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自称・演芸ブロガーが語る日本演芸(落語・講談・浪曲)ブログ!

神田松之丞は如何にして観客に応えたか~2018年10月7日 お江戸日本橋亭 朝練講談会~

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いつもは風通しがいいんです。こんなにお客さんが多いとね、息が詰まって苦しいですね。圧が凄いんですよ、圧が。

 

私は天邪鬼なんでね、短い話をやろうかなと思うんですけど。

 

やっすべぇ、やっすべぇ 

天候は晴れて過ごしやすく、静かに穏やかな風が街を流れている。人はまばらで忙しなさはなく、朗らかで温かい連休の中日。日曜日は決まってお江戸日本橋亭で『朝練講談会』が午前9時30分から行われる。日本橋は高層ビルが立ち並び、ハイスタンダードな社会人が多いイメージがあり、下品な店も少なく、さながら日本の品格を感じさせる佇まいのある場所だと私は思っている。

それほど人通りの無い路地にお江戸日本橋亭はある。故・桂歌丸師匠も訪れていた場所である。そこには開演一時間前だというのに、物凄い行列が出来ていた。

先頭の方に尋ねると、朝の七時頃から並んでいるという。開演までの二時間半、ずっと待っているというのも殊勝なことだと思う。だが、それだけ並ぶに値する価値があると思っているから、これだけの人々が列を成すのだろう。Twitterなどを見ていても、朝練講談会に参加している方々が多くいることが分かる。きっと、そうした情報の発信者によって、演芸は盛り上がっていく。その一人として私も情報を私なりに発信していきたいと思う所存である。

ざっと見回すと、やはり年配の方が多い。やや女性も多く、ちらほらと若い人がいらっしゃった。きっと末は講談師にでもなるのだろうかと、今から楽しみで仕方がない。恐らくは観客の中からも講談師になることを望む者も出てくるであろう。そんな時は背中を押してあげたい。

日本橋亭の会場前に出てくる係員さんは見慣れている。愛嬌があって良い。講談の前の緩やかな時間が流れる。

以前、松之丞さんの朝練講談会に出た時は、物凄いお客だった。前回ほどの異常な行列にはなっていなかった。

開場時刻になって入場して席に着く。靴からスリッパに履き替えて下足箱に靴を入れたとき、ふとお客の顔が気になった。神田松之丞という講談師に、心惹かれている人たちの顔は、どこか気迫を帯びているというか、期待でいっぱいなのである。落語家の会などに行くと、もっとのんびりした顔の人が多く、すっとぼけた顔の人が多いのだが、講談となるとキリリッとした顔の人が多いというのが、私の個人的な印象である。

松之丞さんの会ではお馴染みのご常連の方もいらっしゃっていて、そういう常連の方々には常連のコミュニティがあるのだろうか、自然と仲良くなるのだろうか、私はそういったものには疎いから存じ上げないが、和気藹々としている様子である。ただ、一つ苦言を呈するとすれば、松之丞さん以外の方が出た時にも変な態度というか、不遜な態度だけは勘弁してもらいたいと思うのである。

ファンであるから仕方が無いのかも知れないが、松之丞さんプラスの会となると、どうしても松之丞贔屓の方が目立ってしまう。あからさまにカサカサと音を立てる人、松之丞の出番が終わった途端に出て行く人。人それぞれの楽しみ方なのだから良いではないか!と思うかも知れないけれど、やはりそこはある程度の節度とマナーは持っていて欲しいなと思う。でも、好きな人に真っすぐな気持ちは嫌いじゃないです。

 

さて、一番手は宝井梅湯(たからい うめゆ)さん。穏やかでふっくらとした体つきと、少し声色の高い講談師である。親しみやすい滑稽話もさることながら、赤穂浪士の話もしみじみと語る講談師だ。恐らく松之丞によって出来上がった講談師のイメージからは少し外れる、優しい感じの語り口である。世のイメージというのは恐ろしいもので、松之丞さんに触れた方々の多くが講談とは全て松之丞の感じ、と思いがちである。ここからの脱却は難しいし、殆ど不可能に近い。最初に出会ってしまったもののインパクトが強すぎて、そのインパクトが基準になる。すると、他の講談師を見た時はついつい「松之丞さんと比べて声のバリエーションが少ない」とか「松之丞さんと比べて間が早い」とか、何かと「松之丞さんと比べて〇〇」となりがちである。かくいう私も最初は「文菊師匠と比べてテンポが速い」とか、「文菊師匠と比べて声に抑揚が無い」などと言っていた時期もあった。だから、これは仕方の無いことである。

幸いなことに私は初講談は神田阿久鯉先生だった。あの美しい目元と口元、そこから放たれる勇ましい言葉の数々。もう見るたびにドキドキする色気。最高である。

さて、話を梅湯さんに戻そう。演目は『出世浄瑠璃』。嘘が転じて幸運が舞い込むというような話で、これが実に面白い。おそらく松之丞ファンであろう私の隣の方々はくすりともしなかったが、可笑しみのある面白い話である。ただ聴いているとどうしても「松之丞さんがやったらどうなるんだろう」という邪念が沸き起こってきてしまうのだ。松之丞さんでない人に松之丞さんを期待するのはおかしな話である。こういう話もあるのだということで聞いた。やはり同じ講談という土俵に立つものが揃うと、演目は違えど比較されがちである。ここまで語っているが、殆ど松之丞さんが土台になって話が進んでいる。もっと講談経験を積まなければならないだろう。

 

梅湯さんの後で神田松之丞さんが登場。もうお決まりの「待ってました!」をご常連の方々が発している。まだ一人しか出てないんだけど(笑)と苦笑しつつ松之丞さんを見る。黒の絽の着物を着て眼鏡を外す。会場の雰囲気がぐっと上がって期待感が高まる。マクラでは今日は一日、お江戸日本橋亭に居続けるという話。神田愛山先生では陰、三遊亭笑遊師匠では陽、と表現してから「三席もあるんですよ」と言う。「私は天邪鬼なんでね、皆さんたっぷりを期待しているでしょう。だから今日は短い話をやります」と言って会場の反応を見る。さらさらと笑いの度合いを見てから話題は赤穂浪士、安兵衛の話へと繋がって、『赤穂義士銘々傳 中山安兵衛~高田馬場駆けつけ・婿入り~』に入る。

序盤の安兵衛のクズっぷりから、後半に駆け付けた後の人を斬り倒す場面。思わず凄すぎて笑いがこみ上げてしまいそうなほどの勢いで、松之丞は汗を噴き出して捲し立てた。時代劇でのチャンバラさながらの修羅場が繰り広げられた場面は圧巻である。言葉にするよりも体験が一番良い。まるでジェットコースターに乗せられたかのような激しい勢いでバッタバッタと人を斬っていく中山安兵衛。その勇ましさと復讐に燃える姿の後で、返り血を浴びて酒屋に入り、「水だ!」と言いつつ酒を飲んで小休止、安兵衛婿入りへと繋がる。この辺りの駆けつけの話もたっぷり味わいたいが、婿入りの話も穏やかながら笑いがあって面白い。人をばたばたと斬り倒した後の緩やかな会話の後で、コミカルに描かれる安兵衛の姿。そして訪ねてくる堀部家の人々。そこから浅野内匠頭まで繋がる場面のテンポが良い。特に松之丞さんは声色を使い分けているし、声の抑揚が実に上手い。他では決して見ることの出来ない鮮やかな声の緩急。これは一度聞いてしまったら呪いのように抜け出すことはできない、と言うほどに魔力を秘めていると私は思う。

赤穂義士銘々傳は他に『神崎の詫び証文』、『赤垣源蔵 徳利の別れ』などを聞いたことがあったが、『安兵衛駆けつけ』、『安兵衛婿入り』と、痛快な講談を初めて聞いた。初心者が聞いても「ああ、講談っておもしれぇ!」と思う一席だったと思う。なんとなんと長講で一時間近くやっていた。老齢の方には集中力を保たせるのが困難であったと思う。常連のおばあちゃんも少しお疲れ気味であった。私は遠くから見守っていたぜ、おばあちゃん。

会が終わると、物販をやっていて松之丞さんの書籍、CDが売られていた。まだ買うまいと思いながら、その場を後にする。終演後、ご常連の方々も大満足だった様子で歓声をあげており、長く並んでいたお客の満足そうな表情が印象的だった。

きっと、神田松之丞さんは天邪鬼でありながらも、きちんと客席の様子を考慮しているのだと思う。期待に応えようとされる精神が素敵であるし、何よりも自信を持ってやっているんだなぁという感じが高座から伝わってくる。どこか危なっかしいとか、頼りないとか、大丈夫か?とか、不安の要素を私は感じることが出来なかった。それだけ、自分の芸に誇りと信念を持っているのだと思う。だからこそ、テレビやラジオなどのメディアに出ても、しっかりと応えていけるのだと思う。

余談だが、松之丞さんの手の動き、ちょっと立川談志に似てるように思う。私だけでしょうかね。

さてさて、練習の場であるといいつつも、きっちりと熱い講談を披露した松之丞さん。短い話と言いつつも大ネタをたっぷり時間オーバーで語った松之丞さん。おめでたい話で花を添えた梅湯さん。本当に皆さん、梅湯さんのことを忘れて帰らないようにお願いしますよ(笑)

そんなわけで、素敵な朝練講談会でございました。引き続きお楽しみの方が羨ましいです!私は別の会を楽しんできます。

 

いぶし銀の閃光~ 2018年10月6日 池袋演芸場 柳家小満ん 古今亭菊之丞~

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しんがりですから、30分はやらなくっちゃいけない。

 

皆様を品川の海へお連れ致しやしょう。 

 

ぴかぴかでしゅーしゅーのさんま!

 

全ては俺の意のままに

10月は寄席が凄い。鈴本演芸場柳家小三治師匠に始まり、池袋演芸場柳家小満ん師匠、浅草演芸ホールは古今亭寿輔師匠に、新宿末廣亭鈴々舎馬るこ師匠に真打昇進、と上席から怒涛の布陣である。かく言う私も鈴本演芸場小三治師匠の『野晒し』を聞き、本日池袋演芸場に行ってきた。

会場をざっと見回すと年配の方が多い印象である。ちらほらと女性もいるが、多くは男性。私と同じくらいの六十代の男性方たち。やはり通好みといったところであろうか。顔付けがとにかく渋い。

川柳川柳師匠はもちろんのこと、柳家さん生師匠、蝶花楼馬楽師匠、仲入り前は古今亭志ん輔師匠という、落語お初の方には少々とっつきにくい布陣である。仲入り後は隅田川馬石師匠、柳家小のぶ師匠と、ここも実に渋い流れである。こんなに渋い布陣を組んでトリを取るのが柳家小満ん師匠である。

何が渋いかと言えば、若手のフレッシュさが少なく、また新作派が少ないこと、そして世代的にマスメディアに取り上げられて隆盛を誇った落語家が少ないことである。桂三木助師匠、川柳川柳師匠、隅田川馬石師匠くらいは多少耳にした方もいると思われるが、なかなか蝶花楼馬楽師匠や柳家小のぶ師匠を聞いたことがある人は少ない筈である。東西800もの落語家がいる中でも、これだけの面子が番組に並ぶこと自体が、長らく落語を愛してきた通好みとされる所以である。

そんな通に向けた演者の演目も、普段寄席で若手が掛ける落語とは一味も二味も違って、落語本来の『噺』という部分に重きが置かれているように私は思う。下手な脚色をせずに、長年培われた語り口で発される言葉。ともすれば冗長と思われがちに、地味に地味に話が進んでいく。それでも後を引く笑いというか、濃厚というよりもあっさり

といった感じのテイストで進んでいく。

特に昼の部は柳家さん生師匠からの流れが良かった。古き良き伝統の寄席というような塩梅で仲入りまで進んだ。

問題は古今亭志ん輔師匠である。この人は未だに良く分からない。というか、どうやら私には完全にフィットしていないのだということだけは分かった。どうにもとっつきにくく、話を聞いていても惹きつけられない。そういう落語家がいるということを発見しただけでも良しとする落語家さんである。

仲入りが終わって馬石師匠。なんだかぴょんぴょんしているという印象で、それが馬石師匠の持ち味なのかも知れないと思う。微妙にふんわりとした不思議な間で噺が進んでいく。柳家小のぶ師匠で霧のような『気の長短』を聞き、橘家橘之助師匠で『たぬき』の後で、いよいよ柳家小満ん師匠である。

出てくるなり低いハスキーボイス、そして『皆様を品川の海にお連れいたしましょう』という、痺れるようなストーリーテラーっぷりを発揮した後での『品川心中』。

老いた品川の女郎、お染と貸本屋の金蔵が心中を企てる話である。シリアスな展開かと思いきや、くすっと笑えて後半に向けて盛り上がっていく話。いかにも『噺』といった物語を淡々と語っていく。

この話の最中に実にマナーの悪い客がいたのだが、無粋だからやめておこう。

ゆったりとしたリズムと独特なハスキートーン。聞き漏らすまいと聞き耳を立てていると飛び込んでくる笑えるネタの数々、シリアスでありながらも金蔵の間抜けさと、お染の心変わりが面白い。小満ん師匠の博識は鳴りを潜めて、それでも小満ん師匠の流麗な語り口で心地良く物語を堪能した。

今まで、その良さが分からなかった落語家の良さが分かるというのは、結構気持ちの良いものである。最初は何を言っているのかさっぱりわからなかった柳家小満ん師匠だったが、今や大ファンである。往々にして落語にはそういうところがある。今、好きな人も明日は嫌いになり、今嫌いな人も、明日は好きになる。そういうことが起きうるのが落語なのだ。そして好きになったり嫌いになったりする自分自身を自覚することで、今自分が何を求めているのかが分かるのだ。そういう自分の心の変化を感じることが出来るのも、落語の醍醐味である。

 

さて、昼の部が終わってお次は夜の部、菊之丞師匠トリである。

前半は菊太楼師匠の『祇園絵』が実に気持ちが良く、柳家甚語楼師匠の『浮世根問』も快活で笑えるし、久しぶりに聴いた小ゑん師匠は『フィッ!』、仲入り前の雲助師匠は『家見舞』。この家見舞いが良かったぁ。後半に笑いを持ってくるパターンの落語が実に気持ちが良く、この後を引く面白さが何とも言えない。決して笑い疲れることなく、寄席の流れの中で最高のネタを披露していく落語家さん達のセンスに脱帽である。

仲入り後も凄かった。怒涛の勢いで爆笑をかっさらっていく白鳥師匠『実録 鶴の恩返し』の後、スパッと江戸の風に切り替える春風亭一朝師匠『目黒のさんま』。「あいつの後に出るの嫌なんだよぉ」と白鳥さんの出番の後で愚痴をこぼしつつも、そこはベテランの風格。とにかくお殿様が可愛い『目黒のさんま』でスパッと空気を江戸に変えたのはお見事だった。切り替えられる一朝師匠の力量の凄さに、古典を長く続けてきた落語家の強烈なパワーを見た。ともすれば白鳥師匠のような爆笑新作系の流れにお客さんの思考が流れるかというところで、きちっとその流れを消さずに、可愛らしい殿様と若干の時事ネタとを挟んで見事に古典に変換される一朝師匠。こういう空気の美しいリレーが見れるのが寄席である。桂しん乃さんの後の桂伸べえさんがバチっと空気を切り替えたような、派手さは無いが鮮やかに空気感を演出する一朝師匠。凄すぎます。

紙切りの正楽師匠もお客さんの難題に見事に応えられていた。やはりトリ前に紙切りや粋曲が挟まれることで、一度流れを緩和するというのが寄席のシステムだと思う。実に良いリレーの後で、ご登場は古今亭菊之丞師匠である。

その前に、夜の部の前座さん、古今亭まめ菊さんについて触れておこう。2017年の四月に菊之丞師匠に入門され、今年の三月に楽屋入り。気配りの方だなぁと思うのは、私が文菊師匠にサインを求めた際に、さっと筆ペンをどこからか持ってきてくれた。落語はまだまだ突出すべきものは無いが、心配りと愛らしさで立派に前座を務めていらっしゃる。菊之丞師匠のお弟子というだけあって若干の気品をお持ちである。個人的にはもしも落語家になるなら文菊師匠に弟子入りしたいという私にとって、まめ菊さんは実に羨ましい存在である。厳しい落語の世界でどんな風にはばたいて行くのか楽しみである。

さて、菊之丞師匠は『死神』。文菊師匠で聞き慣れた死神と流れや随所のくすぐりは殆ど一緒。それでもしっとり感と笑いが多め。死神役の彦六師匠っぽさは文菊師匠の方が似ていると思う。オチの後の演出は素敵。文菊師匠とはまた違う幕の閉じ方で、それほど癖も無いあっさり系の『死神』だった。呪文はアジャラモクレンキューライス・ヨーコソウタマル・テケレッツノパーだった。何だろう、小ゑん師匠の『フィッ』の後は『死神』をやる率が高くなるのだろうか。謎である。

 

総括すると実に満足できる寄席だった。明日は講談・落語・浪曲の三種揃えて一日を終える。ということで、レポートをお楽しみに!

 

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私は柳家小三治に何を期待していたのか?~2018年10月3日 鈴本演芸場  柳家小三治~

 

兎角世間というものは情報に流されやすい生き物である。人が良いと言えば良いと感じ、人が悪いと言えば悪いと感じる。どうしてこんなに流されやすいのだろうかと思っていると、それは芯が無いからなのかもしれない。或いは、自分に自信が無いからなのかもしれない。或いは、そもそもそういう判断力、決断力が無いのかもしれない。

いずれにしろ、人は情報化社会(もはや死語?)の中で、ありとあらゆる情報の中から取捨選択して自らの言動、行動を決めている。

自分の目や耳や肌で感じたことの無い情報であっても、ある程度発信者に信頼を寄せていると、情報を鵜呑みにしてしまう人が多いのも事実だ。有名なブロガーが言っているのだから、この落語家は面白いのだと信じ込む人。有名なアーティストが良い曲を作ったと言うからいい曲なのだと思い込む人。否、当の本人たちは信じ込むとか思い込むとか言うよりも、本気で信じていたり思っていたりする。

でも、それって本当のところはどうなのだろう?と私は思う。人が良いというものが、必ずしも自分にとって良いものになるだろうか。人が悪いというものが、必ずしも自分にとって悪いものになるだろうか。私は、私が見たり聞いたり肌で感じたことだけを信じていたいと思うのだ。なぜなら、そこに私という存在を見出すことが出来るから。

今日は鈴本演芸場に行って柳家小三治師匠を見ることに決めていた。私にとって柳家小三治師匠に対する思いは「人間国宝がなんぼのもんじゃい」だった。肩書きはその人を知る上で確かに重要なことだろう。後世に名を残す者として栄誉あるものであろう。けれど、私にとってはそんな肩書き抜きで、今自分は柳家小三治師匠に何を求めているのか、ということに結論を出したかった。もう齢七十八だからいずれ見れなくなるという希少価値、人間国宝という一応の肩書きの現在地、どんな間で話すかという技術的な面。そういったものを享受できるのではないかという淡い期待を胸に、私は柳家小三治師匠を見ることに決めていた。無いと言えば嘘になるが、「死ぬ前の柳家小三治を見たことがある」という事実が、後々胸を張って威張れるのではないかという、実に矮小な見栄を得たいという欲求もあった。それらを含めて、私は鈴本演芸場に入った。

会場は予想通りの超満員である。常連が多い。そして何より落語通が多いように感じられた。中央の後ろ側に初めての客っぽい層が多く、中央前列は常連、左右は落語通という布陣に感じられた。こういう寄席は大体の場合笑いが少なく、玄人好みで演者達も苦労するだろうなぁ。という印象である。特にトリが柳家小三治師匠という人間国宝であるから、そこに対する期待感が半端ではなく、もはや見慣れた寄席芸人は軽く流されてそそくさと消えて行く。久しぶりにそんな玄人の寄席に来たなぁというのが、私の客層に対する印象である。今のところ、同じ雰囲気を持っている落語家に出会ったことはない。

かくいう私も、お目当ては柳家小三治師匠である。それ以外は大変申し訳ないがオマケという印象になる。ただ淡々と寄席特有の演者達のリレーが続き、柳家小三治師匠が出てくる。当然、待ってました!の掛け声をかける者もいる。だが、ここで私はやはり何か一種独特の違和感を感じた。その違和感の正体を暴くために、文字を費やそうと思う。

ゆったりと柳家小三治師匠が歩いてくる。座布団に座って客席に頭を下げる。その時に、私は他の若い落語家さん達に対する思いとは別の感覚を抱いているような気持になった。

一つは、そう寿命が長くないということを感じさせたという点。そこには漲る生命力というものはなくて、ただ普通のお爺さんが着物を着て出てきただけという雰囲気があった。ところが、拍手はその何倍も勢いがあって、そこに何か違和感があった。ただ普通のお爺さんに対する反応じゃないよな、この拍手。という感じがしたのだ。

真打昇進したばかりの若手に向けられる拍手と、柳家小三治師匠に向けられた拍手は、大きさとか勢いとかは似ているのだけれど、そこに籠る思いは大きく異なっているように感じられた。若手真打に対してはこれからの未来への期待とこれまでの労いを込めた拍手に感じられた。ところがどうにも、柳家小三治師匠には一体何を期待しての拍手なのだろうという疑問が生まれた。これは単純に凄い物を見せてくれるという期待なのだろうか。でも、どこからどう見ても凄い物を見せてくれるというような風貌ではない。少なくとも私にはそんな風に感じることが出来なかった。

例えば、これが二十年前だったら印象は違っていたのかも知れない。その頃の柳家小三治師匠が発揮していたものと、今の柳家小三治師匠が発揮していたものは異なっていると思う。だが、それを明確に比較することは出来ない。柳家小三治師匠が若い頃に生の体験をした者でしか、それは判断することが難しいと思う。一つ言えることは、50代の頃には50代の頃の良さがあるように、今の柳家小三治師匠にも今の柳家小三治師匠の良さがあるのだ。それが私にとって良いものか、悪いものかということは、まだはっきりとはしない。

自分にとって何が良いとか悪いとかいう判断というか、自分が何に対して良いと感じたかということは説明できる。柳家小三治師匠においては間、だ。言葉を発するリズム、その拍、余白、湯飲みを飲む時間、物事を考える時間、演目へと話を繋げる時間、そして演目が始まった後の間、全てが小三治師匠の間なのだ。他の誰にも真似のできない間だと思う。けれど、それが私には少し冗長に感じられる時間があった。

早く演目を聞きたいという私の勝手なワガママもあったのだろう。おそらく、それが小三治師匠のマクラを冗長だと感じた一番の大きな原因だったと思う。要するに私が大ネタを期待してしまったのが良くなかったのだ。なんて欲張りだったのだろうと自分を恥じた。一期一会とは言いながら、やはり人間国宝に期待してしまう自分が情けないと思った。

そんな中で、やはり冒頭のマクラは印象に残った。ごく当たり前のことなのだけれど、改めて柳家小三治師匠から言われると、そうだよなぁ、と思う。

人が良いとか悪いとか言っても、結局は自分で良いと感じるか悪いと感じるか、そこにその人の感性があるのだということ。ちっぽけでありきたりな哲学かも知れないけれど、小三治師匠の間と声で言われると胸に迫るものがあった。

小中高校のお話をされてから、趣味の話をふって、演目は『野晒し』。節が良くって気持ちがいい。感動するほどのものではないけれど、静かに朗らかに終わっていった。

なんだろう。柳家小三治師匠の落語を聞いていると、自分というものが見えてくる気がするのだ。自分が何を好み、何を良しとし、何を悪しとしていたか。そういったことを考えるきっかけを頂いたように思う。

 

別冊太陽という雑誌で柳家小三治師匠の特集をやっていた。掴みどころが無いなぁ、と思う反面、小言めいたことも仰られていた。でも、詰まる所、人から何を言われたって、自分がどう感じたかの方が大事なのだ。

もちろん、柳家小三治師匠に何かお告げのようなものを言われたら、その通りだと思うかもしれない。その通りだと思うことは間違いではないし、悪いことでもない。同じように、そんな訳ないじゃん、言ってることは全然違うよ、と思うことも間違いではないし、悪いことでも無いのだ。

何が正しいとか正しくないかというのは世間が決めることではなく、自分自身が決めること。だから、自分が正しいと思う方を選択することが正しいし、自分が正しくないと思う方を選択することが正しくないのだ。ん?ちょっと違うかな(笑)

こんな当たり前のことを頭ではわかっていても、いろいろな問題が起こる。未だに誰かと誰かは喧嘩をしていたり、何かと何かはしょっちゅうぶつかって傷つけあっている。酷いと思ったんです!と発言したら、顔の知らない人達が「それは酷いね、それは酷いね」と言って助けてくれて、酷いと思った人がひとまず安らぐ社会もある。

でもそれはただ単に量の問題であり、量が質を決めている状態だと思うのだ。見知らぬ人にお尻を触られました。最悪ですよね、触った人の顔を晒します。と言ってネットにお尻を触った人の顔があげられる。それを見た大勢の人たちが「酷い」とか「個人を特定しました!」と言って躍起になる。でも、それってどっちの方が酷いとか、一応の目安はあるけれど、どっちが悪いって最終的には言えないんじゃないだろうか。その境界って実はとても曖昧なものなんじゃないだろうか。

何か、そういうドツボにはまっていきそうなことを考えさせる柳家小三治師匠の高座だった。本当はそんなことなど一切気にせずに、良いも悪いも含めて気楽に生きられたらいいなぁ。なんて思ったりもするのだ。

最後に、私は柳家小三治に何を期待していたのか?きっと大ネタであり、痺れるような感覚だったのだと思うのだが、今日の高座を見た感じでは、どうやら柳家小三治師匠からそれを得るよりも、文菊師匠や伸べえさんの方がそれを得られそうな気がするという結論に至った。それはきっと自分の感覚なのだと思う。今の自分の感覚が柳家小三治師匠とフィットしなかったのだと思う。もしかしたら、どこかのタイミングで、柳家小三治師匠の演目からそういう感覚を得られるかもしれない。でも、それは激しく追うほどのものではないという結論に至った。それを知れただけでも、私にはとても幸運なことである。

鈴本演芸場を出ると、テレビクルーの人たちが感想を求めていた。私はスルーして家路についた。

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演者と演目、その一期一会について 2018年10月3日

レストランに入ってメニュー表を眺めていると、美味しそうな料理の写真が幾つも載っている。別のテーブルにいた家族が嬉しそうな表情でメニューを指さし、料理の名前をウエイターに告げる。およそ満足できると想像される料理が運ばれてくるのを楽しみにしながら、その家族は楽しそうに会話をしていた。おそらく会社員であろう眼鏡をかけた男性、子育てに忙しくて少し太り気味の女性、わんぱくな男の子、まだ恥ずかしがり屋の店を閉めない女の子。

待ち望んだ料理がやってくると、家族は会話を楽しみながら料理を食べ始めた。明るい団欒の家庭を横目で見ながら、私は一人ペペロンチーノを食していた。

人と人との出会いは、不思議だ。何の前触れもなく人は人と出会う。出会ってしまったら最後、もう二度とお互いに出会う前には戻れないのだ。こんな詩がある。

 

あなたがその気で 云うのなら
思い切ります 別れます
もとの娘の 十八に
返してくれたら 別れます

 

同じ場所にいて、目と目が合って、言葉を交わしてしまったら、或いは、言葉を交わさなくても、ふとした時に見かけたというだけでも、それは出会いなのだと思う。もう出会ってしまったら仕方が無いのだ。望むと望まざるとに関わらずやってくる出会いに、人は互いに抗うことはできない。

人生における人との出会いは、レストランのメニュー表のそれとは大きく異なる。相手がどんな人間かということを、互いに知らないまま出会うのだ。メニューを選んで満足できる出会いがある場所もあるにはある。そういうシステムの場に行けば良いだけの話だが、往々にして人生はそう都合良くは進まないものだ。少し互いに時間を過ごしてみて、何となく互いの氏素性が分かってきて、初めて安心して互いに友好な関係を築くことができる。出会いには、そういう側面がある。

 

さて、落語はどうだろう。落語に関わらず日本演芸は全て、レストランでメニュー表を選んで、自分が好きな物を好きなだけ食べるといったことは難しいのだ。少なくとも、自分がレストランのオーナーにならない限り、自分の望むもの全て食すことはできないと私は思っている。

特に寄席がそうだ。演者の顔はその日によって変わることもある。さらには、演者が何の演目をやるか、こちらが指示することは出来ない。出てきた落語家に向かって「文七元結をやれ!」とか、「狸札をやれ!」などと強制することは出来ないのだ。演者は舞台に出て、その場の客席の様子を伺って演目を決める。中にはネタ出しと言って演者と演目があらかじめ決まっていることもあるが、それで満足できるかは聞き手にも演者にも分からないのだ。全ては一期一会、その場の空気が形作るものだと私は思っている。

自分が指示することが出来ない環境というものを許容できなければ、演芸を楽しむことは少し難しくなるだろう。例えば、好きな演者が寄席でトリを取っている、まだ自分の好きな噺を聞いたことがない、今日それをやってくれないだろうか、ああ、今日は違う演目だ、うーん、残念だ。という事態になることだってあるのだ。というか、そういう期待はせずに行く方が演芸を楽しむことが出来ると思う。

演者が生きている間に、自分はどれだけその演者に接することが出来るのか、どれだけその演者の演目を楽しむことが出来るのか、これはもう全く自分にも演者にもコントロールすることが出来ない代物であって、本当にコントロールしたければ演者とは客と演者ではなく、主催者と演者になるしかないし、主催者になったからと言って演者が応えてくれるかどうかはまた別の問題である。

だから私は、一期一会を大事にして寄席に接するようにしている。変な期待をすることなく寄席に行く。確かに私の好きな噺をやってくれないかな、と思うことはある。でも、それが叶わなくても私が好きな演者は皆、私の最初の期待を遥かに超えたものを返してくれるのだ。その体験が嬉しくて寄席に通っている。もしも、私の好きな噺をやってくれたら、それこそ感涙して聞くだろう。

人の時間は有限である。その有限の中で出会うことのできる話もあれば、出会うことのなかった話があるのは当然である。そうだ、立川左談次師匠の話をしよう。

 

今年の3月に亡くなられた立川左談次師匠。67歳の生涯で私は二席だけ聴くことが出来た。いずれも渋谷らくごで、演目は『厩火事』と『妾馬』の二席。

「この日のために一所懸命に覚えたんだ」

そんなことを言って『厩火事』をやった左談次師匠の後で、文菊師匠は『死神』

「迷惑をかけてませんかね」

そんなことを言って、『妾馬』をやった左談次師匠の後で、小八師匠は『らくだ』

どちらも流れるようなリズムと声調、そして何より嬉しそうな笑顔が素敵だった。少し暗い筈の照明の中で、輝くような左談次師匠が印象的だった。

初めて左談次師匠に出会った時に見た『厩火事』の前、やけに会場の拍手が大きいのと、客席の温かさに驚いたのだが、後で癌を患っていたのだと知って驚いた。あんなに笑顔が素敵でさっぱりとしていて、江戸の風を吹かせる粋な落語家が癌を患っているなんて信じられなかった。どうしてももう一席見たくて『妾馬』を見た時、感動というよりも、そのさっぱりと冷たい蕎麦を食べているような感覚がとても気持ちが良かったのだ。ガツンっとくるというよりは、むしろ後を引いて癖になっていく感じに近かった。その『妾馬』の後で、まるで柳家喜多八師匠が乗り移ったかのような小八師匠の『らくだ』に鳥肌が立ったことは今でも覚えている。ああ、凄いリレーを見てしまったというのが、今でも私の脳裏に残っている。

このような出会いは、本当に奇跡としか言いようがない。たまたまチケットが取れて、その場所に行くための時間が出来て、席に座る。そういう体験がまるで何かに突き動かされていたのかも知れないと思うほどに、人と人との出会いというものは不思議なものだと思うのだ。

左談次師匠の声が出なくなり、晩年はサイレント落語をやっていたのだが、残念ながらそれを見ることは叶わなかった。それでも、あの美しい調べで話される落語には確かに左談次師匠が生きていたように私は思う。

左談次師匠の話をしたならば、歌丸師匠の噺もしなければならないだろう。笑点で司会を務めていた緑色の着物の落語家と言えば誰でもわかる筈だ。

そんな歌丸師匠が亡くなる前、新宿末廣亭のトリに顔付けされていた。楽しみだなと思って末廣亭に向かうと、体調不良で欠席とのことで会うことは叶わなかった。笑点メンバーで見ることが出来なかったのは、歌丸師匠だけになった。

出会わなかったことも運命であるとするならば、時にその運命を恨むこともある。私は古今亭志ん駒師匠も、三遊亭圓歌師匠も生の高座を拝見することが出来なかった。もっと言えば、古今亭志ん生三遊亭圓生だって見ることが出来ていない。この運命をどう捉えたら良いのだろうと思った時に、神田松之丞さんの言葉がよみがえる。

 

芸ってのは今なんだよ

 

松之丞さんの『中村仲蔵』に出てくる登場人物の言葉。一期一会の結論はそこに行きつくのだと思う。どんなに時代が過ぎても、どれだけ名人と言われる人が過去にたくさんいたとしても、今、この現代を生きている演者の芸こそが至高なのだ。音源で聞いても、DVDで映像を見ても、やはり生で、その場で、自分の目と耳と全身で味わった演芸には、何も敵わないのだ。だからこそ、限られた時間の中で自分の時間を演芸に触れることに費やし、良き芸と演者を体験することが、日本演芸を好む私にとって必要なことなのではないかと思った。

後悔しても遅い。演者は日に日に成長していく。その今をしっかりと見届けることが大切なのだ。それが自分にとって何が良いかと言えば、それは人それぞれに答えがあるる。

一つの演者の、一つの演目を見ても、一人の人間が考えることは、他の誰かが考えることとは必ずしも同じではなく、聞いたものの数だけ、演芸に対する思いは生まれるのだ。そしてその思いを言葉にしていくことを、私はこのブログで続けていきたいと考えている。

明日はどんな素晴らしい演芸に出会うことが出来るのかとても楽しみだ。演者と演目、その一期一会について、今日は記した。

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天国で見守る歌丸師匠とともに~2018年9月30日 芸協らくごまつり~

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私もそろそろあの世へ行きますが、私の死因は『孤独死』です。昇太と一緒で『孤独死』です。

 

いいですか皆さん。これから八歳の子と三十五の講談師の勝負ですよ。私の講談が果たして八歳の子に届くのか!

 

金の目でダルそうにしているっ!

 

笑いで雨を吹き飛ばそうぜー

台風接近中の9月30日朝、寒いし雨降っているのは嫌だなぁ、と思いながらも、そう言えば芸協のらくごまつりって行ったことないんだよなー、と思い立ち、レポートも書くついでに見に行こう。ということで、電車を乗り継いでやってきました『芸能花伝舎』。

10時前だというのに物凄い行列。会場前には緑色の服を着た方々がパンフレットと一緒にアンケート用紙を配ってくれた。このアンケート用紙は福引券になっていて、きちんと回答すると福引を行うことができる。

10時の開場とともに芸能花伝舎の正門、入って右には『こてきとー隊』という楽団が演奏をしていた。雨はまだ幸い降っておらず、外で演奏することが出来ていたようである。どどっと中に入っていくのかと思いきや、入り口すぐのところに『ホール落語のチケット売り場』があって、その行列に並ぶ。今回のお目当てはC2ホール第二部の神田松之丞さんの会と、午後のC1ホール第四部の桂伸べえさんの会だった。

チケットを購入したら、何やら人だかりの多い方に向かった。初回の場合は人がたくさん集まっているところに行くと良い物が見れるという経験則に従って見に行くと、早速開会の挨拶をしている。ざっと見えたのは米福師匠、市馬師匠、米助師匠、小遊三師匠、昇太師匠の錚々たるメンツ。歌丸師匠のお話をされながら、市馬師匠も一節どころじゃなく歌っていた。落語協会落語芸術協会の垣根なく、和やかな開会式だった。

終わって、私は即座に体育館に向かった。サインラリーに参加するためと、福引を行うためである。200円でスタンプラリーの用紙を頂き、福引券を渡してクジを引くと色は紫。商品の中から色紙引き換え券を頂くことにした。

体育館の前には『ゴミ捨てーション』なるゴミ捨て場があって、そこにカッパを着た筆者激推しの桂伸べえさんがいた。お、ゴミの分別係なんだなぁ、と思ってお声がけをさせて頂き、早速サインを頂戴した。将来有望な物凄く面白い二つ目の落語家さんである。この後のホール落語でも語らせて頂こう。

文治師匠のサインを頂き、近くにあった神田松鯉先生がやっている『見世物小屋』に入る。入場料200円。実にくだらない言葉遊びの見世物だったが、とても面白かった。こういうくだらない時間を共有できるところに素晴らしさがあると思っている。松鯉先生との距離も近くて驚きだった。御年76歳。物凄く活力のある方である。

見世物小屋が終わるとすぐに行列が目の前に飛び込んできた。見ると今をときめく神田松之丞さんがサインを書いている。すぐに列に並んでサインを頂き、出番を終えた松鯉先生にサインを頂いて、神田松鯉一門の親子揃ってサインを頂戴する。

サインラリーの性質上、12人に貰わなければならないという意志が働くが、私は個人的に好きな落語家さんだけを貰いたかったので、サインを頂く落語家さんは限定することにした。

そうこうしている間に、C2ホール第二部が始まるということで列に並んだ。雨も本降りになっておらず大変に動きやすい。12時に開場してすぐに席に着く。好位置に着いたぞと思いながら松之丞さんの出番を待つ。

開始時刻になって松之丞さんがゆったりと登場。見世物小屋のマクラから、お決まりの講談体験マクラ、そして寄席ではお馴染み『和田平助』。この話に入る前に、松之丞さんは前列にいる男の子の歳を聞いた。八歳と答えた男の子に向かって松之丞さんは「今からは勝負ですよ。八歳の子に私の講談が届くかどうかの勝負です!」というようなことを言ってから、話に入った。

じっくりと丁寧に理解しやすいように説明をしながら、クライマックスまで盛り上げていく話術はさすがの一言。短い話でさえ凝縮された松之丞エッセンスたっぷりで、特に短刀を振り下ろす和田平助のシーンは念入りに説明し、七色の声と表現しようか、声色を巧みに変えながら景色を描写していく。そして最後に「お時間がいっぱいいっぱい」と言ったところで拍手。松之丞さんは八歳の男の子に向かって「私の講談、どうだった?」と聞くと、男の子は照れながら頭を横に倒す。それを見た松之丞がすかさず「私の講談を見た男の子!」と言って先ほどの男の子の真似をする。楽しそうに笑いながら松之丞さんは「精進して参ります」と言って下がっていた。テレビでどれだけ持て囃されても、ひたむきに芸に励むお姿。普段はラジオでパーパー悪口ばっかり言ってると思われがちな方も多いと思うが、本当は心遣い、お客様への配慮、そして講談師として真剣に取り組んでいることは、言わなくても松之丞さんに接した方なら誰でも思うはずである。

芸協らくごまつりは、そんな芸人さんの一面が見れるから素敵だ。普段、高座からではなかなか分からない素の姿を見ることができる。実に良い機会なのだ。だから、寄席に行っている方はもちろん、芸人さんにもっと近づきたい方は是非ともオススメである。

さて、松之丞さんの後はコント青年団。この二人も寄席ではお馴染みのネタ。時事ネタを絡ませつつオチまでふんわりと終わっていった。トリは三笑亭夢花師匠。ハリー・ポッターのドビーそっくりのゴブリンっぷりで『饅頭怖い』。くだらない小噺を畳み掛けて行くスタイル。そのくだらなさが面白い。三人出て1000円。連雀亭に行って見ていると思えば安いものである。

終わってから外に出て、再びサイン集め。ここまでで桂伸べえさん、桂文治師匠、神田松鯉師匠、神田松之丞さんの4人にサインを頂いている。サインラリーは12人で一枚のため、後8人。お気に入りの師匠を探してサインを頂く。池袋演芸場でとても楽しい『宿屋の仇討ち』を見せてくれた桂伸治師匠、爆笑のマッドマックス、三遊亭笑遊師匠、深夜寄席で最高の開口一番を務めた春風亭柳若さん、独特の声と間で力強い桂小南師匠、どこかで聞いたことはある春風亭柳橋師匠、笑点では泥棒キャラでお馴染み三遊亭小遊三師匠に頂く。

そういえば福引券で頂いた色紙を引き換えていなかったと思い、寄席文字のお店に行って引き換えてもらう。書いて頂く一文字は『伸』の字にした。何かと伸の字には思い入れがある。特に桂伸治師匠の一門は私が激推しの伸べえさんがいるので、その字をチョイスした。

それから豚汁を頂いて、体育館でしばらく休憩。休憩が終わって外に出ると黒山の人だかり。何だろうと思って見ると三遊亭円楽師匠がやってきていた。肺がんを公表された後で、10月から入院するらしい。即座に写真を撮って、サインも頂きたかったのだが、何せ物凄い人だったので断念する。

ホール落語のC1ホール第四部のチケットを入手するためチケット売り場に移動。無事に桂伸べえさんの会をゲットすると、近くに三遊亭遊子さんがいた。この人も伸べえさんと並んで期待の二つ目さんである。遊三師匠の弟子ということだが、声も良いし、何より聴いていて気持ちのいいリズム。大工調べなんかやったら最高だろうなぁ。と思いつつ、今後が楽しみな二つ目さんにサインを頂く。

これでようやく11人。最後は瀧川鯉八さんに頂いてサインラリー終了。サインラリー抽選会に参加して、末廣亭の割引チケットを頂く。

再び舞台の方に向かうと、浅草ジンタというバンドの演奏が始まろうとしていた。黒いスーツの美しい佇まいで、ちょっと古めかしい雰囲気の曲を演奏する。司会の瀧川鯉朝さんが一所懸命に司会をされていた。

この辺りから雨がぽつぽつと降り始めてきた。素早く第4部の列に並ぶ。芸協らくごまつりはスタッフさんがとても親切だ。落語協会では殆どを落語協会所属の落語家さんがスタッフとして働く中で、落語芸術協会は一般の方、大学の落研のボランティアの方と思われる方の働きがとても素晴らしい。「開演まで時間があるのでおトイレは大丈夫ですか」とか、「チケットはご購入されていますか」とか、列に並んでいる時に声をかけられた。とにかく祭りに来ていただいたお客様への心配りが素晴らしい。そんな皆さんに支えられて芸協らくごまつりは開催されているのだなぁと感心した。

さて、開場時刻になってホールに入る。好位置、問題なし。開口一番は桂伸べえさんだ。もうかなりファンなので、これだけ多くのお客さんが入っていると、「思いっきり、伸べえさんらしさをぶつけて!」とめちゃくちゃ応援態勢になっている自分に気が付く。伸べえさんには不思議な魅力があるのだ。私の笑いのツボにドハマりしているのもさることながら、声の調子と間がとにかく面白い。しかも、最近の高座ではメキメキと勢いが増しているように感じるのだ。これはもしかすると私だけのなのかも知れないが、格段に落語が上手になっているというか、今まで以上に弾けてきていて、伸べえさんらしさが全開なのだ。日に日にアップグレードされていくネタの数々に笑いと興奮を覚えている私がいる。と同時に、大勢のお客様に少しでも伸べえさんの良さが届いたらいいなー、と思いつつ私自身も非常に楽しんでいる。

出囃子が鳴って舞台に座り、桂伸べえさんが話し出すと、もうそれだけで全てオッケーなのである。

「笑いで雨を吹き飛ばそうぜー」

という他愛のない動きも、お決まりの小噺もとにかく面白い。なぜ面白いのかというと、やはり私の期待を上回ってくるところだと思う。他の客にウケているとこっちまで凄く嬉しくなってしまうのだから不思議なものだ。本当に深夜寄席で初めて桂伸べえさんの『宿屋の仇討ち』を見て以来、魔法にかかったようにずっと期待を裏切られず、むしろ爆笑に次ぐ爆笑を巻き起こしていくのが桂伸べえさん、その人なのである。

そして『狸札』。これも明るくて元気があって、かつ間が面白い。下手をすればちっとも面白く無い話になりがちな話を、とにかく面白い落語に変える伸べえさん。これはもはや天性の素質があったと言っても過言ではない。未だにこれ以上面白い『狸札』に出会ったことが無い。まだ未体験の方には是非とも見て頂きたい。

最高の拍手で舞台から下がっていく伸べえさんの後で、マグナム小林さんのバイオリン漫談。もはや寄席常連の私には見慣れた芸である。

トリで出てきたのは三遊亭小遊三師匠で『夏泥』。これも小遊三師匠らしいさっぱりとした落語で、文蔵師匠や三三師匠とも違う、非常にさっぱり感のある演出だった。それでも小遊三師匠独自のアレンジが随所に光っていて、ああ、こういう芸が出来るようになってくると、いよいよ老練な真打なんだな、と思わせるほどに静かに江戸前な落語だった。

ホールを出ると大粒の雨。伸べえさんにお声かけをして帰ろうと思ったが雨が酷かったのですぐに帰った。

道中、頂いたサインを眺めてにやにやしながら家路についた。

 

総括すると、去年は歌丸師匠がまだご存命で、それはそれで盛り上がったようである。私も行けばよかったと後悔したが、今日の芸協らくごまつりもそれに劣らず大盛況だったのではないかと思う。何より、期待の二つ目が着々と育っている。今の二つ目さんたちが無事に真打を迎えるころには、落語芸術協会はさらなる発展と盛り上がりを見せてくれる筈だと信じているし、事実そうなるだろうという確信が私にはある。それをどこまで見届けることが出来るかは天運であるけれど、少なくとも見に行くことが出来るうちは、見に行きたいと思っている。

今日も寄席のご常連の方々もちらほらと見えた。特に女性が多いなぁという印象である。そんなご婦人方に見守られ、そして天国にいる歌丸師匠に見守られ、芸協らくごまつりは幕を閉じた。

次回は5月26日(日)だそうで、来年が楽しみだ!

 

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【図解】私が思う落語の面白さ 2018年9月25日

ふとしたきっかけで松之丞さんと新宿末廣亭の席亭、北村幾夫会長の対談の記事を見る機会があった。北村会長のお言葉にがっつり共感したので、そういうところを書いて行きたいと思う。

さくっと北村会長についての私の感想はと言えば、深夜寄席に行くと必ず見る人である。優しいお声と丁寧にお客にご説明をしていらっしゃるお姿を見ていると、恐らく誰もが(あ、この人席亭さんだな・・・)と察することが出来る人物で、これと言ってオーラがあるわけではないのだが、落語家さんとの接し方、お客様との接し方を見ているだけで分かるような人である。

おそらく上野鈴本演芸場浅草演芸ホール池袋演芸場に行っても中々(あ、この人席亭さんだ!)と察することは難しいと思う。上野鈴本演芸場に関しては若旦那が謝楽祭に出ていたりするのでわかるとは思う。そういう意味では、お客さんに身近な席亭さんが北村会長だと思う。直接お話をしたことはなく、私のようなコワッパが話しかけてお仕事の邪魔をしてしまっても悪いと思って、深夜寄席に行くたびに、あ、今日もいらしゃるなぁ。と思うだけに留めている。

そんな北村会長のお言葉を聞いていると、とても含蓄があるというか、寄席に関わってきた人の言葉だなぁという感じがして、それを引き出している松之丞さんも凄いのだけど、やはり席亭は群を抜いて寄席の見方が違うのだなぁという感じである。

私のブログを見る以上に、北村会長との対談記事を読んでいただいて感じ取って頂けると良いとは思うのだが、上記に引用した言葉はまさしく私が思っていたことを見事に表現していた。

 

落語家には本当に様々な個性のある人がいて、その個性にフィットするかどうかは人それぞれである。以前、ブログに書いたとも思うのだが、落語に上手下手という概念は無いと思っている。その瞬間の、その芸こそがその人の最大限の表現なのであって、それは決して他者と比べられるものではない。だから、自分の思う素晴らしい落語家だけを追えば良く、それを他に強制する必要はない。常連のファンの中には一部の落語家に強烈な思いを寄せていて、それを他人に強要する人がいる。「私が〇〇さん好きなんだから、あなたも好きになりなさいよ」とか「あなた〇〇さん嫌いだもんねー、それじゃあ、仲良くなれないなー」という人もいる。そういう人達は完全に無視して頂いて、自分が好きなものを「好きだ!大好きだ!」と思っていれば良い。強要せずに、私のように「なぜ好きなのか?」ということをこうやってブログに書いていれば良いと思う。

 

さて、では私の例を出したいと思う。まずは古今亭文菊師匠。この人について語るのはまだまだ怖くて書けないのだが、私にとって『落語ド真ん中』の人が古今亭文菊師匠なのだ。私の思う理想、私の中での江戸落語の全てが古今亭文菊師匠がやる落語なのだ。他と比べてどうということではないし、そんなのありえない!という人もいるだろう。それでも、私にとって落語そのものというか、土台にある落語は文菊師匠なのである。だから、本当にもう文菊師匠の禁断症状が出るくらい、月に必ず1回は観ないと発狂しそうになるほど見たい!聞きたい!と思ってしまうことがあるのだ。

そして、鑑賞のあとで「ああ、やっぱり落語はこれだよねー」と一人ごちるのが、文菊師匠なのである。古典落語を正しく広げている師匠なのである。

この文菊師匠のベーシックを通して様々な落語家を見ることになる。そうなると、よほどの個性が無い限り、この丸を正しく広げようとしている人には興味が惹かれないのである。むしろ、この丸から飛び出して新しい挑戦をしている落語家に心惹かれてしまうのである。

 

そんな、新しい挑戦を続けている落語家の中で、桂伸べえさんは私にとって図のように捉えることが出来る。古典落語をベースとしながら、自分なりの言葉やくすぐりを挟み込んで爆笑を誘う。その姿勢に凄く感銘を受けるのだ。二つ目さんの中には文菊師匠のように丸を均等に、正しく広げようとしていると私が思っている人が多い。もしかすると伸べえさんもそうなのかも?と思ってしまうのだが、どうやっても伸べえさんがやると、私にとっては図のように感じられてしまうのだ。なんというか、普通の古典が刷新されていく感じがして気持ちがいい。その古典からはみ出してズレた部分が物凄い面白さを感じさせるのだ。以前、twitterで流行った2つのどことなく似ている感じの画像を並べると面白いというような、その差異が物凄い爆笑を生むのである。

あくまでも『古典落語の面白さ』とはその人にとってという意味であるから、私のように完全な円である必要も無い。この基準はたくさんの落語家の話を聴いていくうちに出来上がっていくものだと思うのだ。

 

そして、最後に新作落語。これは本当に個性にフィットするかどうかが鍵になっていると思う。全然自分の感性にフィットしないと面白く無いというか、「え?なんでここで笑えるの?」というような現象が起こる。新作落語はそこが難しい部分だと思う。全てが全て満点に面白いというわけでも無い(そういう落語もあるのかも知れないが)し、自分の感性が問われてくる。もちろん、安定した面白さを満たした新作を続けている落語家さんもいらっしゃるが、古典落語のように歴史があるわけではない。それでも、一つの笑いの形として時代に合わせて変化していく。新作落語には、そんな宝くじ的な当たれば超爆笑、外れれば超失笑という事態になることが良くある。

 

こんな風に図に書いてみると、自分がどう思っていたのかということが良く分かる。北村会長のお言葉によって、改めて自分の落語観というか、どういう気持ちで好きな落語家さんを追っていたのだろうと考えることが出来た。

あなたにとっての素敵な落語家さんは、どんな図になりますでしょうか。是非お聞かせくださいませ。

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志ん駒駅始発、真打行き~鈴本演芸場2018年9月23日 古今亭駒治 真打昇進披露興行~

 

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 「おう兄(あん)ちゃん、飯食おう。すごい定食屋があるんだ。
目白にしかないから、ついてこい」。

 

「鉄道戦国絵巻」も、創ったときは誰も笑わないと思いましたもん。

 自分の趣味だけだなと。

 

誰も歩んだことのない道にようやくレールを敷きました。皆様、どうかこの駒治に末永くご乗車頂けますようお願い申し上げます。

 

駒治線 志ん駒駅始発~志ん橋駅経由~真打行き 本日出発致します。

 

長い行列が鈴本演芸場の前に出来ているのを目にしたとき、長い長い修行期間を終えて、真打として立派な門出に立った一人の落語家の全てがあるように思えた。

並ぶ人達の顔を見ていると、実直で真面目な鉄道員のような60代前半の紳士や、電車が大好きそうな30代と見られる男性、駒治師匠を優しい表情で待ち侘びているご婦人の集団、一言で言えば、鉄道ファンとしての品格を纏ったお客様が多いように思われた。

しばらく列に並んでいると、急に女性の歓声が上がる。見ると、紺色のスーツを着て、赤地に電車の刺繍がされたネクタイをした古今亭駒治師匠が、白いアタッシュケースを引きながら丁寧にお客様に挨拶をされていた。どれだけ嬉しい心持ちなのだろうと駒治師匠の後姿を見送る。列に並んだお客様の温かい目が印象的であった。

駒治師匠の真打披露興行は前売りで完売。なかなか珍しいことだ。それまでに培ってきた駒治師匠の落語に、多くの人が魅了され門出を祝いにきた。この事実が駒治師匠の凄さを物語っている。新作派として鉄道落語に限らず多くの作品を作ってきた。『十時打ち』、『鉄道戦国絵巻』、『公園のひかり号』、『CO-OP』etc...、林家彦いち師匠に駒治師匠は「新作だけしかやりません!」宣言をして「それはまずいでしょ」と言わせたという伝説がある。

古今亭駒治師匠の魅力は何かと問われれば、私はその流暢な口調であると答える。今年の1月に亡くなられた古今亭志ん駒師匠のリズムを引き継ぎ、畳み掛けるように言葉を発して観客を乗せて行く。そこには、駒治師匠のDNAにまで染み渡った列車のリズムが混ざり合っているように思える。飄々としているようで内心は緊張しているのかもしれない。駒治師匠の心の奥底までは垣間見ることができない。それでも、耳馴染みの良いリズムに惹き付けられて、私はいつも古今亭駒治という列車に乗車してしまうのだ。

 

着席をして、ざっと席を見回す。やはり実直そうな方が多い。もしかして半分以上は鉄道員なのではないかと思うほど、きびきびとした動きをする客が多い。特に驚いたのは、真ん中の席に座っていた男性、すっくと席を立つと左右に並ぶお客様にほぼ90度の角度で頭を下げながら、「すみません。申し訳ございません。どうもありがとうございます」と言いながら、席に座るお客様の前を申し訳なさそうに通って通路に出て行く。なんて素晴らしいお心をお持ちなのだと感心をしていると、戻ってきて自分の席に座る時にも同じ動作をしていて、平身低頭、私も見習いたいと思った。

相変わらず前の方には常連のお客様が多い。古今亭駒治師匠の客層を知るためにわざわざ後ろの席に座るという涙ぐましい努力をしながら、私は舞台より手前、左右にある壁掛けの提灯に目を凝らした。9月に真打昇進をする新真打の名前と家紋が記された提灯が掛けられている。場内撮影禁止だったとは思うのだが、古今亭駒治師匠の名前と家紋が記載された提灯を多くのお客様が撮影されていた。今日くらいは無礼講だろうと思い、特に口出しをすることなくじっと見つめている。満席の場内が鉄道員の品格に包まれる。前の方にはご婦人方が多く見受けられ、どこでどう出会ったのか少しばかり気になったが、私はじっと開演時間を待つことにした。

 

初めて古今亭駒治師匠に出会ったのは、昨年の深夜寄席でのことである。トリで『十時打ち』をやったとき、まるで新幹線に乗ったかのような爆笑に包まれ、畳み掛けるような言葉と押し寄せる笑いに度肝を抜かれた。私はその時、あまり鉄道に詳しくなく、今でもさほど鉄道に詳しいわけではないのだが、そんな素人の私でさえ大笑いしてしまうほどの勢いで、古今亭駒次という二つ目の落語家がネタをやっていたのである。もはや真打の領域だと思っていたところに、今年の真打昇進が決まった。異議なしと思いながら待ち望んでいて、今日を迎えた次第である。

舞台の幕が開く。舞台の後ろの壁には古今亭駒治師匠の横断幕。さながらビールのような黄色い布地に、泡のような白い丸が描かれ、赤字にのの字の下をぐーーーと伸ばした文字の左に、古今亭駒治の文字。少し離れて正面左にはホッピーの白い文字があって、何か関係があったのだっけ、と思いつつ開口一番は柳家花ごめさんで『寿限無』。お綺麗なご婦人の戸惑いに会場が湧くアサダ二世のマジック。スケベな玉の輔師匠の『紙入れ』、渋くハスキーなお声の志ん橋師匠の『無精床』、バリバリにノりながらも時間調整を図るホームラン、文楽師匠の十八番で『権兵衛狸』、鈴々舎馬風師匠はお馴染み『楽屋外伝』、見たことを忘れなければならない翁家社中の芸、そして仲入り前に

さらりと正蔵師匠で『新聞記事』。

仲入りが終わって、いよいよ【真打昇進襲名披露口上】

ここで一つ、ハプニングが起こった。前座の柳家小ごとさんという、ウルトラマンに出てくる怪獣レッドキングに似ている落語家が、諸注意として「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスを終え、拍手を受けて去っていったあと、いよいよ口上の幕が上がるというタイミングで、

 

ピリリリリリリリリ

 

前列で携帯が鳴ったのである。会場中に苦笑いが起こり、どこからかちらっと「電源切っとけって言ったじゃないか」という声が聞こえた。

大切な披露目であるから、携帯の電源だけはどうかお切り頂きたいと切に願う。

 

さて、そんなハプニングの後で幕が上がる。舞台にはずらりと落語家が並ぶ。

左から、

 

五明樓玉の輔師匠 林家正蔵師匠 桂文楽師匠 古今亭駒治師匠 古今亭志ん橋師匠 鈴々舎馬風師匠 柳亭市馬師匠

 

錚々たるメンバーの中心でじっと顔をあげて真正面を見つめる駒治師匠。場内はいつ止むのか分からない程の拍手で包まれている。ざっと並んだ師匠達の口上を聞くと、玉の輔師匠は「口上見学」、正蔵師匠は「鉄道戦国絵巻を聞いて凄いと思った」、文楽師匠は「師匠、志ん駒も草場の陰から見守っているでしょう」、中でも一番良いことを言っていたのは志ん橋師匠。「誰も歩んだことの無い道にようやくレールを敷いて」という言葉に思わず涙腺が緩んだ。歳を取るとどうにも涙腺が緩んで仕方がない。

古今亭志ん駒師匠に憧れて飛び込んだ芸の世界。二つ目になって一心に突き詰めた新作落語の創作と葛藤。その全てを私は目の当たりにしたわけではない。それでも、今日まで諦めることなく、絶えず物語を生み出し続け、切磋琢磨しあった大勢の仲間に支えられて、今日、晴れの舞台を迎えた古今亭駒治師匠。その幸福な瞬間を鈴本演芸場の満員の場内で、客席、演者だけでなく、天国で優しく微笑みながら見守る志ん駒師匠が共有していた。

どんな気持ちで駒治師匠はいるのだろう。私は想像することしかできない。けれど、間違いなく駒治師匠の思いは大勢のお客様に届いたのだ。志ん駒師匠に連れられて入った大戸屋で、うどんとソースカツ丼のセットプラス麻婆丼を食べきることが出来ず、さん助師匠と文菊師匠に食べて頂いていた青年は、ヨイショの志ん駒と呼ばれた志ん朝のリズムを継いで、とにかく明るい芸風と、自衛隊時代の手旗信号を持ち味とした落語家に弟子入りし、その後姿を必死に追いかけて走り続けてきた。その一つの区切りとして、そして新たな始まりとして古今亭駒治師匠は今日を迎えたのだ。

前を走る先輩達も一切速度を落とすことなく走り続けている。柳亭市馬師匠は踊るような気持ちの良いリズムで『山号寺号』、圓歌襲名が決まった歌之介師匠は『お父さんのハンディ」で爆笑を巻き起こして去っていく。歌之助師匠は出てくる時に前座に向かって「いいじゃないの」と横断幕を指さして登場していた。

さぁ、大きな大きな真打たちと肩を並べ、これから駒治線を開業して走っていく真打はどんな落語を見せてくれるのだろうか。正楽師匠の後で、必死に紙屑を拾う柳亭市松さんがめくりを翻す。新しい文字で『古今亭駒治』と出る。

出囃子の『鉄道唱歌』が流れ、出番前の楽屋からは大きな歓声と手拍子。会場もそれにつられて手拍子。万感の拍手で持って迎えられた古今亭駒治師匠に向けられた「待ってました!」の掛け声。会場に集まった全ての人々が駒治さんの真打を祝っている。私はもう既に泣いている(笑)

 

「兄ちゃんよぉ、立派になったじゃねぇか」

 

そんな志ん駒師匠の言葉さえ聞こえてきそうな会場で、駒治師匠は両手で拍手を制止してマクラの話をする。学校寄席の話をしてから、寄席で良く掛けている『作文』から『鉄道戦国絵巻』へと話に入る。

やはりどこか飄々としている。志ん駒師匠の話とかお涙頂戴の話をするわけでもなく、ただ淡々と、あくまでも自らのリズムと姿勢を変えることなく、古今亭駒治師匠は自ら作り上げた話の世界を繰り広げ、そして爆笑を巻き起こしていく。底の見えない真打であることには間違いない。古今亭の風格を携えた駒治師匠の見つめる眼の先に、一体何が待っているというのだろうか。

鉄道戦国絵巻の内容は他に詳細を任せるとして、終わった後、鳴りやまない拍手を受けながら幕が閉じた。真打昇進披露興行はここからスタートなのだ。その温かい空気と、一人の真打の誕生を支える客席の姿をしかと目に焼き付けて、私は会場を後にした。

 普段、乗り慣れた電車にさえ駒治師匠の視点が介入する。鉄道、電車という私の知らない世界に、大きな笑いと知恵を見出した古今亭駒治師匠。この駒治線、一体どんな風景を我々に見せてくれるのだろう。乗車した乗客に素敵な光景を見せてくれる駒治線、さぁ、すぐに乗車券を買って乗り込もう。出発進行の歌を口ずさみながら。

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