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落語は誰にでもできる(?)2018年6月25日

言葉を発することが出来るのは、大人も子供も変わらない。言葉を発することが出来れば、他者との意思の疎通を図ることができる。

他者との意思の疎通を行う上で、大切なことは共通の認識を持つことである。

林檎と言われて黄色くて丸く、齧ると酸っぱいと想像する人はあまりいない。林檎と言えば、赤くて甘くて、ニュートン万有引力の法則を見つけるきっかけになったとか、良く計算問題に使用されるとか、およそ林檎が持つ範囲の意味を誰もが理解している。

落語は特に言葉の選択が非常に重要な演芸である。人々に正しく想像してもらうためには、言葉の話の組み立て、状況説明を行う言葉の順序、適切な言葉をその瞬間、その場に合わせて発しなければならない。聴く者に伝わらなければ落語の芸は上手いということにはならない。さらには言葉のテンポ、抑揚、声色まで混ざってくるから、落語一つを行うにしても、言葉にするとこれだけざっと行わなければならないことがあるのである。

落語は誰にでもできるのか?と問われると、私は「できる」と言う。なぜなら、完璧なコピーでも落語は成立するからである。簡単に落語を誰かに話したいと思えば、まず音源がある。三遊亭金馬三遊亭円生など、一字一句変わらない落語を何度も聴くことができる。音で覚え口で覚えれば、その落語家のリズムというか、言葉の選択順序みたいなものが染みつく。ただし、唯一の欠点は所作、すなわち動作まではコピーできない点である。

落語は裃を切り分ける。右が長屋の隠居ならば左は与太郎というように、登場人物を右と左で振り分けなければならない。ある程度までは声色の違いやセリフによって切り分けることが出来るだろうが、話している時の佇まい、手の動きというものを完璧に覚えることはできない。

もしも動作まで覚えたいのならば、DVDを買って映像を見て覚えるしかない。

残念ながら過去の名人の映像はあまり数が多くないため、全ての話の所作を覚えることは出来ない。だが、現代の落語家であれば多くのDVDが出ているため、気に入った落語家の所作ならば簡単に覚えることができる。

少し成長した子供であれば、そもそも落語と同じようなことをこっそり実践している可能性もある。私なども子供の頃は一人遊びというか、一人で物事を想像するのが好きだった(無論、今でも大好きだが)。知らず知らずに自分で登場人物を振り分けて一人で会話をすることもあった(今思えば、少し病気だったのかも知れないが)

そういう経験から落語を聴くと、なんだか子供時代の延長を見ているような気がしてならない。私以外にもおそらく、頭の中でそういう会話を楽しんだ人はいると思うし、今現在も進行形で楽しんでいると思う。偶像を外部に求めるのではなく、自己の中で完結させるという、まぁ、難しく言う必要はどこにも無いのだけれど、そういった行為を日常的にやっていると、落語に慣れ親しみやすいのではないかと思う。

 

落語は知的だとか、古臭いものだと思われているが、現代の若い人たちにとってはむしろ新しく映るものだと思う。何事もそうだが、本人にとって新しいものとは必ずしも明日誕生したものだとか、今日誕生したものとは限らない。30年前の音楽や、100年前の芸術にしても、本人がそれを初めて発見したならば、それは全く古くはなく、新しいものとなる。夏目漱石太宰治が今でも支持されるのは、過去に生み出されたものであっても、現代人にとっては新しい発見や新しい価値観と出会うことが出来る点にあると思う。

だからこそ、探求心を忘れてはならない。ある一定の時期が来ると「世界の全ては既知のもの」と思う時が必ず来る。この風景、この音楽、この作品、どこかで見たことがあるぞ。このパターンは知ってるぞ。という事態がやってくる。その瞬間に新しいことは古臭くなり、新しいことはどんどん減っていく。やがて世の中のあらゆる物事が「全部見たことある」ものに代わる。そうなってしまうと退屈がやってくる。

では、その退屈を脱却するためにはどうすれば良いか。

新しい物事を探していくか、自ら創造するしかない。

新しい物事を自ら生み出していく。これは、誰にでもできることだ。

その手段の一つが落語でもいい。私はそう思う。