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絵本と哲学と恋愛の混沌~THE 鯉八 Worldを見Chao~2018年7月30日

今日は瀧川鯉八独演会、『ちゃお2』を見てきた。入場と同時になぜかチラシと金平糖を貰える。あくどい作戦が既に入場と同時に始まっているのだなと感じる。ざっと周囲の客層を見ると女性層が圧倒的に多い。

落語家の独演会は寄席とは異質の空間である。寄席が雑多な人々(落語が初めての人、トリ目当ての人、ただ単に来ている人、常連etc)が集まる場だとすれば、落語家の独演会で共通しているのは『独演会のメインである落語家が好き』という一点である。なかなか落語初心者という人は少ないし、ある程度落語の知識がある人間が、落語を聞いていく中で出会い、興味を惹かれて来ている場合が殆どである。故に、独演会は落語を全く知らない人にはオススメできない。仮に自分が大好きな落語家だからと言って、誘った相手の感覚に合うかは分からないからだ。だから独演会に落語初体験として人を誘うというのは結構なギャンブルである。言ってしまえば宗教と同じような感覚を相手に与えかねない。

「私が信奉する教祖様はとても面白い方です。あなたにも是非、その面白さを知って頂きたい」

こういう言葉として受け入れられてもおかしくないのである。だから私は絶対に落語を聞いたことの無い人間に独演会をオススメしない。

さて、以上のことから独演会とは信者の集まりと言っても過言ではない。今回の瀧川鯉八を例にするならば、独演会に来た全員が瀧川鯉八という落語家の芸に魅せられているのである。それが会場を埋め尽くすほどいるのだから、その集客力、注目度の高さは凄まじいものがあるし、今、瀧川鯉八がどのように人々を魅了しているのか、その魅力の根幹を成しているものは何なのか。それらを知る絶好の機会であった。

 

まず、冒頭の独演会入場時の金平糖配り。これは瀧川鯉八ファンなら真っ先に『俺ほめ』を想起させる魔法のアイテムである。金平糖を貰うということは、『俺ほめ』の主人公『まーちゃん』を褒めて納得させた時に初めて叶うことである。詳細は『俺ほめ』を聞いて頂ければよりご理解いただけるとして、想像力豊かな鯉八ファンならば誰もが思う。すなわち、独演会の入場者は意識、無意識はあるにせよ「私は鯉八さんを褒めたお礼として金平糖を頂いたんだ」と理由付けをする。これが鯉八も俺ほめも知らなければ何一つ金平糖に意味は付されない。「何だかよく分からないけど、チラシと一緒に金平糖をもらった」と鯉八落語の初心者ならば思うだろう。

会が始まる前に独演会に来る客の表情、年齢層を私は確認する。これはあくまでも個人的に私が感じたことであるが、恐らくは『ふなっしー』とか『ミッキーマウス』とか、そういう『かわいいマスコットキャラクター』を愛でるような人々が圧倒的に多いように感じられた。適切な形容かは分からないが『ふんわりとやわらかくて癒されるもの』を何となく求めている人が多いような空気が会場にはあった。

会が始まって、前座が出てくる。独演会における前座は殆ど野菜みたいなもので、メインディッシュ前の軽い食べ物と思って頂いて良い。誰もがメインの鯉八を楽しみにしており、「お前に興味ねぇよ」という空気の中でやるというのが常である。よほど上手いと感じさせるものが無ければ玄人は眠るし、お客はただ過ぎるのを待つだけである。こういう場で光り輝ける前座は数少ない。何人かいるが、それは敢えて書かない。

前座が終わり、続いてメインの鯉八が出てくる。空気はすでに作られており、「待ってました!」の声もかかる。完全ホームで鯉八は古典『青菜』をやる。だが、この古典も鯉八ワールドにかかれば全く別の笑いを生む。上手い。鯉八さん自身が自分の空気、間、トーン、言葉の選択、全てを熟知しているが故に『鯉八版 青菜』に見事に成っている。この『鯉八版』と表現できるところに、落語家 瀧川鯉八の個性が発揮されているのである。青菜のストーリーはwikiに任せるとして、同じ筋の話をどう話すか、どう演出するか、そこが落語家の腕の見せ所である。前座は習ったままをやり、二つ目はよりそれを器用にこなし、真打はその人にしか出せない味を出す。売れている芸人は須らく、この『個性』を演出するのが上手い。クラシックと同じである。同じ楽譜であっても演奏者、指揮者によって全く別物になる。

この『鯉八版 青菜』の一席だけでも、どういうスタイルで瀧川鯉八が落語家をやっているのかが明確に分かる。これは同じ『青菜』という落語を何パターンも別の落語家で聞かなければ知ることのできないことである。落語の楽しみの一つ、『同じ話を色んな落語家で聞く』という醍醐味を改めて実感する。そのうえで、好きか、嫌いかで言えば、好きという結論に至る。

一旦袖に下がって、次に出てきたのはゲストの桂南なん師匠。インパクトのある見た目に思わず「お前、何なん?」と大阪の人は思うだろう。独特なフラを持った人で、落語家じゃなかったら田舎の泥酔ジジイになっていただろうと思えるほどの人である。この人がまた面白い。やはり真打、南なんにしかできない『夢の酒』だった。特に女形を演じる時は落語家の個性が如実に表れる。どういう風に女性を捉えていて、どういう風に表現するか、その振れ幅が実に面白い。見た目からしてちょっと貧乏そうというのも後押しして、貧しい女性とその旦那という構図が見えてくる。ところが夢に出てくる美人となるとあまり明確に想像することが出来ない。南なん師匠の顔で美人をやられても、ちょっとと思って目をつぶり、必死に想像するとぼんやりと美人が浮かんでくる。滑稽話より怪談話の方が引き立ちそうだと思いつつも、『夢の酒』を堪能する。このあたりの話が上手い落語家と言えば私としては、入船亭扇遊師匠や入船亭扇辰師匠である。

南なん師匠が下がって、仲入り後に再び瀧川鯉八による二席、いずれも私は初めて聞く話で『かくあるべし』と『ワレワレハ』。『かくあるべし』を聞いた時に、何となく鯉八さんの創作の対象というか、どういうものを題材に選んでいるかが何となく推察できる。主に『男女間の恋愛』を時に哲学的に、面白おかしく絵本のように表現する。それが鯉八ワールドなのではないかと私は考える。

下手をすれば重くなりがち、深く考え過ぎがち、落語に一段階知的さを足した感じになりがちな話を、時にやわらかな雰囲気と、絵本的なほんわかとした語り口で表現する。話が終わった後で、「あの言葉の真意はなんだったのか」、「なぜ登場人物は互いにあのような言葉を交わしたのか」、「我々が想像しているものとは、一体なんだったのか?」と考えさせられるような話を鯉八さんは話す。どこまで意識的なのかは分からないが、数々のエピソードを凝縮させて鯉八という『ふんわり、やわらか、ときに鋭い』というフィルターを通すことによって落語として成立させている。落語が経験と知性に裏打ちされた、『物知りな爺ちゃんの知恵袋的な話』だとすれば、鯉八さんの落語は『考えたけど分からなくて、でもなんだかグッときたことを、考えた過程を含めてまるっと表現する』感じである。まだ上手く表現できないのは、鯉八さんのワールドを表現する言葉を私がまだ得ていないからだと思う。

唯一、今日は絵本とか、哲学とか、恋愛とか、そういう単語はおそらく入っているだろうなと言うことと、それが全てごちゃまぜになって混沌になっているということである。鯉八さんの開口一番の挨拶が『Chao!』であるという部分が味噌である。それに続く話の多くは『Chaos』、すなわち混沌なのだと思う。

こんなことを書くと非常に穿っていると思われるかもしれないが、鯉八さんは天然な落語家ではない。意図してあの雰囲気を作り出していると私は感じる。自己プロデュース力とでも言おうか、そういった雰囲気を私は感じている。だが、そんなことを感じる感じないにしても、とにかく瀧川鯉八さんの持つ雰囲気、間、そしてトーンと言葉の選択。どれもが誰にも真似できないものである。何かに似ていると思って見ていたのだが、『知性あるくまのプーさん』が一番近い気がする。

なにはともあれ、まだまだ鯉八さんのワールドの膨張はとどまるところを知らない。そんな勢いを感じた独演会だった。

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