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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

紅葉の中で思うこと 2018年11月13日

今週のお題「紅葉」

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お前が望むものなど ここには残ってないよ

 

君の涙が忘れられない 初恋に捧げるナンバー

 

自分でさえも欺く 心は残ってないよ

 

秋になれば、きっとまた会えますから 

紅葉は我が心の細枝に火を灯す。可能性に満ち溢れた思慮深い深緑から、燃え立つような勇ましい紅を纏い、どこからともなく吹く風に身を委ねて葉を舞い上がらせる。

秋は、高貴なる炎をその身に宿した木の枝に姿を現して、見る者の心に郷愁と強い信念を与える。

私は紺色のロングコートを羽織り、首からは一眼レフカメラを掛けて、京都の街を散策しながら、京都を染める紅葉の有様を見て考えに耽っていた。早朝の静けさの中にあって、大地へと射し込む陽光は穏やかでありながらも強く、陽光を浴びて気持ちよさそうに空へと伸びる木々を眺めていると、静かだが力強い生命の息吹を私は感じた。

私は空へと伸びる木々の枝を眺めるのが好きだ。一見すれば、規則性はなく無作為なように見えるが、どこかに人間の理解を超えた木々の成長の意志を感じるからだ。日の光を浴びるために向日葵が葉の向きを変えるように、朝には葉を開き昼には葉を閉じる朝顔のように、木々の枝にもまたそのような意志を私は感じる。

訪れた寺の名は『神護寺』。約400段あるという階段を上って寺の周りを歩いていると、風景の全てに燃えるような紅葉がある。日頃演芸に触れていると、それは巨大な緋毛氈にも見えてくる。確かシャーロック・ホームズに『緋色の研究』という話があったなと思いながら、私は私自身の『緋色の研究』を探していた。

旅に出るときはいつも、友人達には洒落で「言葉を探しに行く」と気取っていた。まだ見たことの無い景色、経験したことのない体験に出会った時に、私はどんな言葉でそれを認め、理解するのか興味があった。その時に生まれてくる言葉は、その体験と環境の中にあってこそ生まれるものだという考えがあって、洒落ではあるが本気で、私は『言葉を探す旅』をしていたのだった。

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目にも彩な風景の中で、私はただその風景の中に溶け込むことも出来ず、何かを見出そうとして言葉を探した。僅かに残る緑の葉を見ていると、紅く染まる葉の前で恥ずかしそうにしているように見えてくる。着飾って派手に舞を踊るかのような木々に囲まれ、幼く静かに緑を携えている木は、まだ未知な世界へと飛ぶことに恥じらいを持つ小さな少女の姿に見えた。

薄青いガラスのような空に物言わず揺蕩う雲の姿を見ていると、大地に根を生やし空へと伸びて行く木々達の色の移り変わりを、一体どのように思っているのだろうと考え、ただ無垢で、どこから生まれたか分からず、どこへ行くかもわからずに漂う雲の寂しさが青い空に染み込んで、薄く薄く伸ばされているかのようだ。風は肌に溶け込もうとするかのように、冷たくて寂しくて儚いけれど愛おしい温度を保ってどこかへ流れて行く。景色は語らず、私だけがただ一人、自らの言葉で紅葉と戯れていた。

ふいに、『初恋の嵐』というバンドがいたことを思い出す。きっかけは、The Birthdayというバンドのボーカル、チバユウスケが雑誌のインタビューで「あのさ、初恋の嵐の、『真夏の夜の事』って曲、何回聞いてもいいんだよ。コード進行が不思議でさ、凄くいいんだ」というようなことを言っていて、それで気になってCDショップへ行ったという思い出がある。

ボーカルの西山達郎さんは、急性心不全により25歳の若さでこの世を去っている。その年齢を超えた自分は、この世界に何を残しているのか、この世界に何を残すことが出来るのか、自問自答しながら日々を生きているが、答えは見つからなかった。

紅葉には、私に一瞬の煌めきの儚さを感じさせるだけの力があった。類まれなる才能を持ちながら、若くしてこの世界から去っていった者を思う時、何とも言えない悔しさと無念な思いがやってきて、それ以上考えることを止めなければ、いつまでも自分の心を苦しめる事態になってしまうので、もどかしくてならない。

演芸の世界においても、将来を期待された芸人が不慮の事故や病によってこの世を去っていくということが往々にして起こる。将来の大名人と立川談志も太鼓判を押した落語家、古今亭右朝師匠がそうだ。

右朝師匠の口跡は師匠の志ん朝譲りで畳み掛けるようなリズム。中音が響いて張りのある声質。何をやっても優しさと人情味が溢れる語り口。落語を聞けば気持ち良くて温かくて、江戸の風を纏った立派な落語家さんだった。残念ながら生の高座を拝見したことはなく、CD化された音源でしか聞いたことがない。厩火事幇間腹が非常に面白くて、生きていたら間違いなく名人と呼ばれていたであろう落語家さんである。

紅葉が私に垣間見せた姿は、そんな二人の姿だった。

西山さんは唯一無二の声と、他の人には無い言語感覚を持っている人だと私は思っている。『Untitled』という曲や『真夏の夜の事』の歌詞を見ると、現代の感覚の隙間を縫って、研ぎ澄まされた言葉が豊富に詰まっている。その言葉たちが、西山さんの声を通して発せられ、ギターやベース、ドラムの音に混じり合うと、言いようの無い儚さと真実を突き付けられているような、そんな不思議な楽曲が出来上がるのである。

音も無く、ただ葉の色を変えるだけの木々の姿を眺めていると、それが無数に連なり、群れることによって、山の色合いを変えていることに気づく。誰に言われることもなく、ゆっくりとその葉の色を変えて、やがては全ての色を変える様を見ていると、強い意志を持ってそれまでの色を変えようとする何かの意志を感じた。

講談の世界にも、一つの強い意志を持って、それまでの講談の色を塗り替えようとする一人の男がいる。名を、神田松之丞。消えて行く芸だと言われた講談を100年ぶりに蘇らせた講談師と言われている。その小さな火は、今、大きな炎となって講談界を盛り上げている。

緑色の葉がなぜ紅色に色を変えるようになったのか、理由を私は知らない。研究者の方であれば理論的に葉が色を変えることを説明できると思うのだが、私は何か一つの木々もしくは葉が、人間と同じように「変えたい」もしくは「変わりたい」と願ったのではないだろうかと、そんな思いを抱いてしまうのである。

景色が移り変わらなければ、人はどんな気持ちになるのだろうか。ずっと冬の時期、ずっと夏の時期だったとしたら、どんな気持ちになるのだろうか。私は憂鬱なのではないかと思う。一年中冬だったとしたら、芽吹く花も限られ、動物の数も限られ、ありとあらゆるものが冬という制約の中で生きることになる。それではなんだか寂しいではないか。季節は移り変わるように、人の世もまた移り変わる。季節は春夏秋冬という規則性を持ったが、人の世には未だ規則性のある移り変わりは判断ができない。いつか、人の世も季節のように、規則性を持った変化を獲得するのだろうか。

 

 

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ぼんやりと散歩をしていると、ふいに訪れた竹藪に驚く。目に映えて派手な紅葉とは対照的に、竹はすっと空へ伸びて緊張感がある。少し怖さを感じるが、景色の中で一つの頑なな意志を感じた。色を変える紅葉の柔軟性とは対照的に、伝統を守る誇りを私は連なる竹に感じたのだった。竹を割れば中からかぐや姫が出てくるというような幻想的な空気はなく、判然としていて整った様子の竹を見ていると、その清廉さに背筋が伸びる。竹を割ったような性格という言葉にもあるように、割られる前の竹には頑固で静かな佇まいを感じさせ、それが割られるとさっぱりして感じられるのは、画像のように高く伸びた竹の全てをバッサバッサと割っていった後の風景は、さぞさっぱりしているであろうと思うからである。

 

景色の色合いを眺めながら、私は結局まだ言葉を見つけられずにいる。もっと、その時の感情を表せる言葉が知りたいものである。

もっと、努力が必要ですね。

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誇りと伝統の伝承、或いは言火の移しの美しさ~2018年11月11日 渋谷らくご 春風亭昇羊 林家彦いち 古今亭志ん五 神田松之丞~

 

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松之丞さんはね、負けず嫌いなんですよ

 

池袋演芸場、18時あがり、、、んっ!?

 

小顔になりたいなぁ。

 

今日は芝居のお話を申し上げたいなぁ、なんて

 

おめでたい一席で、シブラク四周年、トリを取らせて頂きました

午前10時5分前、私はPC画面に三画面ウインドウを開いてマウスをひっしと握っている。一瞬たりとも時刻に狂いが無いことを確認し、刻一刻と迫るAM10:00に向けて神経を研ぎ澄ませる。真景累ヶ淵。じっとログイン画面をクリックしつつ、まだ受付中か、よし、まだ繋がるな、よし、ここの通し券のボタンだな、よし、よし、よし。

なぜ私は必死になっているのか。それは神田松之丞さんの新春連続読み、『慶安太平記』の通し公演のチケットがあるからである。そのチケットを得るために朝練講談会を犠牲にし、昼の落語会も犠牲にして椅子に腰かけ、卍巴と荒れ狂う精神を宥めながら、ログインして、この位置にあるボタンをクリックし、座席を指定して、買う。というシミュレーションを脳内で繰り返す。午前10時1分前。呼吸を止める。いや、それでは死ぬから呼吸をする。10時10秒前、呼吸を止める。いや、呼吸を止める必要無いから吸う。気管に入って咽る。呼吸を止めて1秒、私は真剣な目をしながら、そこから何も聞こえなくなって、星屑ロンリネス。

 

1クリック

エラー

1クリック

大変込み合っております。

1クリック

通った!

あ、この席無い・・・

あ、この席も無い・・・

え、うそ、通し公演じゃないボタン押しちゃった!

あ、あ、あ、あああああ!!!!

 

確保~

 

もはや出産に立ち会った助産師ばりの安堵感に包まれ、即座に発券。無事、通し公演のチケットを購入することが出来た。どっと疲れがやってきたので、そのまま眠ってしまった。というわけで、通し公演レポが決定いたしました!

 

目を覚ます。外より部屋の中が寒く感じるという異常事態。まさか、夢じゃないだろうな。と思いつつ机の上を確認。ちゃんとある、五枚のチケット。よし、よし、よし。ムツゴロウさん並みの愛らしさでチケットを愛でて棚にしまうと、私はいつものセットをして家を出る。今日は随分前から楽しみにしていた、シブラクで松之丞さんがトリを取る公演だ。

もはや金曜日の時点で、これ以上無い完璧なシブラクに出会っており、文菊師匠の心眼の余韻を笑遊師匠で断ち切って(失礼!)、迎えた日曜日である。既に『慶安太平記』が確定したので安堵していたが、一体どんな演目をやるのか楽しみだった。

正直に言えば、前回のトリでやった『神崎の詫び証文』は本調子では無かったというのが私の感想である。それはブログにも書いていることなので、改めて言う必要も無いが、本調子の松之丞さんの名刀村正のような切れ味鋭い高座が見れるかどうか、一期一会の高座を楽しみに渋谷へとぷらぷら散歩しつつ、向かった。

渋谷という街については、あまり良い印象を持っていない。ことさらにどこがどう悪いと書くつもりはないので、さらっと書くことにする。

JRの改札を降りて、岡本太郎作『明日の神話』を左手に見つつ、階段を上がってさらに真っすぐ進む。スターバックスや美登里などの店を横目にどんどん前へと進むと、道玄坂に出る。潰れたセブンイレブンの脇を通って路地に入ると、少し大人のムードを漂わせたホテルが幾つかあって、英語の勉強には持って来いかも知れない。TSUTAYAO-EAST?を右に見て坂を下ると、見えてきたのはユーロスペース。最初に来た頃は地図に惑わされて苦労したものだと来るたびに思う。すぐ脇のカフェ?で倉持由香さんと鈴木咲さんという女優?アイドル?が生誕祭なるものをやっている様子。こちとらピチピチ女子より脂ぎってるテカテカ男子じゃい、と、いらぬ負けん気を発揮しながら会場入り。

まず驚いたのは人の量である。一時期は本当に黒山の人だかりで大変だったのだが、どうやらその狂乱期は抜けて落ち着いた様子である。それでも物凄い人達がひしめきあっている。見れば、若い女性が多い。しかも美人。着物を着た何とも美しい佇まいの女性から、教養とファッションセンスと美貌を兼ね備えた女性まで、マダム感は無いが初々しさのある方々が多い。丁度三割くらいは若くて綺麗な女性。もう三割も落語好きな美しいご婦人方、一割常連で、二割落語が好きそうなキリリとした紳士、一割若い男子という感じである。あくまでも私の客層判断ですので、ご了承ください。

番号が呼ばれ、黒山の人だかりがぞろぞろと会場に流れるように入っていく。さながらマリモを瓶から瓶に移していくかのような様子。会場には二つ目でトリを取った人の写真が飾られており、撮影者は武藤奈緒美さんという方だという。どれも活き活きとしたものから、なぜそれを選んだ!?というものまで多種多様である。個人的には松之丞さんと小痴楽さんの写真が気に入っている。

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壁にはこれまでのシブラクに関する感想ツイートがA4の紙に印刷され、びっしりと貼られている。僭越ながら、私のツイートも発見。これを見てブログを読んでくれている方がいたら嬉しい限りである。

番号が呼ばれ、会場入り。映画館のような構造で、最初に行くと少しびっくりするかも知れない。特に寄席に慣れていた私は真っ赤なふかふかの椅子にまずびっくりした。何とも奇抜である。前三列か五列くらいは落ち着いた深い赤色なので、寄席好きはそこに座ると何となく気分が落ち着く。

着座してざっと辺りを見回す。やはり圧倒的に女性率が高い。演者のバラエティが豊かだから、色んな美人が集まるのは当然である。春風亭昇太一門は一部を除いてイケメン集団である。これはもう昇吾ないこと、おっと、しょうがないことである。結婚して順風満帆の麗しいイケメン、春風亭昇羊さんのファンは美人に決まっているし、薄、ならぬ臼顔の彦いち師匠だってプロレス好き女子(プ女)や、相撲好き女子(スー女)のような美人にモテるだろうし、志ん五師匠は田舎のぽちゃっとした女子ウケよさそうだし、チンピラ松之丞さんは金髪のイケイケギャルにモテそうだし、と、勝手な偏見と想像を膨らませながら、開演を待つ。通路にも座布団が敷かれ、お客様も大入り満員。キャパ178席にびっしりとお客様が埋め尽くされているのだから、これが映画上映ならば『トラック野郎 御意見無用』や『タイタニック』並みの大作上映である。

いつものようにキュレーターのサンキュータツオさんが場内の諸注意を伝え、次回公演等の見どころを紹介して舞台に去っていく。最初に言って置きたいのだが、アラーム付き時計も止めてほしいと思う。丁度19時くらいで松之丞さんの演目中に「ピピッ」と鳴った。私は一生恨む。嘘、今後は気を付けてください。

さて、出囃子が鳴って舞台の左上部に開口一番の演者の文字。

 

春風亭昇羊『そば清』(そばきよ、じゃなくて、そばせい)

少しくの字に曲がった角度で頭を斜に構えながら登場。着座と同時にマクラで松之丞さんの話題。さすがに空気感から『松之丞を待ってます感』を感じ取る。ご常連の松之丞ファンのご婦人もいらっしゃるし、そういう意味では非常にわかりやすい空気感。若干アウェーの空気はあるかも知れないが、松之丞さんをマクラに入れることですんなりと溶け込む。内容と言えば、結局反撃のようなクサしマクラだった。でも、愛があって素敵である。最後には「松之丞さんは負けず嫌いでストイック」とさらりと褒める。こういうクサされつつも、愛のあるクサしで返すところが、昇羊さんの後輩としてのすばらしさを引き立たせていると思う。色々と発言をしていたが、まだ松之丞さんが来ていないということで、来ていたらもっと面白くなっていたかも知れないと思うが、そんなことは露とも知らない松之丞さんも良かったので良し。

そば清は蕎麦を大量に食って家を三軒立てる清兵衛さんが主役。なんと言っても見どころは蕎麦を食べる所作だろう。私は春風亭昇太師匠の『時そば』を見たことがある。その食べ方と全く同じ食べ方を昇羊さんはされていた。ああ、やっぱり昇太さんに習って、昇太さんの芸を受け継いでいるんだなぁと思った。今日の回に通底していたのは『伝承』だったと思う。そんな僅かな伏線が既に、昇羊さんから始まっていたのだ。

蕎麦の全景を見ながら、蕎麦つゆを付け、蕎麦つゆの入っている椀を下ろすような所作で蕎麦を啜る。実に規則的な美しい所作で、きちんと背筋が伸びていて本物の蕎麦食いの所作である。基本的に蕎麦の長さは背筋をピンっと伸ばし、箸で掴んで胸辺りまで持ってくると、丁度蕎麦の端から端まで見ることができ、蕎麦つゆに付けやすい長さになっている。『そばもん』という漫画で読んだことなので正しいと思う。私は蕎麦は毛嫌いしていたのだが、今や馴染みになった蕎麦屋の味に惚れ、本格的な蕎麦好きになった経緯がある。そんな蕎麦好きに、『そばもん』はオススメである。

蕎麦を食う所作は多少大げさかも知れない。でも、少し大きな所作であることで、蕎麦を食っている様子が分かりやすくなる。まして大ホールともなると、後ろのお客様には小さい動きでは分かりずらい。私はその辺りを昇太師匠から学んでいるのだと思った。昇太師匠の『時そば』はかなり細くて長いイメージがある。是非一度、昇太師匠の『時そば』に出会ってほしいと思う。これぞ、昇太師匠の工夫の現れだときっと思うはずである。

実に見事な蕎麦の食べっぷりに思わず会場中が「早く蕎麦食べないかな」という空気に包まれる。テンポ良く進み、蛇が出てくるあたりの描写は短く的確で素晴らしい。限界まで食べた清兵衛さんの様子は見てるこっちも吐き気を催すくらいに見事だったし、オチも綺麗に決まった。さすが昇太一門である。確かなスキルを持っている。でも、まだまだ昇太師匠の影響が声やトーンやテンポ、所作にも垣間見えるから、今後どんな個性を獲得していくのか、楽しみでならない。

すっと舞台袖に下がって、お次は二番手

 

林家彦いち『反対俥』

だあっと高座に駆け上がったのは彦いち師匠。がっちりとした体格と強面の表情でありながら、マクラの話題は台所おさん師匠。私もTwitterで見て驚愕していたのだが、鈴本演芸場の千秋楽でおさん師匠が新作『プリン付き』をやった時の様子をドキュメンタリータッチで話題にする。まさかまさかの新作でトリ公演を終えたということで、昨日の様子を教えて頂いてとても嬉しかった。と同時に、台所おさん師匠、未知数過ぎる(笑)どういう心境だったんでしょうか。と思いつつ、彦いち師匠も自身の初日にシブラクでやった『つばさ』を掛けていたので、どこか共通する点があるのかも知れない。

柳家小三治師匠に次ぐ長いマクラが幕を開け、ドキュメンタリーな語りで会場を巻き込む彦いち師匠。時間は確認していなかったが、どうやらシブラクの後に池袋と末廣で高座があるらしいのだが、どう考えても間に合わない時刻に高座があるという。その無茶苦茶さもさることながら、勢いで突破する彦いち師匠のワイルドさがかっこいい。飛行機の話もドキュメンタリータッチで会場を巻き込む。いつの間にかするりと『反対俥』に入る。ここでも所作が凄い。俥をひく俥夫の様子も見事。夢花師匠のスーパーアクロバットな俥夫よろしく、物凄い大ジャンプと駆け足っぷりで、豪快な反対俥を披露する。オチは見事にマクラと繋げ、高座を物凄い勢いで去っていく。エンターテイナーだなぁと思いながら、その勢いと中立感が素敵である。普通はなかなか二つ目トリに顔付けされても嬉しいものではないと思うが、見事に会場を包み込む。決して松之丞さんを褒めるような発言をせず、ただただ自分の役目を全うする姿は、もう優秀な兵士そのものであると思う。どの亭号の会にあっても重宝されるのは、そういうお人柄もあるのではないかと思う。真っすぐで、力強くて、面白い。素敵な鬼軍曹の熱い一席でインターバル。

 

古今亭志ん五甲府い』

整形の話から、小平太師匠の顔ハメパネルの話題になり、コーヒー一杯でいいですよ。とマクラを振ってから、お馴染み『ひもじさと 寒さと恋とを比ぶれば 恥ずかしながら ひもじさが先』と言って、『甲府い』へ。

文菊師匠の感涙の人情噺と比べると、志ん五師匠は滑稽に寄っている印象。豆腐屋の旦那の人柄は、文菊師匠がやると老舗の高級豆腐屋の亭主という感じだが、志ん五師匠の豆腐屋は商店街の豆腐屋という印象である。特にひもじさからオカラに手を出す善吉に掛ける言葉の優しさの印象がまるで違う。旦那の言葉遣いが文菊師匠の演じ方は優しさに溢れていたのだが、志ん五師匠のは少しぞんざいであまり私としては好ましい感じではなかった。どんな事情でオカラに手を出したか分からない相手に対して、配慮の無い印象を受けた。善吉のひもじさも、旦那の様子や脇を固めるご婦人方も、所作も、やはりどうしても私としては文菊師匠の『甲府い』に感動してしまっており、正常な判断が出来ないと思っている。生粋の古典派と新作もやる古典派では、その差は歴然だと私は思っている。ちょっと厳しい意見になってしまうが、志ん五師匠に抱く印象はおおよそそんな感じである。

オチの後でにっこりと去っていく志ん五師匠。トリはお待ちかね。

 

神田松之丞『淀五郎』

少し猫背気味でのっそりと舞台袖から登場する様はThe 松之丞という感じで、飄々としていながら安定の話芸を披露するオーラが既に漂っている。迎える観客も気持ちが溢れて『待ってました!』と声が上がる。男性とご常連のご婦人。私は思う。いや、敢えて書くのは止す。

釈台を前に座布団に座ると、早々に眼鏡を外して辺りを見ながらマクラは山形の公演の様子。携帯が鳴っても苛々しないムードだったと語り、栃木も良かったと語り、東京で携帯鳴るとイラつくという話題で爆笑が起こる。会場の特に前列はほぼ生粋の松之丞ファンだったと言えるくらいに、爆笑の連続。翻って後方の客層はそれほど笑ってはいなかった。前列の常連、後列の初心者、中列の落語ファンという構えで、個人的には中列にこそ生粋の落語・講談ファンが潜んでいると思っている。

「芝居のお話を申し上げようかな」と発言したところで、私は「むむ、中村仲蔵かな?」と思いきや、演目は『淀五郎』。痺れる話が来たぞと思ってじっと構えて松之丞さんの話に聞き入る。

何度見ても驚愕なのは所作、声、そして間である。淀五郎が座頭の市川團蔵に抜擢指名され、浮かれた様子で舞台に上がり演じる様子がありありと目に浮かぶ。淀五郎の心情よりもむしろ淀五郎の浮かれた演技に腹を立てる脇役達の言葉、表情、間が凄まじく、外堀を埋めることで中心が引き立つという手法が実に見事。仮名手本忠臣蔵の四段目の説明や、歌舞伎の役者の階級を流暢に並べるような口調は見事。全体を通して笑い成分は少なめで、ぐっと真剣味の増した話である。

特に淀五郎が塩冶判官の役を与えられ、切腹するシーン。「お前のは腹を切る真似をしているだけだ」と言われ、大星由良助が切腹の場に来ないという酷い仕打ち。こんな屈辱を大勢の観客の眼前に晒し、困惑する淀五郎の姿が可哀想でならない。

これは、芸に携わる者全てに相通ずる痛みだと私は思っている。自分でも予期せぬ幸運から良き人に芸が評価される。思わず浮足立って「俺の芸は凄いんだ!認めてもらえるんだ!」と調子に乗っているうちに、芸の粗削りさを周りに疎まれたり、蔑まれて、気が付くと周りには応援してくれる者が無く、自分の芸にさえ疑問を抱き、やがては芸そのものから離れる決心をしてしまう。そんな、芸能の世界に突如として放り込まれた若き才能が潰える瞬間が、淀五郎の舞台でのしくじりに共通していると私は思った。

これは何も芸に限ったことではない。人はそれぞれ自分だけの力を持っている。それが思わぬところで評判になり、認めてくれる人が出てきて、少しだけホッとして浮足立つ。そんな時ほど、自分の力というものは過信しがちなのだ。かく言う私にだって、自分の力を慢心することも、したこともある。過ぎたるは及ばざるが如し。及ばざるは過ぎたるより勝りし、と、勝って兜の緒を締めるという言葉にもあるように、誰かから大きな期待や評価を受けている時ほど、自らの力を過信せず、必死に研鑽を積み重ねていかなければならない。

恐らく、私は松之丞さんはそれを誰よりも理解していると思っている。松之丞フィーバーと呼ばれるほど活気があり、講談を蘇らせた講談師という言葉に惑わされず、ただただ11年、講談の世界に身を投じ、言葉を組(冓)み、言葉の炎を燃やし続けてきた講談師、それが神田松之丞さんだと私は思っている。この辺りの話、対談させてもらえませんかね、偉い人(笑)

だからこそ、淀五郎の姿にはどうしても松之丞さんを重ねて見てしまうし、芸に携わった全ての人々の姿を見てしまうのだ。鼻っ柱を折られる淀五郎の姿は痛切に苦しく胸に迫ってくる。「お前の切腹は腹を切る真似」、「本物の刀を持って舞台に出ろ、そこで腹を斬れ。お前みたいな腹を切る真似しかできない役者は、本当に腹を切って死んだ方がマシだ」と名題に抜擢した市川團蔵に言われる淀五郎の気持ち。これは苦しくて悲しすぎる。実の親から「お前を生んだのは間違いだった」と言われるくらいの、大きすぎる絶望が淀五郎の全身を圧し潰そうとする発言である。考えてみれば、淀五郎を抜擢した市川團蔵にも役者としての誇りがあったし、それは周りの役者にもあったのだ。それを厳しい言葉で、決して悟られることなく真っすぐに淀五郎に伝える。きっと淀五郎に「本当に腹を切って死ね」と言った市川團蔵だって、心中は苦しかったはずである。本当に淀五郎が死んでしまったら、悲しみのあまり自ら命を絶ってしまったかもしれない。それくらいの強固な意志と覚悟で市川團蔵は言ったのだと思う。でも、それを決して表に出さず、本気で「死ね」と言っているような語りをする松之丞さんの語りが素晴らしい。きっと会場の誰もが思ったであろう。淀五郎、頑張れ、と。

伝統芸能の世界は厳しい。でも、そこには必ず愛があるのだ。獅子が子を千尋の谷に落とすと言う言葉通り。伝統芸能には役者の誇りと意志があるように私は思った。

芸の世界から身を引こうと死まで決意した淀五郎。一体この話のどこに救いがあるのだろうか。何度舞台に上がっても周りの楽屋雀から馬鹿にされ、観客にまで悟られるほどの無様な醜態を晒し、自分に良い役を与えてくれた師にも見放され、死ぬ為に旅に出ようと決意する淀五郎の気持ちが痛いほど胸に伝わってくる。

 

そんなとき、淀五郎を救うのは、堺屋、中村座の名役者だ。

 

パッと僅かな光が射したかのような素振りで、淀五郎は「この芝居は、中村座だ・・・」と思い詰めた様子で口にするシーンがある。そして、中村座の名役者の経緯を知る淀五郎は老齢となった中村座の名役者の元へ行く。

歴代の名役者の系譜を持たず、血の無い役者と周りから疎まれ、せっかく貰った役に憤りながらも、役を与えてくれた師の思いを汲み、悔しさと試行錯誤と、誰よりも芸を愛する気持ちで、一心に芸の工夫に心血を注ぎ、見事、相中から名題になった後世に名を残す名役者。その名こそ、

 

中村仲蔵、その人である。

 

信じた芸の道で、これ以上無いほどの恥をかき、自らの芸を捨て死を選ぶ淀五郎が、血の無い役者と馬鹿にされながらも、誰よりも芸に心血を注いだ中村仲蔵に暇乞いに行くシーン。このドラマチックな出会い、そして中村仲蔵名題になった経緯を知っているだけに、淀五郎が中村仲蔵と出会うというくだりで涙が零れ始めた。ああ、良かった。本当に良かったなぁ、淀五郎さん。と思うと同時に、同じように苦労を積み重ね、もはや名人となった老齢の中村仲蔵の姿が見えて感動した。余談だが、講談の楽しみの一つとして、別の話で主役になっていた者が、また別の話では重要な脇役になっていることがある。義士伝にしろ、寛永馬術宮本武蔵伝など、様々な物語が時を同じくして交差するシーン。これは一度味わってしまうと止められないと思う。もしも松之丞さんの中村仲蔵を聞いたことが無い人は、是非聴いて欲しい。そして、改めて淀五郎を聞くと、最初に聴いた淀五郎以上の感動が押し寄せてくるはずである。

そして、松之丞さんの語りのリズム。穏やかな仲蔵の口跡。思わず松鯉先生のお姿と重なって涙がどんどん溢れてきた。中村仲蔵は恥をかき、畜生、畜生と思いながらも工夫で持って名題になった。今、自分と同じように恥をかき、死を決意する淀五郎を見て、放っておけない気持ちになったのだろう。その仲蔵の優しさ、淀五郎の苦しみを共に分かち合おうとする姿。松之丞さんの優しい声と、穏やかなリズムと間。戸惑いながらも、仲蔵に教えられ、自分の芸に目覚める淀五郎の姿。ああ、良かった。本当に良かったねぇ、淀五郎。と思って、もう泣くしかない展開である。

そして、これも芸能に携わる人間に共通することだが、中村仲蔵のように、若い頃は恥をかいて、恥をかいて、恥をかきつづけて、名役者と呼ばれるようになった人々がいる。芸を志す者の中で、淀五郎に出てくる中村仲蔵は、芸の道を貫いてきた理想の芸人の姿だと私は思う。

「恥をかいて、それで立派になるんだ」

「死んだら駄目だよ、それじゃあ今まで勤めてきた役者達に申し訳が立たないだろう」

「淀さん、また明日、頑張ればいいよ」

もうこの辺りの中村仲蔵の言葉が、次々に胸に迫ってきて、正直筋を追うどころではなかった。温かいおじいちゃんの言葉が素敵すぎた。マクラと繋がっていたのかも知れないけど、お年をめした方の含蓄のある言葉というのは、本当にありとあらゆる些細なことを吹き飛ばすほどのパワーがあると思う。

『淀五郎』という演目の凄み、『中村仲蔵』の在りし日の姿。これは二つセットにすることで、物凄い相乗効果を生む。今日それがはっきりと分かった。だから思わず物販で講談入門を購入してしまった。その位の力があった。

話を戻そう。中村仲蔵の教えを受け、芸に開眼する淀五郎。徹夜で稽古をして舞台に上がり、素晴らしい塩冶判官を披露する。大星由良助を演じる役者も舞台にやってきて、最後はお馴染みの「待ちかねた」。色んな思いの付された「待ちかねた」という言葉に、会場にいた誰もがほっと胸を下ろしたに違いない。

これから出世の道を歩んでいく淀五郎。素敵なおめでたい噺でシブラク四周年のトリを松之丞さんは飾った。

私には、淀五郎と中村仲蔵の間で確かに受け継がれた伝統と誇りを感じた。二人の役者のやりとりは、まるで松明に灯る火を移すようだった。言葉と所作で、その火を移す中村仲蔵。その火を受け取って強い炎とするために努力する淀五郎。その美しき言葉の火を移す様。まさに名優は名優を生むという言葉通りに、中村仲蔵の誇りと伝統を受け継ぎ、立派な役者になった淀五郎。きっと松之丞さんも同じである。松鯉先生から受け継いだ火を、今まさに大勢の観客の前で燃やしているのだから。

 

終演後、痺れる体。放心状態で震える体を何とか起こして物販に行き、本を買って外に出た。駅まで帰る道中、芸に携わる者の美しさと厳しさを考えながら、私はじっと来週のことに思いを馳せた。

本当に素敵な土日だった。ここ最近というか、二年くらいずっと、怖いくらいに幸福である。今週は、金曜日に文菊師匠の『心眼』でド真面目モードになり、笑遊師匠の独演会で『わけわかんないけど楽しい状態』になり、松之丞さんの『淀五郎』で『伝統芸能の誇りと美しさ』に触れた三日間になった。

もうね、誰か一緒に語りません?おじいちゃんばりのくどくて長い話しかしないかも知れませんが、そんな気分になってきました。

さて、来週もね。実は凄いんですよ。もう一部には身バレしてますけどね。

あなたにもいつか、素敵な演芸の出会いがありますように。

願いつつ、願いつつ、今日は問わず語りを聞いて寝ます。

それでは、また来週。さよなら、さよなら、さよなら。

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森羅万象を爆笑変換してShow You~2018年11月10日 お江戸上野広小路亭 三遊亭笑遊独演会~

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良いとこ住んでるねぇ。

 

白湯を飲めぇええ!!!!!!!

 

麩を入れろぉおおお~

私の内心(これ、饅頭怖いにどう繋がるんだろ・・・)

 

食欲はありますか?

はい、おかずによりますが

土曜日の朝は基本的に読書と洗濯物をごいんごいん(かなり気に入っている)することに決めている。相変わらず降るんだか降らないんだかはっきりしない雨。生粋の晴れ男である私にとっては、例え雨だろうが晴れであるという良く分からない理屈を無理やり押し通し、ぼんやりと午前中を過ごす。Amazon(密林の僻地ではない)で注文していた中国(飲み物ではない)からの配達物(尻から出るものではない)を受けとる。眼鏡をしていなかったので、ちゃんとサインが書けたか確認できなかったが、とりあえず配達員さんが渡してくれた。透明なプラスチック製のカバーで、10月初旬に発売されたウォークマンを守るためのカバーである。ウォークマンには基本的に落語・民謡・その他世界の音楽を入れている。高音質で聴くラジオで放送していた文菊師匠の落語は、痺れる、エレキテル。

今日は一日ぼんやりしようかと考えていた。何せ2時くらいまで昨日の渋谷らくごの記事を書いており、凄すぎた文菊師匠の『心眼』の余韻に浸りたかったのだ。ぼんやり心の中で『心眼』と言葉を唱えてみると、『真贋』という言葉が出てきてハッとした。心の眼で見るということの、その真と贋を人はどうやって見分けているのだろうか。自分の心の眼は一体、何を真とし、贋としているのか。巡り巡って頭の中でぐるぐると考え続けていると、どうにも迷宮に迷い込んでしまうような気がした。

眠りから覚めた後で、私は文菊師匠の表情が怖かったのだとはっきり認めた。普段、それほどまじまじと目の不自由な方を見ることは無い。目の不自由な方が接する世界、お竹の言葉「目が見えないままでいいのかい?」という言葉を受けて、もう千にも万にも変化する微妙な表情が、私は怖かったのだと思う。それは己の理解の範疇を超えた、全ての感情を網羅している表情だと私が感じたからだ。言葉では理解できない、いわば理性の壁を突き破って、本能を揺すぶられた表情だったのだ。

私の敬愛する作家、ヘルマン・ヘッセの著作『シッダールタ』の言葉を借りるとすれば、千態方様の深層を見た気がしたのだ。

そんなド真面目なまま午後に突入したので、これはいかん!と思い立ち、東京かわら版を捲っていると、『三遊亭笑遊独演会』の文字。見た瞬間、

 

しょうゆうことかぁっっっ!

 

と思い立ち、しょうゆうことかぁっっっ!。と思ったので、ぷらぷら散歩をしながら、お江戸上野広小路亭に到着。渋いスーツ姿の笑遊師匠とご常連の方々が談笑されている。申し訳なく「当日券ありますか?」というと、受付のアキヤさん?に券を頂き、春風亭橋蔵さんにパンフを渡される。階段を上がろうとすると、「お名前なんでしたっけ?」と笑遊師匠に聴かれ、「あ、はい、森野です」と答えると、「森野さんね、名前書いてくれた?」と聴かれたので、私は何を勘違いしたのか、「あ、以前サインは頂きました」と言うと、「違う違う、ノートに、住所!」と笑遊師匠が言うので、「それはまだ書いてないです」と返事をし、私はノートに住所を書いた。ついに笑遊師匠に身バレのうえ、住所バレである。電話番号までバレた。やばいぜ。

再び階段を上がろうとすると、笑遊師匠が「いいとこ住んでるね!」と言い、私の住まいを見て橋蔵さんが驚いた様子で「~!?」と言ったので、謙遜する。笑遊師匠が「俺の演目は何が好き?」と聞いてきたので、「去年浅草演芸ホールで聞いた、祇園祭が大好きです」と答えると、「いいねぇ。俺もああいうごちゃごちゃしたの好きなんだよぉ」と言って頂けたので、ファンとしてこんなに嬉しいことはない。ここまで書いて、これを読んだら笑遊師匠は私だと気づく筈である(笑)

 

さて、お江戸上野広小路亭に入る。二階に下駄箱があるのでうっかり見過ごすと三階の会場まで靴を持っていく羽目になる。下駄箱に靴を入れ鍵を閉め、三階に上がる。基本的にはお江戸日本橋亭と同じ構造になっているが、上野広小路亭の方がやや作りがこじんまりとしていて、若干の浅草感がある(私が勝手にそう思っているだけだが)。

こじんまりとした箱のような舞台の中央には緋毛氈が敷かれ、紫色の座布団が置かれたいつもの高座セット。中央やや上部には額に入れられた『日々是好日』の文字。最近は映画でも有名になっている言葉で、私も一度見たいと思っている。

キャパは100名ほど、前列三列目くらいまでが畳式になっている。常連さんが非常に多く、殆どが笑遊師匠と顔見知りやゴルフ仲間という、非常に和気藹々としたホームグラウンド感。ちょっとした町の寄合所の雰囲気があって、みんな色んな遊びごとを楽しんでいるThe 遊び人という顔の人たちが多い。人生を色んな趣味で彩っている粋な人達が客席に揃っているという感じで、文菊師匠の独演会のような品の良いご婦人というよりも、商店街で物を売りさばく元気なおばちゃん連中が多いという様子。なんとなく商店街っぽさを纏った空気感と言えば良いだろうか。私のような新参者はド緊張なのだが、温かく迎えてくれる笑遊師匠の懐の深さが素晴らしい。

会場は80名ほどは入っていたんじゃないだろうか。ほぼ満員の中で開口一番。

 

三遊亭あんぱん『道灌』

登場するやいなや、見た目にはそぐわない少し高めの声。見るからに狸の生まれ変わりというような風貌。くりくりっとした純粋な目と、餡子でも詰まっているのではないかというほどパンパンの頬。文菊師匠もびっくりの太筆書きで一を書いたかのような眉毛。風貌からして落語の世界の住人。物凄いフラだなぁと思って聴いていたのだが、そこはやはり前座さん。まだまだ修行途中という感じである。でも、見た目とキャラクターは強烈な個性を放っているし、これからもっと研鑽を積んだらどんな風に化けるのか(狸だけに)楽しみな落語家さんである。Twitterを見ていても、その強烈なキャラクターは林家やまびこさんに引けを取らない。まだ落語そのものはやまびこさんに軍配が上がるが、あんぱんさんにしか出せない味を期待したいと思う。

 

春風亭橋蔵「犬の目」

風貌は前回書いた通りで、刑務所に入り立ての若造の風貌。マクラであんぱんさんにツッコミを入れつつ、もはや橋蔵さん独自の間とトーンなのだなと思う語り口で『犬の目』に入る。この物語の肝はどこにあるんだろうと、若干不思議な噺であるだけに難しい噺だと思っている。目玉を洗ったり、目玉を入れたりする間が無言になるし、その所作は地味だし、笑いどころと言ってもそれほど多いわけではない。喬太郎師匠の「犬の目」のような狂気っぽさは特に無く、ただ淡々と進んでいく。寄席でもなかなか掛けずらい噺ではないかと思うし、何より目の不自由な人の演技が、昨日の文菊師匠とくらべものにならなかったので、そういう意味で、いかに文菊師匠の目の不自由な方の演じ方が凄かったかを再認識した一席。橋蔵さんの目の不自由な人は、完全に目を閉じていました。この辺りはやっぱり演じるのは難しいと思う。

 

三遊亭笑遊「饅頭怖い」

大ベテランの真打がネタ出しで前座噺、さらにはやるのが笑遊師匠とあって、これは普通の『饅頭怖い』になる筈がない。全てをマッドマックスばりに爆笑変換してしまうのが笑遊師匠である。マクラで三越で行われた落語会に参加したこと、笑遊師匠以外のメンバーが雲助師匠(調べたら小せん師匠)、一朝師匠、志ん輔師匠、権太楼師匠。完全に浮いてるっ!!!笑遊師匠(笑)自虐ネタと愚痴と不貞腐れ満載のマクラで会場がどっかんどっかん爆笑。ここには書けない凄いことの連続でした。書きたいけど、書けない!(笑)

好きなものを言い合う出だしで饅頭怖いがスタート、最初に「饅頭怖いは誰でも知ってるからね、ウケなくてもいいの」と言いつつ、めちゃくちゃにウケる。途中で脱線して話をもとに戻した時に、「えっ!?これ饅頭怖いに戻れるの!?」という衝撃の展開。好きなものを言い合う会話から、なぜか酒飲みの話になって、白湯を飲んでから糸を付けた麩を食べると、何回でも白湯を味わえるという、書いていてさっぱり意味が分からない内容の話が三回続く。

白湯を飲むだろ?で、胃の中でぐつぐつ言って、これ以上もう飲めねぇってなったらな、糸を付けた麩を入れるの。そうすると、胃の中で麩が白湯をこう、シュウウウって吸い込んでパンパンに膨れ上がるだろ。そしたら、良し来たぞー!ってんで、糸をこう引っ張って、あぶぅっ!って口から出して、麩を絞るの。そしたら白湯を飲めぇ~!って、飲んでこれ以上飲めなくなったら、麩を入れろぉ~

という上記の繰り返しが、わけわからなさ過ぎて爆笑するのだが、一体ここからどうつながるんだろうと思っていると、突然やってきた金ちゃんに向かって「おう、金ちゃん。蛇嫌いなんだって?」という、物凄いアクロバティックな饅頭怖いへの接続(笑)

この自由闊達さが許される独演会の会場。寄席では絶対に見ることの出来ない、物凄いブーストがかかった笑遊師匠は誰も止めることが出来ない。伸べえさんの饅頭怖いがいかにオーソドックスなスタイルであったかを再確認する。

笑遊師匠の素晴らしさは、客席を完璧に味方に付けて既存の演目を何十倍も面白くするところだ。客席と芸人で演目は作られるということを見事に理解している落語家で、その辺りの破天荒さと自由さを許容することが出来れば、こんなに面白い物は他に存在しないと思えるほどに爆笑の高座になる。あらゆる物事を落語という演目の中で、お客さんを巻き込んで爆笑に変換する。そんな笑いの鍋奉行的な豪快な技と人柄こそ、笑遊師匠の魅力そのものなのではないかと思う。寄席に行っても、必ずと言っていいほど笑遊師匠はお客さんを意識した発言をするし、その辺りがもしかしたら好き嫌いの分かれるところかも知れないが、私はそんな笑遊師匠が大好きである。

考えてみれば、笑遊師匠も伸べえさんも共通しているのは客席を巻き込む吸引力があるということ。言ってしまえば『何を言っても許される空間』を作り上げる力。笑福亭福笑師匠や桂枝雀師匠もそうだ。この人が出てきて、何かを喋ったら、それが正解不正解などもはやどうでも良くて、ただただ面白いことに変換されたことだけを楽しめる。そんな落語家さんが笑遊師匠なのだ。

抱腹絶倒、腹筋崩壊、爆笑の渦に巻き込まれた、今までに見たことのない超絶アクロバティックな饅頭怖い。もうあの会場だけの特別な空気があって、その発言を一つ取り上げると変な誤解を抱かれかねないので、書きたくても書けないことをご承知いただきたい。

『饅頭怖い』という演目のラストシーン。扉を開けるシーンはもう、あの会場で拍手が沸き起こるほどの強烈な伏線、思い出すだけでも笑える(笑)

最後、饅頭をほうばるゲンちゃんの部屋に入ろうとして扉を開けようとするのだが、一瞬躊躇う仕草をする。そこで会場が割れんばかりの拍手。その理由が、もう可笑しくって可笑しくって、その所作は新しいなぁ。これぞ、会場が芸を作るという神髄だと私は思った。与太郎を地で行く笑遊師匠。最高の笑いの余韻で仲入り

 

新山真理「漫談」

笑遊師匠と仲が良いという新山真理さん。寄席ではお馴染みの刑務所での血液型の噺から、新曲『賞味期限ぎりぎり』を熱唱。私の血液型ですが、内緒です。

風貌は言われてみれば仲居さん風。橘家橘之助師匠とは違って芸者さんという感じではないが、ピンで漫談をされている。置物が素敵で、常に栓抜きを持っているという掴みバッチリの小ネタ。寄席通りの見事な漫談、熱唱の後で笑遊師匠にバトンを渡す。

 

三遊亭笑遊「呆けてたまるか」

出てくるなり、新山真理さんにツッコミを入れる笑遊師匠。怒った真理さんのお仕置きに合う姿が可愛らしい。いいですねぇ、二回ほど怒られていたんだけれど、お茶目な笑遊師匠のお姿が可愛らしいのと笑えるのとで素敵な出だし。

それから桂文枝師匠の作だという『呆けてたまるか』の解説。原作を聞いたことは無かったのだが、笑遊師匠の手にかかると爆音になるので、それが何とも面白い。ネタ卸しの危うさを辛うじて繋ぎつつ物語を進めて行く様は、めちゃくちゃ面白い。前回の独演会での火焔太鼓もそうだったのだが、真打の大ベテランが悪戦苦闘しながら大ネタに挑戦していく様は見ていて勇気を貰えるし、何より気取っていないのが良い。うろ覚えというかほぼ違う話になっていた饅頭怖いに比べれば、呆けてたまるかはどうやら基本に忠実にやっている様子。散々マクラで「この呆けてたまるかのマクラね、めちゃくちゃ面白いの」と自らハードルを上げつつ、見事に超えてくる素晴らしい話芸。老いすらも武器に変えて、生粋の張りのある声と勇ましさで会場は事あるごとに爆笑に包まれる。全員で爆笑の波をサーフィンしているくらいの気持ちよさがあって、笑遊師匠も観客の皆さんも、最高に幸福な時間を過ごしているなぁという感じ。

そして、何より笑遊師匠は正直なのだ。高座でネタが飛んだら「いけねぇ、脱線して話を忘れちまった」とか、「この続きがね、思い出せないのよ」、「今の話の持っていき方は、ちょっと違うんじゃねぇか?」というような、まさに目の前で苦戦しつつ、成長する笑遊師匠の姿を生で拝見することができる。伊集院光さん風に言えば、「◎◎剥き出し」の状態で落語をやっている。もうこれが、とにかく面白いのだ。

さらなる伸べえさんとの共通点は、自らの失敗すら笑いに変える力である。少し気取って落語をやって、上手くやろう上手くやろう、見せつけてやろうという芸じゃない。あくまでも自分に正直に、ありのままに落語をやる。その凄みは並大抵の落語家さんでは一生表現することが出来ないものなのだ。下手をすれば生涯、それに気が付くことの無いまま落語家人生を終える人だっている。自らの全てを受け入れ、全てをさらけ出し、全てを爆笑に変えてしまう。それが三遊亭笑遊という偉大なる落語家さんなのだ。そして、その影に隠れて、ひっそりと成長を続ける伸べえさんを私は見逃さずに見続けて行く。

 

総括すると、三遊亭笑遊師匠の面白さにつられたブログ記事になった。凄く温かくて、懐が深くて、また馬鹿やってらぁ。という客席のご常連様方の素敵な笑顔が印象に残った。どうやら打ち上げもあったようだが、新参者の若造は早々に退散することにするし、そもそも誘ってもらえないし、恥ずかしいので退散する。

一期一会の落語会。独演会って本当に演者と観客の相乗効果で、寄席のような会場とは全然違う、凄い空気感がある。これは自分にフィットする落語家を見つけて、まず独演会に行って、自分と同じような感性を持った人々に包まれることで分かる。きっと思うだろう、私は一人じゃないんだ。私は間違ってないんだ。私と似たような笑いのツボを持った人がたくさんいるんだ。そう思って笑う幸福感に是非とも包まれて欲しいと思う。あなたの好きな落語家さんの独演会で、あなたがたくさん幸福と笑いに包まれることを願っております。

少し肌寒い夜の街に消えていく。明日も素敵な演芸に出会えますように。願わくば、素敵な演芸友達が出来ますように。願いつつ、願いつつ、松之丞さん楽しみ(結局そこかい!)

 

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想像の中で奔流する感情の波に飲み込まれて~2018年11月9日 渋谷らくご 立川寸志 柳家小里ん 玉川太福 古今亭文菊~

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落語の魅力は、全ての感情を網羅しているところ。

 

俺の物語に入って来い!入って来い!

 

一円あげるから帰って頂戴

 

ちょいと待ちねぇ。唐揚げにタルルルタルルル~だってぇ?

 

 うちの女房がね、言うんですよ。お前さん、今日は縞の着物だよ。

帰ってくる頃には、はっきりと縞の模様が見えるといいねって。

 

梅喜さん、梅喜さん

 

朝は少し寒く、これは一雨降るかなと思って傘を持っていたのだが、結局傘は使わずじまいで、幸運なことに雨に降られることは無かった。空を見れば雲が漂っており、私はただ今日の渋谷らくごのためだけに一日ずっとぼんやりしていた。

雲田はるこ先生がトークゲストとして出演されるという今回の渋谷らくご。残念ながらドラマはまだ見ていないのだが、漫画は全巻持っている。女性向け雑誌に連載されていたとあって、女性コミックが陳列されているコーナーに行きづらかったという思い出がある。内容はとても面白いし、とにかく弟子入りや、様々な因縁が絡み合ったりして、最後はちょっと悲しいのだけれど、いろいろ複雑なのだけれど、素敵な物語である。

そんな、渋谷らくごに行くことを決めたのは文菊師匠、そして太福さんが出るというので、一にも二にもチケットを購入した。

渋谷ユーロスペースに着くと、既に行列である。当日券だけでも50枚は出るというのだから凄い。この日は四周年記念ということもあって、記念の特別ハンドブックも購入。Pen+神田松之丞よりちょっぴりお高い(?)

会場は大入り満員である。若くて綺麗な女性からお美しい素敵な笑い皺をお持ちのご婦人方まで、幅広い美人が大勢並んでいる。それでも、年齢層は30代~40代が多いという感じで、まだまだ20代の層は少ない様子。どこにでもいる常連の方々はやっぱりいらっしゃる。

ここ最近、そこまで大入り満員の会に入ったことが無かったので、久しぶりに客席の熱気を体感したのだが、凄まじいものがあった。落語好きが落語を全く知らない人を連れて来ている様子や、熟練の落語通がしみじみと聞き入っている様子。とにかく最前列で体感したい!という方まで、客層が本当に多種多様で、普段の寄席のような雰囲気はなく、もっと若い大人の空気感は如実に漂っていた。

渋谷は若い人の街だと言うのだが、私はユーロスペースで行われているシブラクのおかげで、あまりそういったイメージは持っていない。20代よりもむしろ30代、40代にヒットしているような感覚がある。また、普通であればあまり表舞台に立って、日の目を見ることのない二つ目という身分の落語家さんが活躍できるのも、渋谷らくごの凄いところだと思っている。

私の渋谷らくご初体験は、去年のことである。その時は文菊師匠目当てで何も知らずに行って、寸志さんの幇間腹遊雀師匠の野ざらし、左談次師匠の厩火事、そして文菊師匠の死神だった。思えば、私の渋谷らくごはあれからどっぷりで、松之丞さんや鯉八さん、太福さんを知ったのも渋谷らくごのおかげだったのだ。

寄席に出てくる芸人だけが全てではないということを知って、それから二つ目の方々を追う楽しさを知った。渋谷らくごには出ていないが、個人的に大注目の桂伸べえさんがそれに該当する。たくさんの落語家さんに出会って、自分の好きな人を見つけて追う。それが落語にハマっていく大きなきっかけだったと思う。

 

話を渋谷らくごに戻そう。20時の15分前にサンキュータツオさんが登場し、その後で雲田はるこ先生が登場。漫画家さんらしい風貌で、辛子色のAMBUSHと文字の書かれた服を着ていて、とてもお美しい方で驚いた。この人が『昭和元禄落語心中』を書かれていたんだなぁと感慨に浸っていると、喋り方が芸術に接している人の喋り方で微笑ましい。何か自分の想像を上回る巨大な概念の前で、ただただ恩恵を授かるために努力を続けてきた人の喋り方である。もうこの時点で羨ましくて少し泣きそうだったのだが、サンキュータツオさんが質問をして、それに答えた雲田はるこさんの言葉が、私としては、談志師匠の「落語は人間の業の肯定」に次ぐ、名言だと思っている。

 

サンキュータツオさん「雲田さんにとって、落語の魅力とはなんですか?」

 

雲田はるこ先生「落語の魅力は、、、全ての感情を網羅しているところ」

文章では伝わりにくいと思うのだが、この言葉のトーン、テンポ。普通の語りなのに雲田はるこ先生を通すと、ずしんっと伝わってきて、思わず泣きそうになった。そうだよなぁ、本当にそうだよという気持ちがこみ上げてきたのだ。

例えば、小指を柱の角にぶつけたとする。物凄い痛いというときに、感情がもしも無かったら、それは相手にテキストとしてしか伝わらない。「痛いです。痛いです」と言葉で言うのと、文字表現で申し訳ないが感情をこめて

「痛いですっ!!!!!!痛いですっ!!!!!」

と言うのとでは、まるきり他者に伝わる印象が違う。そういう意味で、落語の演目は同じであっても、その演目には書かれていない感情を表現するのが落語家なのかも知れないと思った。雲田はるこ先生の喋り方は、決して感情表現たっぷりに、キャピキャピしているとか、もうすっごいワクワクしてウキウキなんですぅ!という感じではなく、ただただ芸術の凄さに圧倒されてしまっている人の喋り方だった。本当に凄い芸を見たときは、自分の感情を表に出すことが出来ず、ただただ感嘆の息を漏らすというか、そういう言葉にならない感情がこみ上げてくるものだと私は思っていて、そういうニュアンスに近い喋り方を雲田先生はされていたように私には感じられた。

物凄い名言だなぁと思ってうるうるしている間に、出囃子が鳴って開口一番。

 

立川寸志『野ざらし

寸志さんは口跡が素晴らしい。出だしから畳み掛けるように語り始める様は二つ目として十分に貫禄がある。マクラはさほど面白く無いにしても、耳馴染みが良くさらっとした語りが素敵な落語家さんである。こんなテンポで捲し立てるようにポンポンと進んでいく落語を聞いていると、心地が良いし気持ちが良い。野ざらし柳家小三治師匠や遊雀師匠を聞いているが、寸志さんならではのテンポとトーンが素敵である。幇間ネタに関わらず、誰かを褒めたり、羨ましがったり、調子に乗ったりする人物の感情表現が上手い。中音の効いた声の質とテンポの良い語り口は、エフェクターで言えばオーバードライブに近い。随所に挟み込まれるオリジナリティも素敵で、「ちっちゃな頃から骨好きで」や、「俺の物語に入って来い!」などのパワーワードが炸裂。聴いた後にはそれほどの余韻は残らない蕎麦みたいな落語なのだが、のどごし爽やか気持ちの良い開口一番。

 

柳家小里ん『五人廻し』

いぶし銀のボス猫。と勝手に思っている小里ん師匠が登場すると、がらりと大人の渋み、特に浅草界隈の雑多な中で揉まれた渋みが漂ってくる。小満ん師匠と小里ん師匠を聞いているとより両者の雰囲気の違いを感じられると思うのだが、どちらかと言えば小満ん師匠は洋寄りで、小里ん師匠は和寄りという感じである。

そんな生粋の和寄りの小里ん師匠の廓話も、乙だし小ネタが効いているし、ちょっとした小話も粋で面白い。うっかり聞き逃すと損をしそうな面白い小ネタが随所に挟み込まれていて、とても面白かった。

五人廻しを現代風に言ってみれば、キャバクラに行ったけど女の子が全然来てくれないで不貞腐れる客をボーイが慰める。みたいな噺である。登場人物の演じ分けが見事で、私としては三島由紀夫や麻呂系の人、田舎侍が出てきたりして、実に見事な演じ分けだったし、小里ん師匠、似合いすぎなんですよ廓話(笑)

吉原の説明のくだりにしても、吉原が無いと言っても絶対それに近いところに行ってどんちゃんやってただろうという雰囲気があるし、何より醸し出している雰囲気がもはや名人。文菊師匠が光の名人オーラなら、小里ん師匠は闇の名人オーラなんです(何を言っているんでしょう、私は)

もう小里ん師匠の世代は私の知らない言葉や知恵をたっぷり持っている世代なので、そういう知恵のエッセンス、言葉のエッセンスを味わいたかったら追うしかないです。一朝師匠や雲助師匠には無い、浅草の泥臭さと渋さを纏った小里ん師匠の落語、ハマッちゃったらやばいぞ~(笑)

粋で渋い小里ん師匠に痺れてインターバル。

 

玉川太福小江戸の二人 おかず交換』

待ってました!太ちゃん!というような感じで、もはや愛されキャラクターとして定着した太福さん。この人は見ていると人間臭くて思わず応援したくなってしまう。池袋、末廣と掛け持ちで寄席に出てきて、池袋で盛大に滑ったというマクラから、「これは夢かな?」と思ったというので、現実に戻るために小噺を披露。爆笑と拍手喝采で迎えられ、無事現実に帰還。小里ん師匠に渡された「えど」と書かれたバトンを引き継いで、地べたの二人シリーズをなんと!小江戸バージョンでやるという、物凄いレアな事態に発展。齋藤さんと金井くんがどんな感じになるのかと思いきや、これがもう冒頭から大爆笑の連続。

今日一番ウケたのは間違いなく太福さんだった。恐らく寄席で溜まった鬱憤を一気に爆発させて爆笑をかっさらいたかったのではないか。それが見事に成就した渾身の一席。ツッコミどころ満載の齋藤さんと金井くんの会話。物凄いエセ感のある江戸弁。齋藤さんが完全に森の石松になっている異常事態。口調は江戸弁なのにタルタルソースのかかった唐揚げと、シャケと皮を交換するくだりはもう、通常バージョンの10倍くらいの面白さで、これはひょっとすると小江戸バージョンに変えて全作演じても問題無いのでは?と思うくらいに面白かった。やたら巻き舌で江戸感を出そうとしている様子も面白いし、とにかく太福さんの思う江戸感を纏った齋藤さんと金井くんが面白すぎた。小里ん師匠から渡された「えどのバトン」を見事に(?)繋いだ太福さんには、会場にいた誰もが惚れたんじゃないだろうか。愛すべき下町人情を持つ玉川太福さんの渾身の一席だった。考えてみればこの前の福笑師匠ばりに会場を爆笑の渦に巻き込んでいたのではないだろうか。

余談だが、どがちゃがという読み物に『この一席!』というテーマに福笑師匠の『憧れの甲子園』が掲載されていた。あれはもう本当に凄かった。それと比肩して劣らない今日の太福さんの『小江戸の二人』。小江戸ってなんだよって思いつつも、太福さんの思う小江戸がとにかく面白いレアな一席だった。

こんなに爆笑の後で、一体どんな演目を文菊師匠は選択するのか、この辺りの演目の選択を絶対に外さないのが、文菊師匠である。かつて、立川こしら師匠、三遊亭遊雀師匠、桂三四郎さんという連続で爆笑をかっさらった後の文菊師匠にも、正直かなり緊張したのだが、見事『井戸の茶碗』で拍手喝采だった。この辺りの感覚、もう本当に超人的なんですよ、文菊師匠は。この辺りの素晴らしさも是非、読者にご理解いただきたいです。

というわけで、トリはこちら。

 

古今亭文菊『心眼』

出囃子と入場で空気を作る文菊師匠。正直、会場は爆笑モードに包まれて陽気な空気に満たされている。浪曲という派手な演芸の後で、しっとりと登場される文菊師匠のリズムは変わらない。声は本調子、リズムも本調子。撮影されているという話題からNHK放送禁止用語の噺。すぐに笑いを求めずに、じっと言葉を繋ぐ。メクラとは言わず目の不自由な方と言い換えること、びっことは言わず足の不自由な方と言い換えること、客席から感心の頷きがあった後で、親方とは言ってはいけないのだという話題を振って、じゃあどう言い換えるか、チーフってんだそうです。ここでどっと爆笑が起こる。これ、普段文菊師匠を見慣れている私はかなり緊張した。文菊師匠のすばらしさが受け入れられなかったらどうしよ、と考えたが、いらぬ心配だった。いつだって私の敬愛する文菊師匠は凄いのだ。

どっと起こった笑いの後で、「人の心ってのは分からない」というようなことを言ってから第一声「あら、梅喜さん?」で背筋を電撃が走った。「うわぁっ!心眼だぁ!」と嬉しさのあまりかっと目を見開いて背筋を伸ばした。

国立演芸場の名人会で話題になっていた『心眼』。まさかこんなところで見れるとは思ってもいなくて、ずっと文菊師匠の表情を見ていた。その表情に最初は圧倒されてしまい、危うく最初の品川くだりの話を聞き逃しそうになった。

盲目の按摩である梅喜の描写に息を飲んだ。勝新太郎の演じる座頭市のような盲目な姿が真に迫っていて驚いた。と同時に、冒頭で雲田はるこ先生が言っていた『落語の魅力は、全ての感情を網羅しているところ』という言葉が繋がってくる。ここで、私の頭の中で点と点が線で繋がった。

緻密な所作にただただ息を飲む。心眼の演目は以前、深夜寄席柳家やなぎさんのものを見たが、その時は茅場町の薬師にお参りをする梅喜にかなり力を入れており、私には演技がクサ過ぎて受付なかった。文菊師匠はその点が凄い。弟の金公に借金を頼む時の描写は、それほど灰汁が強くない。だからこそ、想像の余地があって、もう既に涙の堤防が決壊しつつある。言葉の選択も抜群で、梅喜を思いやるお竹の言葉や仕草、言葉遣い、トーンが優しさに溢れているし、悔しそうな梅喜の表情、仕草も何とも言えない悲壮感があって胸が苦しい。薬師様へのお参りも、憎らしさとかそういう感情では無い、本当に見てとれるか、とれないかの微妙なニュアンスの感情を表情で見せてくる。やなぎさんの時は完全に目を閉じていたのだが、文菊師匠の目は完全に閉じているわけではなく、やや半開きでありながら白目が僅かに見えている様子が、物凄くリアルで息を飲む。心眼の演目中、殆ど息を飲みっぱなしだった。

文菊師匠の心眼は、薬師へのお参りよりもむしろ、眼が開いた後の描写にかなりの時間を割いていた。盲目から一転、眼が見えるようになったものがどういう感情になるのか、どういう事態を引き起こすのか、その辺りの表情の変化、言葉の変化が凄すぎて、笑える場面でも一瞬笑ってもいいのか躊躇ってしまうくらいに凄かった。私としては、弟の金公に「ド盲!」と罵倒されて悔しがる梅喜の表情。薬師様に願い続けて満願の日を迎え、何度も薬師様に問いかける梅喜の表情、そして最後のシーンの表情が忘れられない。

目が開き、様々な物事を目にし、浮足立って女房のお竹を忘れ、芸者の小春を女房にするというまでの、ありとあらゆる表情、言葉、声色。その全てが私の想像の中で奔流し続け、ただただ私はそれに自ら飲み込まれていった。ああ、きっとこの表情は心の中でこう思っているに違いない、きっとこう考えているに違いない。脳内でどんどんどんどん言葉が費やされ、それまでの記憶にあったことが次々と梅喜の表情の理解にあてはめられていく中で、最後に梅喜がお竹にこう言われるシーン

 

「梅喜さん、目が見えなくてもいいのかい?」

 

そういった後の表情の変転を、私はどう表現していいか分からない。時間が止まり、私のそれまでのありとあらゆる記憶の中にある感情、表情、そのどれも当てはまらない、強烈な、表情。あれを虚無と言い表すと全く見当外れだという確信がある。とにかく、そのお竹の問いかけに対する間に、私は壮絶な梅喜の感情の様を感じ、言葉では表せない深淵を見た。

もっと言えば、それまでは自分の想像の中にある感情を当てはめ、その波に飲み込まれて梅喜を見ていたのだが、唐突に波が消えてなくなり、宇宙にぽーんと放り込まれたような感覚と言えば良いのだろうか。

お竹の質問から、梅喜がぐっとお竹の腕を握りしめ、「もう信心はやめだ」と言った後で、オチを言うまで、再び襲ってきた感情の波に猛烈な勢いで飲み込まれたと思ったら終了という事態になり、全身にずしりと重い何かがのしかかってきたみたいで、しばらくずううんと心が重たかった。人は自らの体験に無い表情を見ると、こんなに重い気持ちになるのだなと思って驚いた。

その後も、あんなに爆笑を巻き起こした太福さんが嘘だったかのように、しんみりと考えさせられる心眼に会場全体が包まれ、気持ちの切り替えに戸惑いつつ、雲田はるこ先生とサンキューさんのアフタートークを聴いていたが、正直あまり内容は覚えていない。寄席に行きましょう。ということは言っていました。

 

帰り際、白杖を持った男性と連れ添うように歩くご婦人の姿を見た。その時、再び私の想像の中で感情の波が奔流した。そして疑問が一つ浮かんだ。本当に目の不自由な人は、どんな気持ちで心眼を見たのだろうか。

考えてみれば、私は梅喜に「ド盲!食いつぶしにでも来たのか!」と叫ぶ金公の立場にいたことだってあった。それは私の中に紛れもなく存在していた弱者への配慮の無い感情だった。往々にして人は、何かに劣っている人を馬鹿にしがちである。足の不自由な者、眼の不自由な者、あらゆる障害を持った人に対して、偏見が無かったかと言えば嘘になる。今だって、もしかしたら無意識のうちに馬鹿にしている可能性だってあるのだ。そう考えてみると、心眼という演目は多くを語らず、眼の自由・不自由に左右される人間を描くことで、本当の真理とは何かを考える指標になっているのかも知れない。

そして、文菊師匠の心眼に登場する、梅喜の表情。言葉では言い表せない様々な感情が表情に現れていて、冒頭の『落語の魅力は全ての感情を網羅しているところ』という言葉の、完璧な答えになっていたと思う。これを文菊師匠が意図してやっているのかいないのかは分からない。それでも、心眼をトリでやった文菊師匠のセンスは、ありきたりな言葉で表現するとすれば、神の選択に近いと私は思っている。

ようやく噂の心眼を見ることが出来て、今日のレポも充実することができた。

総括すると、寸志さんは相変わらず気持ちの良い口跡。小里ん師匠は大人の渋みと色気たっぷり、太福さんは小江戸バージョンで爆笑を巻き起こし、文菊師匠が全ての感情を表情で表した、物凄く素晴らしい会だった。

渋谷らくご4周年。こんなに素晴らしい落語会は未来永劫続いてほしい。

もしかしたら、こんなことを言う落語ファンも出てくるかもしれない。

「もう寄席は止めだ」

「どうして?たくさん落語家が出るじゃないの」

「落語初心者ってのは、妙なもんだな。シブラクを見ているときだけ、よーく笑える」

生身の研鑽、スリルと可能性~2018年11月6日 本所地域プラザ はなし亭~

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お客さんは少ない方が良いの

 

 差し上げます!差し上げます!

 

つるのはっぴゃくはちじゅうはちばん!

  

ざあざあ降りの雨の中、傘を差して向かった先は本所地域プラザ。今日は何か素敵な落語会があるかなーと探していた。その日にやっている落語会に興味がある方は、東京かわら版と、もう一つ以下のサイトをオススメする。

 

落語系情報サイト 噺-HANASHI-

 

このサイトを見ていて発見したのが、古今亭文菊師匠、古今亭菊之丞師匠、柳亭こみち師匠がネタ卸しをされているという『はなし亭』。二時間たっぷりでなんとお値段、驚愕の1000円である。さらに驚いたのは、文菊師匠が『つる』と『手紙無筆』をやるというのだ。

言ってしまえば、これはMISIAがかえるの合唱を歌うようなものである。基礎の基礎、寄席などでいずれ頻繁にかかるであろう軽い噺のネタ卸しとあって、これは見るしかない!と思い立ち、今日の舞台に辿り着いた。

本所地域プラザには、彦いち師匠と小ゑん師匠の二人会で何度か来たことがある。客席と舞台の距離が何とも言えない微妙な距離間で、なかなか不思議でありつつも、ホールらしい落ち着きのある場所である。一つ難点があるとすれば、椅子が非常に振動の伝わりやすい構造になっているのか、隣の人が笑ったりすると、煽りを食らって自分の席まで良く揺れるのである。

会場に着くと、古今亭菊之丞師匠と柳亭こみち師匠が受け付けにいて、チラシを渡して頂いた。自主的な勉強会という雰囲気が既に漂っている。

会場に入ると、彦いち師匠や小ゑん師匠の時とはがらっと客層も変わって、年配の方からお美しいご婦人方までずらりと勢ぞろい。驚くべきはいつも見かける文菊師匠ファンのご婦人方がいなかったことくらいであろうか。ネタ卸しにはあまり興味が無かったのかな、などとご婦人方に思いを馳せつつ着座。こういういつものご常連さんの姿を見かけない日というのも、なんだかさみしい気もするのが不思議である。

さて、勉強会ということもあってめくりは無し、トップバッターが出てくる。

 

古今亭文菊『つる』

普段のお声に戻った文菊師匠。西川美和じゃないけど『永い言い訳』、レイモンド・チャンドラーじゃないけど『長いお別れ』という感じに、マクラで予防線を張る文菊師匠のお姿が素敵である。言い訳を言いつつもきっちりとした完成度で仕上げてくるあたりはさすが文菊師匠である。冒頭でMISIAがカエルの合唱を歌うようなものだと言ったが、こちらは赤とんぼを歌っているような感じ。粗茶が出てくるまでの流れは道灌と殆ど一緒である。恐らくではあるが、私としては文菊師匠の第一声「こんちわ」は、権太楼師匠から習っているのではないかと思ったりもする。どちらかと言えば、古今亭のイメージである江戸っ子気質、とんとん拍子の畳み掛けるような言葉の応酬からすると、じっくりと、落ち着いていて、炬燵を挟んで会話をしているような穏やかさがある。隠居からつるの名の由来を聞いて、それを他で試して失敗するのだが、文菊師匠の見た目の知的さが滑稽っぽさの足掛けになってしまっているように感じられた。

考えてみると、今までそれなりに文菊師匠の落語を聞いてきたが、誰かから教わった話を他で披露して失敗するというパターンの滑稽話は、殆ど聞いていないということに気づいた。ぱっとそんな噺をやっていたっけ?と思い起こしても、私にはすぐにこの噺だ!と思いつくネタが無い。これにはちょっと驚いた。寄席ネタの中でも長短、強情灸、千早ふるが良くかかっている。唯一の道灌も、どちらかと言えば教わったことを試そうとして失敗しているだけで、教わったことを真に受けて他に披露しているわけではない。代表的なものであれば新聞記事なんかも同じような失敗噺である。

文菊師匠を見ていて思ったのは『つる』の由来を信じる八五郎の姿に、まだまだ違和感があったことである。むしろ、際立っていたのは脇役の方で、八五郎が隠居から教わった話を大工のたっつぁんに話すシーンで、たっつぁんの演じ方が上手かったし、隠居から再度教わってたっつぁんのところに行く間で笑いが起こった。これは演じる物の個性というか、その人の素質に関わってくるものだと思うのだが、正直、文菊師匠にはこの手の滑稽噺は難しいのではないか、と思ってしまったのである。というのも、滲み出る品が、どうにも真に勘違いをする八五郎像を邪魔してしまっている気がするのである。かと言って、八五郎がわざと間違えるという風に演じ方を変えてもどうなるのか、その辺りの演じ分けは難しいところかも知れない。その点、こういった滑稽噺を得意とする落語家さんと言えば、桂伸べえさんであったり、台所おさん師匠であったりすると思う。これはあくまでも私の意見だが、滑稽さ、八五郎の愚かさを表現するためには、文菊師匠の言う、ちょっと顔が崩れていた方が落語はやりやすい。という冗談に通じてきたりするのではないか、と思った。

 

古今亭文菊師匠『手紙無筆』

あっさりと『つる』が終わって、後から入ってきたお客さんに声をかける配慮を見せる辺りにも、やはり滲み出る品と知性を感じてしまって、美しい所作と清い心を持った人が滑稽噺をやるのはさぞ難しいだろうなと思う。『手紙無筆』を聞いていても、字を書く奴を許せないという小噺は間も言葉選びも素敵だったのだが、肝心の字が読めず字を書けない者が掛けあうシーンでは、やはり知性と品が邪魔してしまっているような気がする。これはもう、何とも表現が難しい。なぜ滑稽さが無いのかと言われれば、歌舞伎役者のような風貌と、口調が合っていないとしか言いようが無い。市川海老蔵おぼっちゃまくんを演じるのと、ビートたけしおぼっちゃまくんを演じるのとでは、違和感の差が違うという感じである。逆にビートたけしが歌舞伎をやるというときの違和感ももちろんある。

そこに得体の知れないわざとらしさのようなものを感じてしまって、むしろその知性と品を取っ払って、本当の意味で滑稽さを滲ませることが出来たら、どんなことになるのだろうか、と想像が付かない可能性を感じる。そういう意味では、文菊師匠は文菊師匠なりに、自分の性質にあったネタをこれまで選んできたのだなぁ、と少し思ったりもした。人それぞれ自分の性格に合うネタを習得していると思うと、私はすっと腑に落ちる部分があった。だからこそ、自分の性質とは対極にあるネタに挑戦するとき、そこには観客以上の苦労が演者にやってくるのだろうと思った。

ネタ卸しという会でありながら、そんな演者の難しさを考えることが出来てとても貴重な体験をしているなと思った。

私自身はネタ卸しのような会は二度目である。一度目はシブラクでの『しゃべっちゃいなよ』で、その時に聴いた彦いち師匠の『つばさ』に思い入れがある。

シブラクでのネタ卸し後、彦いち師匠がトリの鈴本に行き、そこで再び『つばさ』を聞いた。どっかんどっかん会場で爆笑が起こっているのを見て、なんだか言いようのない感動が襲ってきたのである。それは恐らく、最初にネタが披露された瞬間に立ち会っていたという喜びと、それが今まさに寄席の大きな会場でたくさんの人に受け入れられているという喜び、それらが彦いち師匠も同じことを思っているんだろうなぁと何となく思ってしまって、笑いと感動が押し寄せてきたのである。その時初めて、ネタ卸しの会に立ち会うことのできた喜びを知った。

そのネタを初めて見た観客の脳内にインプットされた演者の映像があるとして、それが寄席でかけるために、さらにブラッシュアップされて披露されたとする。すると、初めて見た時の演者の映像と、寄席で披露された時の演者の映像とが重なって、その差異に驚くのである。何というか、初めて自転車に乗れた人を見たときと、その人がそれから三年後に自転車に乗っている姿を見た時に感じる心の差異みたいなものである。うーん、どう表現していいか分からないが、とにかく未熟さが熟成に近づいているのだと認識した時に感じる喜びみたいなものが、襲ってくるのである。

そんなことを考えながら、お次。

 

古今亭菊之丞『柳田格之進』

これはまた偉く難しい噺だと思っている。『二番煎じ』ほどではないが、どちらかと言えば講談寄りの演目で、人情と滑稽のどちらに語りのチューニングを合わせて行くかが、演者に求められる技量だと私は思っている。噺自体を聞くのは二度目で、文菊師匠の『柳田格之進』を聞いたことがある。滔々とした語り口で、どちらかと言えば滑稽寄りだった。どこに力を入れると私好みになるかと言えば、50両を盗んだのだと格之進に詰め寄るシーンや、50両を盗んだというあらぬ疑いを掛けられ、娘を吉原に売ることになるシーンや、50両が見つかった後に首を差し出そうとする二人の庇い合いのシーンなどを、じっくりと描き出すと深みが増すと思ったりする。全体的に地味な物語でありながらも、人間の心の汚さと清らかさ、何ともいえない心の交差する様が素敵であり、後を引くお話だと思っている。特に柳田格之進の説明『嘘も方便というけれど、その嘘さえつけない正直な男』というところに、この物語の肝はあると思うのだ。

強い意志を持って世間に相対する人がいる一方で、いろいろと詮索をしたり、勝手な想像を膨らませて人を貶める人間もいる。そういう人間同士の小さなズレが大きな悲劇を巻き起こす。決してすとんっと心が爽快になるお話ではなく、どこか言いようの無い霧のようなものを胸に残すお話が柳田格之進だと思っているし、去年の暮れにきいた文菊師匠の柳田格之進には、そんな雰囲気を感じさせたのだった。

肝心の古今亭菊之丞師匠の『柳田格之進』である。まだ人情味には至っておらず、緊張感もある。真打であってもネタ卸しはやはり難しいものなのだなぁと痛感する。三遊亭笑遊師匠の火焔太鼓の時もそうだったのだが、スリルはありながらもきちんと立て直して繋ぐ精神に感動する。笑いも少ないし、全体を通して聴かせる噺。これをモノにしたらさらに菊之丞師匠は凄くなるだろうという予感を感じさせる一席で仲入り。

 

柳亭こみち『富久』

地味で暗い噺の後は、明るいけれども不安を残す『富久』。こみち師匠は本当に後ろに燕路師匠のお姿がうっすら見えるくらい(まだ死んでないけど)に、随所に燕路師匠のエッセンスを醸し出している落語家さんである。同期で小八師匠なんかは、もはや喜多八師匠が憑依しているのか、という『らくだ』を見たことがあるけれども、TENの世代は良くも悪くも師匠の魂を受け継いでいる落語家さんばかりで素晴らしい。

そんなこみち師匠はマクラでお酒の失敗談から『富久』に入った。抜群の安定感で、たっぷりの大ネタなのだが大きく詰まることもなく、笑いも随所で起こる。『柳田格之進』に比べれば笑える個所も随所にあるし、久蔵の演じ方やその周囲の人たちの演じ方も、あっさりではあるがとても流暢なテンポで進んでいく。マクラの話題をネタの中に入れてきたりと芸達者で、人情噺からの緩急を付けた良い演目であったと思う。寄席や普通の落語会と違って、勉強会であるから暗黙のリレー感はもちろんない。何せ『柳田格之進』という大ネタの後に大ネタをやるのだから、これは聴く方も試されている。そういう部分も含めて1000円だと思うのだが、もっとお高くても文句は言いませんというくらいにレベルは高かった。

こみち師匠は珍しい噺も比較的寄席でやられているし、溌溂とした表情と確かな語り口、そして何よりも燕路師匠の持つ愛嬌を身に纏っている。女性の落語家さんの中では隠れているけれども確かな技術力があるし、落語が好きなんだなぁという雰囲気をたっぷり感じる。どちらかと言えば滑稽噺よりの語り口であるが、人情噺を上手に語る姿も今後は見てみたいと思ったりする。

そんな安定感のある『富久』でお開き。

 

総括すると、文菊師匠が最初にマクラで言ったように、『壁に向かって何百回とやったって、生身の反応を見なければ分からない』部分がたくさんあって、それが大勢の観客の前で試された、まさに勉強会の場だったと思う。値段云々はお客様がめちゃくちゃお得であることは間違いないし、不慣れな話を一所懸命にやる落語家の姿にハラハラしつつも、今後磨かれていく噺の可能性に期待が膨らむ、そんなとても素敵な会だった。

ネタ卸しの会の面白さ、是非是非読者の皆様にも味わって頂きたいと思う。

一周年の上機嫌、いつか花咲く浪曲の春~2018年11月4日 浅草木馬亭 月例玉川太福独演会~

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よろしかったら、一周年の記念に日本酒をいかがでしょうか。

 

ぴったりジャスト十年!?

 

じゃあ腕を戻す

 

立派な力士になって、俺を投げ飛ばしてくれ 

朝は講談、昼は落語、締めはもちろん、浪曲である。日曜日は見事に三扇を決めることが出来た。幸福な気持ちのまま浅草に着くと、弘前ねぶた祭をやっていたので、幾つか写真を撮った。

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浅草は実に素敵である。人の情けに共に涙してくれるような、人情が満ちている。落ちぶれて袖に涙の降りかかる、人の心の奥ぞ知らるる。というが、そういう人間の持つ温かさや雑多さが入り混じって、少し下世話だけれどもどこか人情の風が吹く。そんな浅草を歩いていると、浪曲小屋の『浅草木馬亭』が見えてきた。

入場すると、太福さんがお出迎え。1周年ということで日本酒がふるまわれており、私は『上機嫌』というお酒を頂いた。これが誠に美味で、浪曲を聞く前に酔ってしまうという、なんとも一日の締めにふさわしい幸福な酔い心地を味わった。酔い心地は良い心地、なんてね。

ずらりと集まった観客は、殆ど毎度お馴染みの方々である。常連さんは前の方にばちっと固まっているし、後方には様々な会の主催者の方々、ひょっとすると民謡クルセイダーズのベースの方ではないか、という人まで、種々様々なきりっとしたお顔立ちのお客様が集まっている。

一周年という華やかなお祝いムードの中、幕が開いて主役が登場する。

 

玉川太福『地べたの二人 十年』

お馴染みの浪曲セットを拵えて、玉川太福さんが登場する。11月はCDの発売やら様々な企画やら、とにかく精力的に舞台に立たれている。喉を酷使されているのではないかと心配になるくらいに、とにかく様々な会に出て浪曲を広めている。単なる色物ではなく、正しく浪曲師として芸を披露される姿は、観るたびに勇ましく、凄まじくなっていくので、浪曲がもっともっと広まってくれればいいな、と思う次第である。

落語や講談や浪曲を聞いていて、どれが一番痺れる機会が多いかと言えば、間違いなく私は浪曲だと答える。言葉が節と三味線に乗って発せられるのはもちろんのこと、未だ知られていない数々の素晴らしい人情噺がたくさんあるのだ。もうどれだけ太福さんに泣かされていることか(笑)前回の西村権四郎やら、笹川の花会やら、とにかく胸を締め付けられて思わず泣いてしまう、そんな凄い演目がたくさんあるのだ。一言で言えば染み入るというのか、浪曲の素晴らしさは何度聞いても胸に染み入る節と物語にあるのだと、私は思う。

地べたの二人シリーズの第一作、十年。1周年の記念にふさわしい演目で、金井くんと齋藤さんの掛け合いが面白い。これは間で笑わせると同時に、節に入るタイミングと節に入った後でも笑わせるという、絶妙な間の芸だと私は思っている。決して派手なことは起こらないのに、なぜか笑ってしまうのは、浪曲の一つの本質があるからだろうと思う。落語や講談には無い三味線が一役買い、言葉を超えた間の面白さを見事に表現している。私は地べたの二人では齋藤さんが好きである。

 

玉川太福『秋葉の仇討ち』

清水次郎長伝からの一席。激しい修羅場は無いが、仇である神沢小五郎を殺すまでの経緯が面白い。そうか、昔の人はこんな風に騙されるんだ、という発見と、次郎長親分の心意気みたいなものが素敵な一席である。清水次郎長伝はこういった親しき人が傷つけられ、それに対する仇を討つというのが根底にあって繰り返されているのだという。この物語を土台にした有名な話と言えば、ご存知『ワンピース』である。日本人の大好きな仇討ちものを聞ける喜びを噛み締めつつ、仲入り。

 

玉川太福『梅ケ谷江戸日記』

太福さんの魅力は?と聞かれた、『人情』と私は答える。浪曲の世界に飛び込み、師である玉川福太郎さんに浪曲を学びながら、突然の師匠の死を前にしても立ち止まらずに前に進んだ覚悟。浪曲の未来を背負い、第一線で活躍している国本武春先生を追いながら、突然の死によって目標すらも失ってしまった太福さん。それでも、自らを信じて浪曲のすばらしさを伝えるため、新作浪曲『地べたの二人シリーズ』を生み出し、怒涛の勢いで浪曲を盛り上げている姿には、人情という見えない大きく太い柱を伸ばしているように私には思えた。

未だ名人上手と呼ばれる腕は無いかもしれない。本域の浪曲師達に比べれば、まだまだなのかも知れない。それでも、唸りの美しさ、胸を震わせる節と言葉の数々。そして何よりも浪曲の消えかかった灯を再び強い炎へと燃え上がらせようとする強い意志。とても人間らしくて、決して清らかなだけではなくて、孤高というわけでもない。ひたすらに浪曲師として節を唸って、浪曲のすばらしさを伝えている。

『梅ケ谷江戸日記』は後に15代横綱となる梅ケ谷藤太郎が、両国橋で乞食を助けるところから始まる。上方から江戸にやってきて、強いけれど人気が出ない梅ケ谷。乞食を助けた恩返しというのが簡単なあらすじなのだが、その短い物語の中にも、随所に胸が熱くなって染みてくる言葉がたくさんあって、後半の乞食の正体が分かるシーンの節や言葉で私は涙した。何とも言いようの無い感情がこみ上げてきて、ただただ泣いてしまうのだ。人気が出ず、上方に帰ろうと思う梅ケ谷を必死で止める救われた乞食の姿とか、こんな親方にはついていけない!と弟子二人が言い放つのだが、梅ケ谷の心意気に触れて改心するシーンとか、型通りだとか、テンプレートだとか、お涙頂戴だとかそういう理屈抜きで、感動するのである。私は上方弁やら言葉の言い間違いなど些細なことはあまり気になる質ではなく、ただただ物語を想像することに集中している。すると、その想像を超えてくる節と、三味線の音色がやってきて、言いようの無い熱い感情がこみ上げてきてしまうのだ。

こんなにも鮮やかにくっきりと脳内に現れる映像とは、一体私の何がどう働いてそうなっているのか、全く説明が付かない。それでも、私ははっきりとその映像を見て、言葉から表情を思い浮かべて、そしてそれらが自分の、自分による、自分だけのために動き始めて、そうしていつの間にか、感動しているのだ。

日常生活でも時々、そういうことが襲ってくる。親しき人の別れとか、言葉とかが沸き起こってきて、急に胸が熱くなってしまうことがある。読者の方にそんな体験があるかは分からないのだが、夕日などを見ていて涙が零れそうになる感覚に近い。私はそれを『感動ゾーン』と勝手に呼んでいる。これは本当に何の前触れもなくやってくるので、そういう時はあまり表に表情を出さずに、ただただ涙ぐむようにしている。

例を挙げるとすれば、幼稚園に通う幼い男女の別れのシーン、脳内では仲良くしていた女の子の転校が決まり、本当は好きだと伝えたいけれど気丈に振る舞う男の子の姿がぱっと浮かび、バックで太福さんの声で「別れと出会いは世の常ぞ、泣くな男が泣いたら廃る、決してめげずに生きたなら 二人笑ってまた会える」とか、そういうニュアンスの言葉が脳内で再生され、道端で普通にうるうるするヤバイ人になる。

こういう時に創作意欲が湧いてきて、浪曲脚本でも書こうと思うのだが、あいにく募集しているところがない。もしも再び浪曲脚本を募集する会があったら、幼稚園に通う男女の出会いと別れを浪曲にしてみたいと、こっそり思ったりもするのだ。名づけるとすれば『幼い二人シリーズ』なんてね。

 

総括すると、毎回、凄まじい勢いでメキメキと良くなっていく太福さんの今を、月一で見ることの出来る素晴らしい会だった。日本酒も美味しかったし、笑ったり泣いたりしたけれど、一日の締めくくりとしては最高の会だった。こんな日が毎日続いたら、大変だね(笑)

今週は物凄い会が目白押し。シブラクももちろんレポ書きますよ。

それでは皆様、良い週末を。

 

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巣鴨止まりの若さの後で~2018年11月4日 スタジオフォー 四の日寄席~

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落語心中で若い人にも大変人気だそうですが、この会は巣鴨で止まってるのかな、若さが

 

ペーさんがねぇ。

 

二番を煎じておけ

 

ごぉんすけぇ、ごぉんすけぇ

 

 死んじゃったって言っちゃいなさいよ

朝練講談会を終え、私は電車に揺られてスタジオフォーのある場所へと急いだ。途中、都電荒川線に乗ったのだが、私を含めて実に乗車している方々の年齢が高い。一両しかない車両が烏合の衆でごった返し、あちらこちらでぴーちく、ぱーちくとご高齢なご婦人方が話し合う声が聞こえてくる。電車を降りる者のマナーをしきりに責め立てたりして、見ず知らずの乗客にも「ねぇ、降りるって三文字がどうして言えないのかしらねぇ」なんて同調を求めながら、色んな意味で混沌とした車内の中で一人、私はぼーっと突っ立ちながら本を読んでいた。

時代は変わったのだとボブ・ディランみたいなことを友人が言っていた。かつては見ず知らずの人間であっても、盛んに言葉を交わしていたし、映画館では喋っていない人間の方が珍しかった。最近ではすっかり映画館で騒ぐ子供に向かって「黙れ!小僧!」なんて吐き捨てるように言う者が圧倒的多数になった。あの頃はみんな馬鹿だったんだねぇ。でも、馬鹿は馬鹿なりに楽しんでいたものさ。と友人は笑った。

今でも、特に私のような世代は人と会話をすることが楽しみだったのだ。今ほど娯楽に溢れてはいなかったから、情報を得るにはとにかく足を運んで色んな人に出会わなければならなかった。これほどまでに情報が発達してくると、人間の持つ理性がとても強くなって、人はそう簡単に騙されなくなったし、とにかく賢くなった。そして、その知性がマナーとなり、マナーに従わないものはアウトローとされて煙たがられた。

誰かと会話をしなくても、ただスマートフォンを動かせばありとあらゆる物事を知ることが出来る。とても便利な世の中になったものだと思う。実際、電車を乗り継いだり、目的の場所に行くにしても、とにかくスマホ、文明の利器というものは肌身離さず持っていなければならない。

時代の移り変わりは世の常ぞ。そんなことを思いながらスタジオフォーに辿り着く。静かな落ち着いた雰囲気のある場所で、こんなところで落語会が行われているとは思いにくい場所である。中に入ると80名ほどのキャパのスペースにずらりっと椅子が並べられており、これくらいのスペースが落語を聞いたり講談を聴くには良いスペースだなぁと思うギリギリの広さである。あるいは秘密集会みたいなものが行われていても不思議ではない。そんな素敵な場所である。

調べるとジャズのライブをやっていたりもするのだという。周辺は実に静かで穏やかな雰囲気なのだが、スタジオフォー内は実に様々な熱が湧き起こっている。なんだか想像するとワクワクしてくるような場所なのだ。

とても素敵な場所なので、ホームページのURLを貼っておくことにする。

スタジオフォートップ - スタジオフォー

 

毎月、4日に行われている落語会があり、『四の日寄席』と呼ばれている。メンバーは主催者の好みなのだろうか、古今亭文菊師匠、隅田川馬石師匠、桂やまと師匠、初音家左橋師匠、古今亭駒治師匠がご出演されている。今回は代演で菊志ん師匠だった。

この場所には去年来たことがある。トリで文菊師匠が笠碁をやっていた。その時は志ん陽さんが駒治さんの代わりにいた気がする。とにかく、久方ぶりの『四の日寄席』である。

恒例の客層判断だが、とにかく年齢層が高い。殆どが60代~70代の男女といった様子で、なかなか若い人が溶け込みずらい雰囲気がある。何よりも、若さ特有の活気というよりかは、静かに静かに見守っていますよ、という包み込むような優しい雰囲気が漂っていて、なんだか時間がゆったりと流れているように感じられた。またこれも不思議な雰囲気を持った空間だなぁと思う。こういう場所での落語会は、渋みとか若さ云々を抜きにして、ただ穏やかで温かいのだ。ちょっと私の隣にいた80代くらいのご老人は臭ったけれども、それもご愛嬌である。

盛大な拍手に迎えられて、開口一番はお馴染みの方である。

 

古今亭文菊『道灌』

いつもの出囃子ではなく、なんという名前か分からない出囃子で登場。出囃子と登場は雰囲気づくりに欠かせないものなのだな、と思う。私のような文菊ファンになると、出囃子の『関三奴』が鳴っただけでピリッと背筋が伸びるし、あのゆったりとした低空飛行のような高座へ上がる姿を見ただけで、息を飲む。今回はほのぼのと登壇されて、話題のドラマ『昭和元禄落語心中』の話題に触れた後、若さは巣鴨で止まっちゃったのかな、という話から、浅草演芸ホールで行われている古今亭円菊師匠の追善興行の話題から、若い人にもっともっと触れて頂きたいですねぇ。という話から『道灌』に入った。

前座噺であっても、真打になると凄みが違う。ただの掛け合いなのに、どうしてこうも前座と真打で面白さが異なるのか、それは数値では測れない間やトーン、一つ一つのセリフがそうさせるのだろうと思う。本日も文菊師匠は少しお風邪気味の声だったが、渋くて深みのある、何年も修行をしてきたが故に出てきた味わいのある道灌が良かった。開口一番という順番もそうだが、後に続く先輩方への確かなリレーの意志を強く感じた。こういうところで大工調べをやらないところが、文菊師匠、さすがの一席。

 

初音家左橋『長短』

お久しぶりの左橋師匠。四段目や紙屑屋では美しい声と愛嬌のある口調が実に見事で、全く落語を知らない人でも一発で好きになる個性を持った落語家さんである。鋭いけれど温かみのある眼と、なんとも愛嬌のある笑顔。端正なお顔立ちと優しいお声。和製ジョージ・クルーニーは言い過ぎ?かも知れないけれど、左橋師匠の落語が私は大好きである。なぜかじっと見ているとカナリアをイメージしてしまう。どこか鳥のような美しい声色を持ったところが、そう感じさせるのかも知れない。

林家ペーさんの話から、色んな気性の方がいるとふって『長短』に入った。気の長い長さんの何とも言えない愛らしさ。気の短い短七さんのせっかちぶり。どれもが左橋師匠のテイストになっていて、可愛らしい。いじらしさというよりも、お互いにお互いの関係を楽しんでいるような、そんな雰囲気を感じさせる。文菊師匠の長短と比べると、長さんと短七さんのキャラクター性はそれほど誇張されてはおらず、どちらかと言えば柳家の芸風に近いと思っている、土着的な印象を受けた。私としては美声を活かした落語が真骨頂だと思うのだが、ここもやはり二番手としての演目選びだろう。素敵な声色を堪能した可愛らしい一席。

 

桂やまと『二番煎じ』

仲入り前は桂やまと師匠。少し香水を付けていたのか、羽織を脱ぐと良い香りがふわっと漂ってくる。寄席ではそれほど見かけないが、住吉踊りでは抜群の踊りを披露する達者な落語家さんである。普段はPTA会長もされており、どことなく町内を纏めるリーダーのような雰囲気を漂わせている。そんな経験もあってか、見事にやまと師匠にぴったりの『二番煎じ』だった。登場人物が多く、話にそれほど多くの山場は無い物の、随所で聴かせる語り口だった。私としては『二番煎じ』は非常に難しい話だと思っている。それほど爆笑を誘うような小ネタは前半には無く、後半にほんの僅かあるかという面白い部分まで、とても小気味の良いテンポで聴かせていた。これは観客も試される演目で、最後のオチを聞くまでじっと聞いていないと、前半のフリや随所に散りばめられた小ネタが効いて来なくなる。おまけに登場人物が多いので想像力も要求されるし、結局最後まで聞いても、それほど大きなカタルシスが得られない話である。寄席では手っ取り早く笑える話も多いのだが、こういう話をじっくり聴かせられる技量というものも、落語家には試されているのだと思う。

私の周辺の方々は思いっきり寝ていたのだが、そんな穏やかな時間の中にあってじっと聴いているお客さんも多くいた。体力と知力の要求される高度なお話。最後のオチを聞いてどっと拍手が沸き起こったところを見ると、結構多くの客が聞き入っていたのだなと思って、客席も侮れないな、と思った。

四の日寄席に来る方は、反応はそれほど大きくはないが、じっくり聞く派が多いように思った。こういう客層は落語家はとても嬉しいものだと思うけど、眼に見えた反応が無い分、難しいと思う。どかどかと笑ってもらえば、「あ、ウケてるな」と思うものだが、黙ってじっとして感心されると、どうにも実感が湧かないのではないか、と思う。もしかすると笑う気力さえ無い方々も大勢いる中で、そんな客層はある意味、怖いけど幸福なのかも知れないと思った。

考えてみると、客席の反応が全く無いと不安になる。でも、本物、真剣な芸であればあるほど、観客は聞き入って黙ってしまうものなのだと思う。演劇なんかを見ていてもそうだ。そこには大きな反応はなく、ただただ舞台で感情を爆発させた役者が躍動するだけである。突き詰めて行くと、真の芸とは観客の無反応を呼び起こすものなのかも知れない。と思ったり。じっと考えつつ、仲入り。

 

古今亭菊志ん『権助提灯』

古今亭駒治さんの代演で登場の菊志ん師匠。寄席で見る時よりも語り口がゆっくりで、ほんの少しばかり本気状態なのかな、と思いつつマクラはお馴染み。客席の聞き入る様子を言いつつ、『権助提灯』に入った。やまと師匠の『二番煎じ』を華麗に引用して笑いを誘う。とにかく爆笑の一席だった。畳み掛けるように女将さんとお妾さんの演じ分けが押し寄せてくるし、旦那の戸惑う様子と、それを笑う権助の姿が、怒涛の勢いで繰り出され、穏やかにじっくり聞く会場とは裏腹に、爆笑の反応が何度も沸き起こる凄い高座だった。特に女性の演じ方はトーンが素晴らしく、そんなところで言葉に力を入れるのか!という絶妙に面白い力の入れ具合。女将とお妾さんにはモデルでもいるのかと思うほどくっきりと性格が表現されていた。

爆笑の一席はあまり冷静に分析できないのだが、寄席で感じていたような急速なスピードよりもむしろ、少し速度を落としながら聴かせるスタイルの語り口は実に見事だった。表情は私が思うに、いや、やめておこう。これは親しい人だけの秘密にしておく。

爆笑を巻き起こした渾身の一席の後、大トリはご存知。

 

隅田川馬石『お見立て』

馬石師匠は不思議な間を持った落語家だと私は思っている。五街道雲助師匠も不思議な間と口調を持っているし、蜃気楼龍玉師匠はヤクザ風な間と口調、桃月庵白酒師匠はキレッキレな鋭い間と口調を持っている。この一門は名前も含めて実に個性的な集団だと思っている。柳家や古今亭のお家芸というような、ある種の伝統的イメージから離れ、個人の持つ個性の間と口調を持っているように思うのだ。すなわち、柳家や古今亭が持つ、どこか似通った基礎を感じさせる落語家とは異なる、それぞれがオンリーワンの基礎を持っているように思うのだ。

そんな中で、けっして爆笑というスタイルではないが、耳馴染みが良くて聞きやすく、派手な特徴は無いけれど少し不思議な語り口を持っているのが、隅田川馬石師匠だと思う。良い意味で個が無いのだけれど、個が無いことが個性になっているような、なんとも形容しがたく表現することが難しい落語家さんである。

何に似ているかと言えば、落ち着いた『さかなくん』と言えば良いのだろうか。落語を愛し落語の世界に身を浸し、体の芯まで落語を知り尽くしているが故の、その染み具合がもたらす雰囲気というのか、他の誰とも似通った部分の無い、それでいて真っすぐで正統派な落語をやる人である。どの演目を聞いても、江戸標準から僅かに別の位置で輝きを放っている感じといえば良いのだろうか。ここまで色々と試行錯誤したのだが、どう表現すれば良いか、難しいのである。

『お見立て』を聞いていても、登場人物の個性がさほど際立っているわけでもない。どちらかと言えば杢兵衛も喜瀬川花魁も、喜助も、登場人物の心情というものが色濃く表現されていないように私は感じた。それでも、演目本来のおかしみをしっかりと表現するし、とても面白く感じるのは一体なぜなのだろうか。実にくっきりと登場人物の個性を表現する文菊師匠の『お見立て』と比べれば、あっさりとしているのだが、妙に面白くておかしい。でも、どうにも今、しっくりくる表現を思いつけない。おそらく、それこそが馬石師匠の魅力なのだと思う。どこまで聞いても馬石師匠の本来の人間性というものが見えてこないのだ。その見えてこないことによる、落語のテキスト的な面白さ。そんなものを感じた一席だった。

 

総括すると、最強のコスパである。是非とも落語に親しんだ方には足を運んで頂きたい会だった。またお休みの日が4の日にぶつかったら、今度は歩いて通おうと思う。

少し霧雨程度ではあったが、私は次の会に向けて電車に乗った。

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