとかになりたい人のお話。会場はかなりウケていたのだけれど、正直、その世界観に全く共感することが出来ず、ただ沈黙。女性に比較的ウケていた印象。こういう話にウケる人が存在しているということが、新たな発見だった。

 

トリ前はらく兵さん。佇まいからして異様な雰囲気。面白いことをやってくれそうな雰囲気をびんびん感じる。頭の形、顔の造詣も面白い。マクラ曰く、旧日本兵に顔が似ているという。確かに、と思う説得力がある。喋り方と表情に談志イズムを感じる。やっぱり立川流なんだなぁ、という印象。演目の『金明竹』は上方の人が最初に来るバージョン。お、この段階で上方の人が出てくるのか、どうやって残りの時間を埋めるのだろうと思っていると、随所にアレンジがされていて、おまけにそこがとにかく爆笑。会場が渦に巻かれたようにとにかくウケていた。出番前に志ら乃師匠に「思いっきり滑って来い!」と言われた割には、これまでで一番ウケていた。凄い面白い人がいたんだなぁ。と呆気に取られていると、意外にもオチは型通り。上方の尋ね人の演じ方、女将さんの聞き間違え方がおかしくって、ちょっと追いたい落語家に決定する。これと言ってフラが強烈とか、間が強烈に面白いという訳ではなく、立川流のメロディアスな口調の中に、ふっと背中を押されるような笑いがあるというか、まさしく『くすぐり』と呼べるようなおかしみがあって、真打になってもおかしくない技量であると思う。志らく門下かと思いきや、なんと破門されているとのこと。立川の亭号も名乗れないという。実に勿体ないけれど、きっといつかは立派な真打になる。

 

トリは志ら乃師匠。正直、ここまでの演者が全員どっかんどっかんウケていたので、かなりのプレッシャーがあった筈である。かなりの熱演でなければ会場の熱気を受け止めることは出来なかったと思うし、そういう意味では志ら乃師匠自身が自らの首を絞めた会になったと思う。正直に言えば、志ら乃師匠の演目『死神』は会場のそれまでの熱気を別次元に移動させられるほどの物ではなかったと感じた。じっと聴いていると、死神が枕元にいると助からない、足元にいると助かるという大事な話をせず、呪文のところに力を入れすぎていた。死神という話を知っている方ならば、飛ばしても問題の無い個所ではあるが、枕元の話を出した時の会場の『きょとん』とした空気が恐ろしいほど伝わって来たし、志ら乃師匠もあっさりと逃げるようにその辺りの話を流して、死神が蝋燭のある世界へ連れて行く話に繋げた。ちょっと白けたなぁ、と思いつつ最後まで聞く。オチもあまり恐怖を感じない。粗忽長屋の「お前だよ!」にあった狂気みたいなものが薄れていて、全体的にまとまりのない『死神』だった。でも、仕方がないと思う。あれだけの爆笑を取ったらく兵さんの後はやりにくくて仕方がないと思うし、仲入り前の台所おさん師匠だって神がかった迫力だったし。その上で志ら乃師匠が担った重圧は計り知れなかった。そういう意味でこの会は普通の寄席とは違う、全く別のプレッシャーがトリにかかっていたと思う。これがらく兵さんの後に粋曲とか奇術とか入っていたら、また一旦リセットした気持ちで迎えたのではないかと思う。寄席のシステムって案外上手くできてるんだなぁ。という印象。

 

総括すると、本当に凄い会だった。色んなものがごっちゃまぜになって、志ら乃師匠が選んだ好きな人達による、何を出すか分からない闇鍋のような会になっていた。トータルすれば素晴らしいと思えるし、最後のカタルシスを期待するだけ無駄なのだが、らく兵さんという嬉しい発見、台所おさん師匠の本気を見れたという発見もあって、私にとってはかなり有意義な会だった。

またこういう機会があったら是非行きたいのだが、お目当てはトリじゃないかなー。

 

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オーストラ・マコンドー 『ありがたみをわかりながら死ね』~いつも届かずに離れていってしまうものへ~2018年9月2日

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ありがたみをわかりながら死ね 

 

 

いつ、どんな時に、どんなところから自分の行動が選択されるかなんて、皆目見当が付かない。出会いに必然と偶然があるとすれば、私が知った情報から行動を起こし、そしてその選択の先に待ち構えていたものに出会ったのは、間違いなく必然と呼んで良いだろうと思う。

今回も、そんな必然から私は演劇を見ることを決意した。Twitterでいつフォローしたかも分からない『清水みさと』という人が、『オーストラ・マコンドー』という劇団で、『ありがたみをわかりながら死ね』という芝居をやる。その情報を最初に目にしたとき、パッと芝居の題名が心に引っかかった。疑問がまず浮かんだのだ。

 

一体何の『ありがたみをわかりながら死ね』ばいいんだろう。

 

それだけで、観たいという理由には十分だった。たった三人しか役者が出ないというのも気になったし、そもそもどんな芝居なのかも全く分からない。いかんせん初心者だから、劇団の凄さも、役者の凄さも、演劇の楽しみ方も何も知らない。この『何も知らない』という状況が私は好きだ。理由は単純に知るための余白がたくさんあるから。そして、私は自分が目で見て聞いたものしか評価をしたくないし、外部からの余計な情報を完全に遮断して『自分がどう感じたか』を表現することが演芸について語ることの意味だと感じているから、そういう意味では私はまず観よう、そこから判断しようと思ったのだ。

 

8月26日の午前中は、神田連雀亭で玉川太福さんを見るためだけに行った。勿論、寸分たがわず最高だった。そこから、殆ど何も期待せずに下北沢に向かった。

 

下北沢という街も初めてだった。少々雑多だし色んなカルチャーがぽつりぽつりとある街だという先入観はあった。まだ下北沢が正直どんな街なのか分からないけれど、『小劇場 楽園』は確かに存在していた。

私は普段、落語、講談、浪曲ばかり聴いている。だから、客層もかなり年齢が高くて、みんなほっこりと安らかな表情をした方々が多い。色んな芸能の楽しみの一つとして、観客の表情をぼんやりと見るのも良いと思う。と言うのは、まるで顔の雰囲気が違うからだ。私の勝手な思い込みだとは思うのだが、関東人と関西人の顔つきが異なるように、もっと言えばアメリカ人と日本人の顔が違うように、落語や講談や浪曲、音楽のジャンル、そういう様々な分野において、その分野を好む人の顔付き、面相というものはまるで違う。全体の雰囲気が全然違うのだ。そして、分野によって面相にはある種の共通点があるのである。これは本当に私個人がそう思うだけであって、他の人がどう感じているかは分からない。おそらく、憧れの対象になりたいと思うが故に、そこに近づこうとする気持ちが働いて、そういう面相になるのではないかと思う。

では、演劇を鑑賞する人々の顔つきはどんなものだったのか。これが実はかなり分かりづらい。面相が違うと書いているくせに分かりづらいとはどういうことかとお叱りを受けるかも知れないが、意外にも(?)四十代のおじさんが多かった。結構、推測してしまう質なので後々何となく、なぜ四十代くらいのおじさんが多かったのか判明するのだが、女性もちらほらと見え、何かを感じようとする熱心な面相の人が多いように感じられた。何せ3000円以上払って2時間の演劇を鑑賞しようとしているのだから、中途半端なものであったら二度と見るか!となりかねないものだと思う。値段と演劇の質は必ずしも一致しないが、映画館で2時間1800円、レンタルになれば200円前後で2時間の映画が楽しめる時代に、3800円で2時間の演劇を見ることには、やはりある程度の価値が無ければならないと思っている。私はつまらないものは語りたくも無い質なので、そういう意味で観客の鑑賞の態度は落語に比べれば強気だと思う。500円の連雀亭ならば「どうぞ、好きなように思う存分やってごらんなさい」という態度で見られるものが、3800円になると「しょーもないもの見せたら二度と見ないぞ」に様変わりするのだから、つくづくお金は怖いものだと思う。

 

余談だが、会場前に配られたトランプカードの意味が最初、私は分からなかった。いらぬ推測をして、まさか観客参加型の何かをやるのだろうかと思った。ところが会場と同時に、カードが整理番号を表していたのだと気づく。そんな説明はどこにも無かったので、内心、かなり苛立ったのだが、まぁ、そこは初心者の不幸ということで水に流した。

 

さて、いよいよ劇が始まる。これ以降はかなりのネタバレを含む。といっても、この記事がアップされるのは公演終了後なのでネタバレも何も無い。もちろん、全て私の記憶によるものだから、多少の間違いや改編された記憶があるかも知れない。そこはどうかご容赦頂きたい。演劇を見たものがどう感じたのか、そのエッセンスを感じ取っていただければ幸いである。

会場に入って着席すると、まず四角形の舞台に砂が敷き詰められた床がある。これは海辺の浜を表しているのだとわかる。椅子と缶ジュースが8本。木の枝が置かれている。全てがこの舞台で繰り広げられるのかと想像する。

余談だが、開演前に流れているBGMが良かった。私の好きなオールディーズが流れていた。オールディーズを流す店に外れ無し。朝の松屋と強い親近感を覚えたが、先のカードが整理番号だったことにまだ苛々していたので、ちょっと正常ではなかった。

ついでに、開演前に演出家の挨拶文が載った冊子を読んだ。やはりトランプカードの数字が整理番号であった件に苛々していたので、最初に読んだ瞬間は「一人よがりで気持ち悪いな」だった。さっと見て読む気が失せた。『あいつらがいなきゃ』とか『大変でした』みたいなことが書いてあって、「うるせぇ、こっちはそんなん聞きたくないわ」と思いながらすぐに読むのをやめたのだが、整理番号への苛立ちが収まって改めて読み返すと、「これくらいの強い意志が無ければ、演出家もやっていけない」という考えに変わった。自意識過剰というか、恥部を晒すというか、そういう自分の全部で勝負しなければ見る者の心を震わせることは出来ないのだと思い、冷静になって考え直し、芝居に対する期待値が高まった。私の気持ちとしては『良いものが見たい』という物凄く漠然としたかなり傲慢な意識があった。演出家も観客も互いに傲慢なのだと思った。傲慢だからこそ色々と言いたくなるのだと思った。私は最後まで見てから評価をする質なので、物語を読んで早々に『ああ、これは駄作っすね』というようなことはしない。どれだけトランプカードが整理番号を意味していたことが腹立たしいことだったとしても、その苛立ちは芝居とは無関係である。

 

芝居の評価を冒頭から判断するのは難しい。だから、開演時刻になって照明が消え、少しの間の後に照明が付いた時、スーツ姿の男二人が砂浜に存在しているという、最初のシーンの意味がまず分からなかった。髭もじゃの男(役者:カトウシンスケさん)が「銀行強盗してぇ」と言い、ガタイの良い男(役者:後藤剛範さん)が「じゃあ、ちょっとシミュレーションすっか」と言って金を盗むシミュレーションをする。iTunesカード100万円分を息子にあげるための小芝居で、会場に笑いが起こる。私はじっと見ていたし、さして笑える内容ではなかったので、この後の展開として、この二人が犯罪を犯すのだろうかと探っていると、結局髭もじゃの男が金を盗むことにシミュレーションの段階で失敗し、絶叫する。「こんなことも出来ねぇのかよ」と言ったのち、しばらくの間があって穴を掘り始める。私の記憶では冒頭のシーンは大体こんな感じである。

この冒頭のシーンについて、ここ単体で語るのはちょっと難しい。今、この記事のこの時点では『そういうことがあった』程度に記憶していればよい。

それから、これも記憶が前後するのだが、髭もじゃ男がアルクという名で、椅子に座って「傷は浅い方がいい」と何度もつぶやいたり、ガタイのいい男がツブルという名であることが分かったり、ナツという女性(役者:清水みさと)が出てきて、駅で待ち合わせをするシーンがある。最初の30分くらいで印象に残ったのは、ナツを中心にして間を開けてアルクとツブルが椅子に座るシーン。これも輪にならずに、アルクとツブルがナツに背を向けて話をしているということが、ちょっと引っかかった。仲が良ければ輪になって向かい合ったりするだろうに、何でわざわざ背を向けているのだろうと思った。そうした微妙な距離感がこの三人の関係性を表しているのだろうかと推測していると、ナツが語り始める。大体、以下のような内容。

 

「子供の頃にね、ベッドの中で凄く温かくて心地よいものを抱いて眠っていたの。そしたら、その温かいものがね、急に私の元を離れていくのが分かったの。私はそれをまた抱こうと思ったんだけど、全然掴むことが出来なくて、温かくて心地よいものがはっきりと遠くにあることが分かるの。でもね、掴めないの。後で分かったんだけど、それは私のパパだったの。パパがね、はっきりと意志を持って遠くに行くことが分かったの。必死に手を伸ばしたんだけど、もう二度とその温かいものがつかめなかったの」

 

というようなことを述べて、アルクとツブルが役に立たない感想を述べるのだが、このシーンが冒頭で妙に心に残った。何より、ナツを演じる清水みさとさんの声に不思議な魅力があるのだ。なんだか、不安を抱えていて不安定なのに、それでも確かに何かを信じている。そんな声と、何より表情。自分の中で上手く形にできない物事を必死に吐き出して伝えて、共感を得ようとする思いが滲み出ていた。話していた内容も本当にぼんやりなのだが、『手にしていたぬくもりが急にどこかに去り、そしてそのぬくもりが確かに存在していることは分かるのに、二度とそれを掴めない』ということが伝わった。これも後々効いてくる。

 

そこから、結構場面が展開していく。幼少期の無邪気なシーンが挿入される。ここも結構笑いが起こっていたのだが、演劇に超集中モードの私はどこかに伏線があるのではないかと思って一切笑わずに聞いていた。とにかくツブルの陽気さが目立ったし、どこか擦れていながらも無邪気なアルク、そしてその二人を様々な距離で見ているナツ。やっぱり女性って男より大人になるのが早いんだろうな、と思わされるシーンが多々ある。

正直、良く分からなかったのはやたらとツブルが缶ジュースを飲むシーンがあること。これは8本の缶があった時点で何かに使われるのかな、と推測していたのだが、未だに私は意味を見出すことが出来ない。缶ジュースを飲むシーンは場を繋ぐための小道具なのだろうか。これはちょっと演出家さんに聞いてみたい気もする。

 

ナツの思い出話のあと、陽気な展開が挟まれ、海を見に行こうとする三人の会話が差し込まれる。ナツがアルクとツブルの頬を掴んで「二人とも大人になりましたなぁ」と言うシーンがある。何か奇妙だなと思いつつも見続けていると、海がもう近くに迫っているという時になって、ナツが突然倒れる。これはちょっと驚く。それまでの陽気な展開から徐々に陰気な話へと向かっていく。不穏な雰囲気のまま、中学生時代の話が差し込まれる。

アルクがナツに抱き着いて色々言うシーン。ツブルが『稲中卓球部』を読みながら笑い、アルクがヤクザの女に手を出して焦るシーンが差し込まれ、パンツ一丁になってアルクとツブルがひたすらヤクザに二時間殴られながら、謝るシーンがある。もう既に私の記憶の中の時系列がぐちゃぐちゃなので、読んでいる方には申し訳が無いのだが、実際の演劇では適切な個所で、適切な順序で物事が組みあがっているのでご安心頂きたい。本当は時系列をメモしておけば良かったのだが、芝居に没頭したかったのでメモしなかった。これでは評論家失格なのだが、これはこれで断片的な感じが出て良いと思うし、いい具合に物語の全容を表現していないので、良いと思う(何が良いんだ)

そういうゴタゴタの後に、アルクの部屋でツブルが漫画を読み、くだらない話をしているところに、一枚のDVDが届く。そのDVDを見ると音声から推測するに、ナツがレイプされるシーンであることが分かる。アルクは「殺す、殺してやる」と言って、ツブルと一緒にナツをレイプした奴ら、その主犯格である婆さんを殺そうと思い立つ。どうやら、アルクがヤクザの女に手を出した結果、めんどくさいヤクザの婆さんに絡まれ、報復としてアルクと中の良かったナツがレイプされた。ということが分かる。

結局、アルクとツブルは殺害計画を実行することなく終わる。この辺りのアルクとツブルの演技は凄まじい。「何も守れねぇのかよ」というような、ナツという大事な存在を守ることが出来ず、何もできない自分に苛立つアルクの慟哭は鬼気迫っていた。

この後だったか定かではない。再び時はナツが倒れて病院に行くシーンに変わり、ナツの感情が爆発する。この辺りも鬼気迫っているし、何より清水みさとの絶叫と声が凄まじくて鳥肌が立った。アルクとツブルはデリカシーも無く死ぬとか、海を見に行こうとか、何とか不器用にナツを励まそうとするのだが、ナツは苛立って「死ね!死ね死ね死ね!もうあっち行け!出てって!出てってよ!」と叫ぶ。「なんで?海、もうすぐだったじゃん。いつもそう。あとちょっとなのに、あとちょっとのところなのに、どうしていつもこうなるの、どうして?」

このシーンも本当に絶妙なタイミングでやってくる。それをこの記事でお伝えすることが出来ないのはもどかしい。この辺りから演者の芝居に熱が籠ってくる。そして、ナツがアルクに耳打ちする。「自分が死んだら、骨を砂に埋めてほしい」とナツはアルクにお願いする。それを受け入れられないアルク。また海に行こうと決意するアルク

さらに物語は進んでいく。ナツがもうすぐ死ぬこと、三人で海を見に行けなかったこと。幼少時代の夢と希望が叶わずに消えていったこと、何も守れなかったこと、色んなものがあとちょっとで届かないことが続いて、後半、ナツが一人で語り始める。

このシーンは、心が痛む。清水みさとの声、表情、動作。全てがその残酷さを表現していた。塾帰りに黒い車が突然現れ、婆さんに「あんた、アルクの友達だね?」と言われ、ナツは「違います」と言ったけれど、見知らぬ男たちに暴行され、森に連れて行かれ、レイプされたこと。その表現、その表情、その言葉、全てが心を深く抉る。ナツの感情が爆発して「私はその時、本気で心の底から、殺してやりたいと思った」という絶叫。そして、その強烈な感情の後に、「私は生きる。そんなことをされて、生きることは大変だから、耐え忍んで生きることは大変だから、私は生きて、生きてやる」と噛み締めるように言う。ところがすでに観客はナツが若くして死ぬことを知っている。その対比。中学生の頃にレイプされたナツの生きるという決意と、もう死が迫り「なんで?どうして?」と慟哭したナツが、この瞬間に観客の中に生まれる。そして、照明が明るくなり、再びナツを挟んでアルクとツブルが話すシーンになる。くだらないことで言い争いになるアルクとツブルに向かって、ナツは「ちょっと、ちょっと待って。ねぇ、聞いて。聞いてよ、我が友、よ」という。この瞬間、ぶわあっと込み上げてくるものがあって、私の目から涙がこぼれたことをはっきりと覚えている。大人になったナツは、過去の体験を背負いながらも生きていたこと。そして、もうすぐ死ぬことになるのだという事実。その儚さ。無情さ。それでも必死に、笑顔で二人に向かってナツは言うのだ。「ねぇ、記録してほしいんだ。海でさ、皆で騒いでさ。色んなことをするの。その思い出を、記録したいの」と言う。

時は過ぎていく。様々な物事が起こっては消えていく。その中で忘れられずにいる物事は少ない。現に今の私だって芝居の全てを記憶しているわけではない。だが、二時間、ずっと体験をして初めて私は感じたのだ。冒頭にナツが言っていた『ぬくもりが去っていく話』が、現代のナツに繋がってくる。

 

あらゆる物事の全てが、掴んでいたけれど、いつの間にか離れて、再び掴もうとしても、そこにあることは分かるのに、二度と掴めない。

 

殆ど物語の最後に、病室にアルクとツブルがナツを訪ねてテレビと本を持ってくる。『フランケンシュタイン』とか、そんな本の中に最後、『千年後の百人一首』の一冊を見た時に、私は心が震えた。ナツに対するアルクの思いが少し見えたような気がしたのだ。何かを残したいという気持ち、それは映像でも言葉でもなんでもいい。何か形として、千年後も残るような思いも込めて、アルクは本を選んだのではないか。全部の本のタイトルが読めたら、より判断も付くだろうと思うのだけれど、少なくともアルクのちょっとした意志のようなものが垣間見えて、私はその緻密さに驚嘆した。冬になってマフラーをアルクがナツに買ってくる。なんとツブルも同じバーバリーのマフラーを買ってきて、一瞬笑いが起こるのだが、突然ナツが苦しみだし「痛い痛い痛い」と言って胸を押さえる。「大丈夫か」とアルクとツブルが心配して声をかけるのだが、痛がるナツは二人を突き放す。きっとこのシーンも同じだと思った。子供の頃は同じぬくもりを共有していた三人。それでも、ナツというぬくもりが去っていこうとするとき、アルクとツブルが手を伸ばしても、もう二度とナツのぬくもりに触れることは出来ない。おもいだしたのだが、ナツが空に向かって手を伸ばすシーンがあった。きっとこの物語に通底していることは、そういうことなのかも知れないと思った。

そして、物語は再び最初のシーンに戻る。スーツを着たアルクとツブルが喪服を着て、ナツの葬式に出たことが分かる。

アルクは色々なことを呟く。「ありがたみをわかりながら死ね」と初めて、一度だけ口にする。私はここで、遂に何に対して「ありがたみをわかりながら死ね」ば良いかが分かった。だが、それは敢えて記さないことにする。

二人はナツの骨と本を砂に埋めようとする。その儀式として、アルクとツブルはパンツ一丁で相撲を取ろうとする。一度全裸にもなる。再びパンツを履いてアルクがナツに向かって呟く。ここのセリフも何となく覚えているのだが、ここは敢えて記さないことにする。全てを語ることが必ずしも物語にとって良いことではないと思うからだ。

そして、二人が取り組みあうシーンで物語は終わる。音楽が流れ、舞台で演者の方が頭を下げる。あとから清水みさとが出てきたとき、彼女の泣きそうな表情が印象に残った。

 

例えば芝居の感想に、凄い芝居だった。とすることは簡単だ。でも、私はどうしても言葉を費やしたかった。それが野暮だとしても、私は私なりに物語を消化するために、言葉を費やしたかった。そして、それをネットに公開することで、まだ演劇を見たことが無い方や、『ありがたみをわかりながら死ね』という芝居が確かにあったこと、そして、それに対して私が何を感じたかということを記しておきたいと思った。そうすることが、私にとって必然の行為だからだ。

演者の三人は月並みな言葉だが、凄まじいものがあった。三人とも初見だったのだけれど、普段たくさんの落語家を見ている自分からすると、やはり役者らしいという印象である。面相もそうだし、言葉の一つ一つの言い方を聞いても、役者とはそういうものなのだろうという、当然ながら落語家とは異なる間と言葉の発し方を持っていた。そして何より、清水みさとという強烈な役者がいたからこそ、この物語は成立したのだと思う。清水みさとの役は清水みさと以外有り得なかったと思う。何より声の質、表情に特別な何かがあるのだ。それを何となく垣間見た気がした。

後になって、清水みさとがグラビアアイドルだったと聞いた時、妙に40代のおじさんが多かったのは、そのせいかとも思った。私は正直、グラビアアイドルだったことを後で知ったので、正直驚いた。あの演技力、声、表情、役者になって間違いないと私は思った。別に昨今のテレビ業界、映画業界を批判するつもりはないが、ああいう表情や声を出せる人は中々いないと思う。だから、テレビや映画には彼女のような不思議な力強さを持った役者をどんどん表に出してほしいと思うし、適切に評価してあげてほしいとも思う。と私が書いたところで、もう既に確固たる評価を得ているのかも知れないが、とにかくすさまじい演技だった。演劇初体験にして彼女のような特異な声と表情を持った人に出会えたのは幸運かも知れない。

カトウシンスケさんや後藤剛範さんについても、コミカルな表情や演技が多かったように思う。もっとシリアスな表情を見たいと思った。どこか抜けている感じも良いのだけれども、まぁ、そこは観る者の好みということでご了承いただきたい。

 

『 ありがたみをわかりながら死ね』、このタイトルに興味を惹かれて見た芝居。私は間違っていなかったと思う。限られた期間でしか公演されていないという希少さもあるが、演劇の強さのようなものを垣間見たと思う。と言っても、私はまだ演劇に関してはズブの素人である。どの役者が素晴らしいとか、どの劇団が素晴らしいとか、そういうことは全く知らない。だからこそ、今日の、この演劇を基準として様々な演劇に触れていきたいと思った。演劇は実に面白い。というか、ずっと書いてきたが、演劇という表現が適切かどうかは分からない。でも、それでもいいと思う。私は私なりに今の段階で思ったことを書いていきたいと思っているから、そこはそのまま行こうと思う。

 

演劇が終わって、小劇場 楽園を出たとき、随分と外は暑かった。17時を過ぎていたし、まだ心と頭が痺れていて、というか、久しぶりにかなりの集中力で物語を見ていたので、かなり疲れた。そう、演劇はかなり体力を使うものだということに気づいた。座布団に座って話をする演芸と比べると、演劇は飛び回ったり転がったりととにかく全身で表現をする。逆に言えば落語よりも想像力を働かせる必要は少なくなる分、自分と合わない演劇だったら地獄だっただろうなと思う。そういうことを含めると、私は正しく自分に合った演劇に出会ったのだと言える。やはりこれは必然だったのだと思う。

価値観を揺さぶられるほどのものではないけれど、何か人生を過ごす中で思い返す瞬間がある演劇だったと思う。色んなものごとに対して、私は今日みた演劇を思い出すだろうという微かな予感がある。同時に、私もそういったものを生み出してみたいという思いに駆られる。今は様々な物事を評価し、言葉にし、私の言葉で記事を書いている。いずれは私も生み出す側に行きたい。

世間では、『ヤバみ』とか『つらみ』とかいうらしいが、私の中では『ありがたみ』が一番しっくりくるし、正しい。

最後に一言だけ、ありがたみをわかりながら死ぬって想像すると、かなり幸福なことだと思う。だってそれまでの人生の一つとして憎まずに死んでいくのだから。様々な物事のありがたみをわかって死んだ先に、何が待っているのか。それはまだまだ分からないけれど、いつかそれが分かったとき、私は何を思うのだろう。

そして、ありがたみをわかりながら死んでいった人たちはどれだけいるのだろう。そんなことを考えながら、電車に揺られ私は下北沢を後にした。

2018年9月1日 池袋演芸場~雷門助六 桂伸治~

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あたしの長講は10分 ちょうこっとなの

 

待ってました!大門町 

曇天の空模様の中、本日は池袋演芸場の昼夜入れ替えなしの公演に行ってきた。昼席は満席で立ち見も出るほど。昼席トリを務めたのは雷門助六師匠。演目は気の長短。トリで長短かぁーと思いつつ、目当ての夜席に向けて気持ちを整える。

これは恐らく集中力と時間の問題なのだが、昼はちょろっと落語を見て夜は豪華ディナーにでも行こうか、という客が多いのだろうか。個人的にはせっかくの昼夜公演なのだから、夜までがっつり見るのが醍醐味だとは思うのだが、どうやらそういう人は限られているようである。

伸べえさんも笑遊師匠も遊雀師匠も出る夜公演。これはもう爆笑に次ぐ爆笑の寄席になるぞと思い、高鳴る胸を押さえて席に座る。驚くことに客席はまばら、昼席とは大違いの空席の数。内心、くそう、伸治師匠の素晴らしさがまだ世間に伝わっていないのだなぁ。と思い、その時に私はこの記事を書くことを決意した。

さて、夜席が始まって一発目は前座の桂しん乃さん。前情報によれば最近伸治門下に入ったらしく、落語会では結構な話題となっているらしい。いつも何かに困っているような顔つきをしていて、ちょっとヒステリックさを感じさせる不思議な女性落語家である。

高座を拝見させていただいたのは今回が初。演目は『子ほめ』。始まってすぐの小噺などを聞いていても、強烈な歌劇感というか、声の強弱・高低・抑揚がしん乃さん独自の個性で表現されていた。正直に言う。私には違和感しかなかった。それはしん乃さんの個性が強すぎるように感じられて、私は気おされてしまった。こういう落語の演じ方もあるんだという衝撃が首筋を走った。普段の寄席に通っていても、なかなか味わうことの出来ない凄い方向に空気が向かっているのが分かった。そういう意味でしん乃さんの落語には空気を変える力があった。

さらに言えば、何か強い意志のようなものをしん乃さんから感じた。「あたしの思う落語はこうなんだ!」という見えない意志。きっと誰に何を言われても曲げないんだろうな、という頑固さを感じて、ちょっと怖くなった。これはあくまでも私がそう感じただけであって、考えすぎなのかも知れない。故に賛否両論がはっきり分かれる落語家さんだろうなぁと思う。正直、落語家じゃなくて劇団員の方が向いていると思う。

で、この後である。うわー、絶対にやりにくいだろうなぁ。この空気をどう変えて行くんだろうと思ったのだが、心配することはない。こちらも負けじの独特のフラ、桂伸べえさんである。マクラからばちっと空気を変えて、独特の間と言葉のテンポで『寿限無』に入った。もうマクラから演目への入り方が天才である。さすがだわぁと感心してしまった。しん乃さんの生み出した空気をガラリと変えて自らの世界を作り出す。前回の記事にも書いたが、それをさらりとやってしまうのだから、大物である。

改めて伸べえさんの落語の凄さを認識した後で、チャーリーカンパニーのお馴染みの鮮魚ネタ。そこから二つ目になりたての馬ん長改め吉馬さんで『薬缶』。これがまた実に素晴らしかった。彦いち師匠を感じさせる熱さ、とんとんと進む会話のリズム。聴いて随所に盛り込まれる含蓄のある言葉。これからの勢いを感じさせる気持ちのいい二つ目さんだった。なかなか二つ目に成り立てで好印象の落語家はいないのだが、吉馬さんはとても良かった。今後に期待したい落語家さんである

続いて昔々亭慎太郎さん。北見伸・ステファニーと続いて三遊亭遊雀師匠はお馴染み『堪忍袋』。何度聞いても面白い。

仲入り前は柳家蝠丸師匠で『死神』。出だしから新しい発見。主人公が火消しの職に就いている。おお、これは新しい切り口だ。オチに絡むぞと思って聞いている。やはり後半の死神の演じ方は怪談話をやる蝠丸師匠だから恐ろしい。きっちり主人公が倒れるところまで演じて、オチを言う。これも他の『死神』とは異なる演出。良い発見だった。主人公を火消しにするという発想が凄い。

仲入り後は東京ボーイズ。お初のネタ『初恋』。最後はきっちり『長崎は今日も雨だった』からのネタ。面白かったぁ。

もうすっかり会場も温まって、桂右團治師匠で『かぼちゃ屋』。オーソドックスな演じ方で面白かったし、何より客席がとても優しかった。

そしていよいよ笑遊師匠。鉄板の十八番『片棒』。来たぞ、爆音落語!見せ場の後で拍手が止まらない。何度聞いても活力のある素晴らしい落語。演じ方も豪快なのが素晴らしい。

トリ前は檜山うめ吉さんでしっとり俗曲。この人は声と表情が優しい。

そして、トリの桂伸治師匠。客席からは「待ってました!大門町!」の掛け声。もうかなりの歓迎ムードである。おそらく満席だったらもの凄い熱気だっただろうと思うほど。つくづく思うのだが、昼トリで『気の長短』を見るより、夜席で桂伸治師匠の大ネタを見た方が得だったのではないかと思う。そんな伸治師匠は旅のマクラから『宿屋の仇討ち』。昼席で帰った人は大損だろーと思うほどの熱演。

桂伸治師匠と笑遊師匠は対を成す落語家だと思う。笑遊師匠が爆音と豪快さで笑いを取るとすれば、伸治師匠はさらりと明るくスマートかつ優しみで笑いを取る。笑遊師匠が赤なら伸治師匠は青という感じ。因みに伸治師匠門下には宮治さんという核ミサイルみたいな熱気を持ったお弟子さんがおり、逆に笑遊師匠門下には小笑さんというローカル電車みたいな人がいるので、そちらも是非見てほしい。

さて、桂伸治師匠の『宿屋の仇討ち』。踊りの部分では鳴り物も入る。古典の大ネタも伸治師匠はさらりと、とんとんと話が進んでいく。30分という時間を感じさせないほどのテンポの良さ。登場人物もあっさりに味付けされているが、そこは熟練の技。粋な口調で笑いを誘う。聴いた後でさっぱりとした印象のある高座だった。

桂伸治師匠の魅力はまた別の記事で語るとして、本日の池袋演芸場の寄席。大変に素晴らしい寄席でした。5日までやっているので、お時間のある方は是非是非!

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挑戦と異空間の創造~第九回桂伸べえ落語会~2018年8月31日

 親父の持つ独特な雰囲気、

あれあたくしのほうではフラ?っていうんですが、

ふっと笑いたくなるようなおかしみね、

それは勉強してできるもんじゃないんです

仕事が早く終わる水曜日。西新宿ミュージックテイトにて『第九回 桂伸べえ落語会』に行ってきた。大久保駅から降りて約10分ほどだろうか。玉川太福さんの会で何度か来たことがあって、大体バーガーキングを目印にとぼとぼと歩くことにしている。

丸亀製麺で軽い食事をしてから、開演時間になってミュージックテイトに入る。太福さんの時と違って椅子は少ない。私を含めて客席は六人ほどだろうか。稀有なフラを持った落語家、桂伸べえさんのお客が六人というのは、まだ世間にこの才能が知られていないのだなというのを実感して、少し嬉しくなる。

他人から「何が面白いのか?」と聞かれて、説明が付かないと申し訳がないので、私は好きな落語家に何故惹かれているのか、という理屈はきちんと持つようにしている。例えば、文菊師匠ならば「品と声と演出の緻密さ」と答えるし、笑遊師匠ならば「粋な大声、血が騒ぐ爆音」と答えるし、太福さんならば「声と間と節」と答えるし、朝七さんならば「リズムとトーン」と答える。

そして、伸べえさんの場合は「独特のフラと間」と答える。他の追随を許さない間と、自らに即座にツッコミを入れながらも挑戦を止めない姿勢。そして、伸べえさんがやると刷新されていく古典落語。その唯一無二さに惹かれているのだ。とにかく笑いたい時は伸べえさんが良いのだ。

前にも書いたかも知れないが、落語の上手下手などあまり関係がない。その人がどう落語と向き合っているか、その人はどう落語の演目を演じるか、その独自性に自らの感性を照らし合わせることによって、好きな落語家というものを発見することが出来るのである。文菊師匠の良さを伸べえさんに求めないし、笑遊師匠の爆音を朝七さんに求めたりもしない。要は「みんな違って、みんないい」の精神なのだ。これを変に固定観念に縛られ、「この落語家が絶対に素晴らしい」というものは無い。自分で楽しめれば、他に押し付ける必要などないのだ。

さて、まず開演。伸べえさんのご登場。連雀亭の時より若干活き活きとしているように感じられる。マクラも挑戦を続ける姿勢がある。そして何より面白い。間が本当に面白いと思う。これはあくまでも私の主観であって、万人に共通して面白いと思って頂ける間であるとは言わない。聞いてみて、合わないと思えばそれもまた良しである。少なくとも、落語会に集まった六人の観客の方々は、きっと伸べえさんの間に惹かれていると思いたい。

一席目のネタは『あくび指南』。お、結構冗長になりがちな落語じゃないか。とちょっと思ったが、桂伸べえさんだと安心して聴ける。文菊師匠、柳亭小痴楽さん、柳家小燕枝師匠、春風亭一之輔師匠、柳家喜多八師匠の5人で聞いたことがある。喜多八師匠の型を文菊師匠は恐らく習ったと思うし、これがまた絶品。小燕枝師匠は渋みがあるし、一之輔師匠と小痴楽さんはちょっと勢いに頼っている感じかなという印象。

伸べえさんの『あくび指南』に出てくるあくびの先生は、結構偽物感がある先生という感じ。ちょっと練習をすれば肩を並べられるくらいの熟練さ。文菊師匠の場合は『その道の達人』という感じなので、聞き比べてみるのも面白い。さらに伸べえさんの煙草を吸う所作も独特で面白い。え、そんな恰好で吸うんだ。あんまり吸いなれていないんだな、という感じ。でも、それが新しいというか、他で見たことが無くて斬新。おまけに独自の間が強烈な個性を発揮していて、これがまたなかなか面白い。

続いてはお馴染みのマクラから『たらちね』、言葉遣いの荒い男と丁寧過ぎる言葉遣いの女の話。オーソドックスな古典も、伸べえさんの間とフラで絶妙な面白さである。やはり同じ演目をやっていても、そこにオリジナリティというか、面白さがあるので、これは是非聞き比べをして体感して頂きたい。

そして休憩の後、ラストは『狸札』。タヌキのマクラを失敗した直後だったが、狸札やる宣言後、話に入った。すでに狸札をやる予告の時点で、これまでに聞いた狸札を思い返す。どれも冗長だったし、笑いどころが少ない印象だった。でも、伸べえさんの場合は不思議な安心感があった。例えるなら、同じコーラであっても、それを作るメーカーによって微妙に違うことがあるが、自分のお気に入りのメーカーから出たコーラの味を好んで飲むという感じに近い。端的に言えば演じる人間が面白ければ、どんなことを演じようとも面白いと感じることと同じである。これはある種盲目的と言えるかも知れないが、それは仕方の無いことではないだろうか。綺麗な人だな、と思った人はどんなことをしても綺麗だなと思う。そういうことと同じだと思う。

だから、伸べえさんのやる『狸札』は面白かった。最後のオチまで抜け目なく面白い。それはやはり『伸べえさんがやるから』という結論に至る。言ってしまえば、桂伸べえという落語家そのものに、私が心を奪われているのだ。

かなり絶賛の記事になったが、要するに落語が好きな方は、演者も好きなのだ。それはとても良いことだと思う。例えば苦労しているときに、「そういえば、あの時の文菊師匠はこんなことを強情灸の中で言っていたな」とか、「伸べえさんは、狸札のとき、狸をこんな感じでやっていたな」とか、演者の行為や発言が日常のふとした瞬間に思い出される時があって、それは自分の心を助ける。誰の演じ方で思い出せば自分にとって良いかは、その人自身に委ねられている。会社にいると大体、立川寸志さんの『幇間腹』を思い出すし、悪女に出会うと文菊師匠の『紙入れ』を思い出したりする。そういう思い出は凄く自分の人生に良いと思う。そういう体験が多い人は、人にやさしくなれると思うし、自分自身のメンタルを強くすることが出来ると思うのだ。

落語評論は落語を語り落語家を語る。私が何に惹かれ、何を面白いと感じ、何に活かせるかを記す。桂伸べえさんの落語会に出て、改めてそんなことを思った。

今後、大成する桂伸べえさん。何と9月1日~9月10日まで池袋演芸場の夜席に出る。是非、この記事を見た方には行って、体験してほしい。桂伸治門下桂伸べえ。師匠もさることながら、この逸材、今見逃すと大損する。

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2018年 謝楽祭の楽しみ方 その3~ライブ編~2018年8月30日

多芸に秀でるものは一芸に通ずるなんて言葉にも代表されるように、落語家にも多芸に秀でた方々がたくさんいる。そんな落語家の一面を見ることが出来るのが謝楽祭の一番の醍醐味ではないだろうか。

まず11時から始まるのは『のど自慢』である。落語界の美声の持ち主たちが次々と登場し、歌を披露してくれる。去年は古今亭菊之丞師匠、林家扇兵衛さん、おきゃんでぃーずが出場していた。司会は林家たけ平さん、林家ぼたんさんが司会を務めていた。基本的には渋い選曲であり、あまり若者受けはしない感じであるが、古い名曲を知りたいという方にはオススメである。

個人的には文菊師匠の歌声なども聞いてみたいが、出ないだろうなぁ。落語一本を貫いている落語家さんにとっては、なかなか出場しづらい会でもある。

是非とも美声に酔いしれてお過ごしいただきたい。

 

13時からは復興支援富くじとなっている。これもどんな富くじか当たるのか興味があるところだ。歌に酔いしれた後は富くじを買って何が当たるかと言うドキドキ感を味わうのも良いだろう。ちなみに、昨年はイケメン自慢みたいなものをやっていて、落語界を代表するイケメンや、寄席の若旦那まで登場するという面白い会だった。今年もそんな会があったら良いなと期待していたけれども、さてどうなることやら

 

お次は14時から二K文舎withほたるのライブとなっている。普段は三K辰文舎として活動している入船亭扇辰師匠、橘家文蔵師匠、柳家小せん師匠なのだが、どうやら今回は柳家ほたる師匠が参加するようである。こちらも去年は名演だった。特に岡田奈々の『青春の坂道』は痺れた。良い声してるぜ、扇辰師匠!と思ったのだが、どうやら今回は聴くことが出来ないようである。非常に残念だ。おそらく、この時間帯にはもうすでに私は姿を消している予定である。

 

15時からは大詰めのスペシャルゲストの登場と、締めの住吉踊り。落語の風流を感じるには持って来いの時間帯である。常連の中にはちらほらとこの辺りで退散する人が多い。のど自慢辺りで力尽きて、落語家さんのサイン集めに奔走する方々もいらっしゃる。ライブに飽きたら落語家のサイン集めは必須である。この機会に顔と名前を憶えてもらって、寄席の度に楽しく会話をするのも良いだろう。

個人的には二つ目寄席にも行ってみたい。まだ花開かない才能を持った二つ目さんが出てくる。前座や二つ目さんになると成長の度合いというか、お、上手くなったな!と感じる瞬間が多々あって、それはそれで子の成長を見ているようで嬉しいと思うのだが、あまり落語初心者にはオススメしない。

 

さて、というわけでざっくり謝楽祭の説明でございました!謝楽祭の終わりには感想を記してみようと思っております。

それでは皆様、謝楽祭まで残り一週間とちょっとです!もんもんとしながら待っていましょう!

次回は通常スタイルに戻ります。

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2018年 謝楽祭の楽しみ方 その2~出店編~2018年8月28日

この時期の寄席に行けば必ず貰える『謝楽祭のパンフレット』を手に入れると、当日にどんなルートで出店を回ろうかと考えることができる。Twitterにも画像が出回っているので、気になる方はまず寄席に行って『謝楽祭のパンフレット』を貰おう。

謝楽祭では普段、落語をしている落語家さんや色物のマジシャンの方々がお店を開いている。というわけで、今回は私のオススメを紹介していきたいと思う。

 

1.まずは寄席文字を書いてもらおう! 橘右楽『寄席文字の店』

落語界には寄席文字という文化がある。落語家さんの名前が書かれた札、高座のめくりなどを見ると書かれている文字で、なるべく隙間が無いように(空席が少ないという意味が込められている)書かれている。

一枚1000円で色紙に一字書いてくれる。ちょっとお高いと思うかも知れないが、お祭りの記念に書いてもらって、家に飾るのも良いだろう。気前よく二文字書いてもらえば、気分はすっかり落語家である。

寄席文字の詳細については他に任せるが、寄席文字の書き手の動きを見るのも面白い。値段の割には行列になっているので、かなり儲かっている筈である。

序盤で寄席文字の店に行くと色紙を持っているのが面倒になるので、帰りたいなぁとそろそろ思ってきたら、是非行ってみてほしいと思う。

 

 2.人気落語家があなたの似顔絵を書きます! 三遊亭天どん『円山暴挙』

二連続で『書いてもらう系』のオススメだが、こちらも落語家の似顔絵と侮ることなかれ。非常に特徴を掴んだ似顔絵を描いてもらうことが出来る。何より三遊亭天どんさんに顔を見られながら書かれるので、天どんさんが好きな方には堪らないお店となっている。この機会に天どんさんと仲良くなるチャンス!?

店名の円山暴挙は、幽霊画で有名な円山応挙のパロディである。天どんさんは新作だけでなく古典も結構演じられている。新作を作る派の古典にはかなりオリジナリティのある演出がなされているというのが私の持論である。現代の感性に近い形で古典を再構築していると言えば聞こえは良いだろうか。古典を古典通りに江戸の風を纏わせて演じる落語家がいる一方で、古典を新作のエッセンスを織り交ぜてやる落語家さんもかなりいる。その中で天どんさんの落語は独特でありながら、癖になると表現したくなる落語になっている。

似顔絵をお家に飾って、天どんさんに思いを馳せてみるのも一興だ。

 

 3.鳥は焼かれて串刺され、美人前座に客金払う 金原亭世之介 『寄席のトリ』

美人には滅法弱いという殿方には、是非行って頂きたいお店がこちら、色男の金原亭世之介師匠の『寄席のトリ』という焼き鳥屋さん。世之介師匠のお弟子さんは美人揃い。中でも金原亭乃々香さんは前座で高座に上がると客席から溜息が漏れるほど。年配の男性方の心拍数が跳ね上がって、高座の演目などそっちのけ。ただただ美人を眺めていたいという欲求に駆られること間違いないしの美人前座が、焼き鳥を焼いて出してくれるのである。この美人前座を一目見ようと去年はお客が殺到していた。ところがどっこい。美人前座の周囲を固めるボディーガードはもちろん存在する。サーチャンこと初音家左吉が乃々香さんと一緒にお店に立っており、下手に酔っぱらって絡むことが出来ない威厳を放っている。さすが、美人はガードが堅い。

焼き鳥の味なんて正直どうでもいい。焼き鳥を買わずに遠くからちらっと見るだけでも構わない。店の位置だけ抑えておいて、何度かその周辺をうろうろするという必殺技を使うのも良いだろう。あわよくばサインも頂けるかも知れないが、乃々香さんだけのサインをもらうことは厳しいかも知れない。ましてやスケベなおじい様方による「お口にあ~んして」という要望も、かなりの確実で応えてもらえないだろう。ただ、一瞬のキャバクラ感を味わうには持ってこいかも知れない。

 

 4.もっと年増に殺されたい方にオススメ!林家つる子 『アイスキャンディーズ

二十歳そこそこの美人に興味の無い方は、年齢非公開だがおそらくアラサーの美人落語家、林家つる子さんのお店をオススメしたい。今回、初出店ということで注目のお店である。林家つる子さんと言えば新作落語『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』のようなぶっ飛び系もさることながら、勉強熱心で春風亭一朝師匠印の『芝居の喧嘩』や柳家小ゑん師匠直伝の『ぐつぐつ』など、幅広いレパートリーと独自の感性、そして何より凄まじいバイタリティで活躍している落語家さんである。こんなに芸の出来る美人がいるのだから、世のおじ様方は完全にノックアウト間違いなし。

さらには次の記事で書こうと思うのだが、林家あん子、春風亭一花と三人で『おきゃんでぃーず』を結成。去年は度肝を抜くパフォーマンスで会場を盛り上げたが、今年は本格的に三人で始動。一体どんな波乱が起こるのか、今からとても楽しみで仕方がない。

去年の感想からすると、かなり暑かった記憶がある。熱中症の対策のためにもアイスキャンディーを食べておくのは良いだろう。

 

さて、本日はここまで、次回その3では、いよいよライブ編を語ります!

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開催目前! 2018年度 謝楽祭の楽しみ方 その1 ~寄席編~2018年8月23日

今年も謝楽祭の季節がやってくる。詳細はこちら

 

謝楽祭2018 | 一般社団法人 落語協会

 

落語に精通している方でも、さほど落語を知らないという方でも、一日行けば落語にどっぷり浸かれること間違いなしのお祭り。落語協会の主催で、今年は古今亭菊之丞師匠が幹事を務めている。

まずたくさんある見どころのうち、その1では参集殿で行われる謝楽祭について語ろうと思う。まず、10時30分からの第一部のトリは柳家小満ん師匠である。先述した記事の通り、ハードボイルドで粋な落語を味わいたいという初心者の方には是非ともオススメである。

続いて第二部は入船亭扇遊師匠。この人も落語の風を吹かせている粋な人である。割とあっさりめの方で、何よりも口調が良い。朝七さんとはまた違った熟練の口調を是非とも味わってほしい。ニコッと笑った笑顔が素敵すぎるのも一見だ。

第三部は今年の九月に真打昇進が決まった5人の落語家が出演する。中でも古今亭駒治師匠は電車ネタのみならず、様々な爆笑新作を生み出す注目の真打である。この人はなんと言っても口調が凄い。キレッキレのテンポで繰り出される言葉を聴いていると、まさに超特急の電車に乗せられた気分になるし、聴いていて気持ちがいい。古今亭のお家芸ともいうべき口調の良さ、キレ味を是非とも堪能してほしい。

続いては柳家小平太師匠。この人は『リアル権助』と言ってもいいような風貌で、権助という登場人物が出てくる落語を聞いたら、想像しやすいだろうなぁ、という人である。柳家の風格なのかどこか泥臭い品がある。古今亭の品と柳家の品は私の中でなんとなくあって、そういったものを持ち合わせた落語家さんである。声を聴けばとても馴染み安いし、一瞬で田舎に戻ったかのような雰囲気を漂わせている。

柳家勧之助師匠に関しては聴いたことがないので評価できない。

林家たこ蔵師匠は深夜寄席で『鼠穴』をやっていたのが思い出深い。朗らかな顔つきからは想像もできないほどじっくりと演じていた。残念ながら『鼠穴』だけしか聞いたことが無いので、何ともいえないのだが、そのインパクトは半端では無かった。実際、何度か人に騙されて激高したのではないかと思えるくらい、すさまじい迫力で演じていた。現在の林家正蔵師匠のお弟子さんとは思えないほどにシリアスな落語家さんである。

古今亭駒子師匠、この人は評価が難しい。初めて見た時の『薬缶』はかなりトチっていたし、ああ、二つ目さんか、と思ったのが去年、正直真打は先だろうなと思っていたら今年、昇進。なんだ、あんな感じでも真打になれるのかぁ、と思っていたら、『締め込み』を聴いて驚愕。思わず涙腺が緩む。だから、私は何とも駒子師匠を評価しずらい。おそらく全員の真打に共通することだろうけれど、ネタの完成度によって結構評価が分かれてしまう。ただ『締め込み』のネタ一本だけでも十分に真打の風格を携えていたし、何よりも声のトーン、テンポ、言葉の選択が絶妙だった。少しトボけた表情で、笑いに走る派なのか人情に走る派なのか分からないが、概ね人情噺、特に女性が出る話は上手に演じられる人だと思う。駒治師匠ほどのスター性は無いかも知れないけれど、今後に期待したい落語家さんである。

 

さて、思いのほか第三部に費やしてしまったけれど、とにかく謝楽祭寄席は今の芸術協会に興味のある落語初心者にはオススメの寄席である。まずは落語を聞いたことの無い初心者は寄席に行きましょう。

そこから少し落語に興味があり、ある程度落語家さんの顔と名前を覚えた方、また落語は興味ないけど歌とか『のど自慢』や『バンドの演奏』もあるので、それを目当てに行くのも良い。落語家さんがお店を開いて料理や様々なものを提供しているので、目当ての落語家さんを狙って行くのも良い。

では、その2では落語家の出店編について語りたいと思います。

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